第二節 そうだ、熊埜(くまの)へ行こう!

そうだ、熊埜(くまの)へ行こう! その一

 一九一九年四月 帝居 歓談室





 宮森から熊埜に旅立つむねを伝えられた多野 教授は、帝居の歓談室で瑠璃家宮るりやのみやの考えを拝承はいしょうしている所だった。


「殿下、熊埜になど向かわせて本当によろしいのでしょうか?」


「ふむ……。

 実はな多野 教授、根源教こんげんきょうの方から連絡が入った。

 大昇帝 派の者共が、熊埜山中で秘密裏に実験を行なう計画が有るそうなのだ。

 今こちらは綾の安定化で手一杯。

 実験とやらの阻止は叶わぬだろうが、偵察くらいは可能かと思ってな」


「しかし乍ら殿下、熊埜は大昇帝 派の一大拠点である高埜山こうやさんとは目睫もくしょうかん

 一筋縄では行かぬ土地ですぞ。

 それに宮森はやっとの事で見付けた貴重な持衰じさい

 その身に大事ありますれば……」


「良い。

 宮森にはあの二人を付ける。

 元より、宮森の助手に据えて監視させる積もりであったのだ。

 死ぬ事はあるまい」


「確かにあの二人ならば、宮森の命だけは無事かと存じますが……」


 危惧の念でしわが深くなる多野などつゆ知らず、瑠璃家宮の隣からは、屈託くったくのない明るい声が飛び出す。


あやも旅行い~き~た~い~。

 お兄様つれてって~」


 その身に邪神を宿した娘、綾である。

 現在妊娠五箇月弱で、華奢きゃしゃな体格からか下腹部が目立って来た。


 瑠璃家宮は綾の下腹部をさすり、優しくさとす。


「無事に出産を終える迄は駄目だ。

 いい子にしていてくれたら、御褒美をあげよう」


「ご褒美は~……お兄様がいい♪」


 そう言って、瑠璃家宮の首に両腕を回した綾。


 その瞳には、異魚にんぎょに変容している時と同じく、淫靡いんびな光がうるんでいた――。





 一九一九年四月 宮森の下宿 玄関前





 旅行に出立するに当たり、宮森は付添人つきそいにんとなる人物の来訪を待っていた。

 形式的には警護役となっているが、本来の目的は彼の監視である。


 宮森が三本目の煙草を吸い始めようとした時、その人物達は現れた。


 男女のふたり組で、男性の方から宮森に声を掛ける。


「宮森 遼一さんでいらっしゃいますか?」


「は、はい。

 自分が、宮森、遼一ですっ。

 あ、あの、善理教ぜんりきょうの……」


 善理教とは、宮森が所属している瑠璃家宮 派が、表立って活動する為に組織した宗教団体である。


「はい。

 私は善理教から参りました、【権田ごんだ 益男ますお】と申します。

 隣は妻の頼子よりこです」


「【権田 頼子】です」


「ご、ご夫婦で自分の旅行に、つ、付き添って頂けるので?」


 今度は頼子が答えた。


「私共夫婦は今年入籍したばかりでして、今回は皇太子殿下の方から『この折りに旅行でもしてこい』と、御諚ごじょうたまわった次第なのです」


「御迷惑かとも思いましたが、宮森さんは伝承学者を志しておられると御聞きしました。

 出来れば熊埜案内でもして頂けたらと、夫と相談の上、今回の御旅行に付き添う事にしたのです」


 夫婦で旅行に付き添うと言うので、宮森は半ば動転して権田 夫妻を眺めた。


 夫の益男は、背丈が有り体格も良い。

 男性としては、やや小柄でひ弱い印象がぬぐえない宮森と並ぶと、随分と頼り甲斐の有る見てくれと云える。


 妻の頼子は、女性としてはかなりの上背うわぜいの持ち主だ。

 宮森の身長も追い抜いており、夫婦で並ぶと夫の益男とほぼ変わらない。

 痩せ型だが、華奢と表現するよりは小股こまたの切れ上がった美人さん、とでも表現した方が適切に思える。


「それでは宮森さん、駅に向かいましょう」


「わ、分かりました。

 じゃあ女将さ~ん、行って来ま~す」


「はいよー、行ってらっしゃい宮森さん。

 あと、お土産忘れんといてよ~」


 益男のうながしで女将にしばしの別れを告げ、一行は早速駅へと向かった。


 洋装で洒落しゃれ込んだ権田 夫妻は、品の良い若夫婦と言った按配あんばい颯爽さっそうと通りを歩いて行く。

 頼子を見かけては、『異人さんか?』と一驚いっきょうする者も居た。


 その一方で、洋装ではあるものの宮森の見た目は実に冴えない。

 道行く人々が権田 夫妻と共に歩く宮森を見ても、華族か何かの従者だと思うだけだろう。


 そんな自分の状況を察した宮森は、溜め息をついて権田 夫妻の後に続いた。


 気を落とす宮森をおもんぱかってか、脳中の明日二郎が話し掛けて来る。


『なあミヤモリよ、あの夫婦どう思う?

 さっきふたりの精神に探り入れてみたんだけどよ、弾かれちまったのよねー。

 明らかにやり手の魔術師だぜ』


『なんでいきなりそんな事するんだよ……。

 お前の事がばれたらどうする。

 それに、精神感応で会話していて大丈夫なんだろうな?』


『そこは心配すんな。

 今、オイラとお前さんは直通回線を使ってる。

 内容が外部に漏れる心配は無い』


『話している内容が漏れなくても、精神感応自体がばれるかも知れないだろ』


『それはダイジョウブだと思うぜ。

 あのふたりは、誰彼だれかれ構わず思念波を送ったり、他の通信を傍受ぼうじゅ出来るタイプの魔術師じゃなさそうだ。

 よくて同族同士の通信のみだろう』


『同族?

 なんか嫌な響きだが……』


『アイツらに着いてんのはな、瑠璃家宮に着いてる邪神の眷属家来だぞ。

 いそ臭くてなまクセー臭いがプンプンしやがらー』


 明日二郎の言を受け、宮森は権田 夫妻の後ろ姿を霊眼れいがんで注視する。

 彼には、ふたりの両眼の間隔がやけに離れていると感じられた。


 宮森の視線に感付いたのか将又はたまた偶然か、夫妻が同時に宮森の方を振り返る。


 その宮森を見詰める彼らの眼は、人間らしい感情のことごとくが削ぎ落とされた、


 魚の眼であった――。





 一九一九年四月 和歌山県





 宮森 一行は、東京から和歌山市まで汽車で移動した後一泊。

 翌日には、和歌山の那知なちにまで足を延ばす。


 空きの有った地元の温泉旅館に逗留とうりゅうを申し出て、しばらくはこの旅館を拠点に、辺りを散策して回る算段だ。


 それと云うのも、南紀なんき地方は今年に入ってから記録的な大雨が続き地盤が緩くなっている。

 山で土砂崩れなどに遭遇しては具合が悪いので、地元でしっかりと下調べをしてから散策に出向く予定だ。


 宮森と益男が、これからの予定を話し合っている。


「宮森さん、今日は移動だけで潰れましたね。

 少し早い時間ですが、温泉にでも入りますか?」


「そ、そうですね。

 明日からの散策に備えて、今日はゆっくりしましょう……」


 宮森が笑顔で権田 夫妻と談笑している間、宮森の脳中では、現在進行形で明日二郎の歓声が鳴り響いている。


 余りの五月蠅うるささに、つい明日二郎に毒づいてしまう宮森。


『五月蠅いぞ明日二郎。

 温泉と料理は逃げないから、静かにしてくれ』


『おんせん、おんせん、初温泉♪

 ソノ後はお食事堪能たんのうだ~♪

 夜はムフフのお楽しみ~♪

 夫婦の~ねやを覗きます~♪』


『そんなことするか!』


 そんなこんなで、初めての温泉と御馳走を存分に満喫した明日二郎であった。





 翌日から一行は、東牟呂ひがしむろ地域の散策を楽しんだ。

 主な観光場所は那知の滝、熊埜那知神社、熊埜坐くまのにます神社などである。

 只、熊埜三山さんざんの一つである熊埜速玉くまのはやたま神社は、一八八三年(盟治一六年)に打ち上げ花火が引火したとの理由で、社殿が全焼してしまっていた。


 社殿跡は無残な焼け跡が残るばかりで、霊感の無い者が観たとしても残念がるばかりに違いない。

 しかし宮森の霊感には、花火の引火が原因ではない事がまざまざと感じ取れる。


⦅邪念の残留が濃い。

 この場所で何らかの闘いが行なわれたのだ……⦆


 今回の旅行は、宮森の霊力開発も兼ねている。


 宮森の確実な成長に、明日二郎も感心しきりであった――。





 そうだ、熊埜(くまの)へ行こう! その一 了

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