そうだ、熊野へ行こう! その二

 一九一九年五月 和歌山県





 宮森 一行は三週間ほど那智に逗留し、東牟婁を粗方あらかた散策し終わった。

 そこで今度は旅路を折り返し、田辺町たなべちょうから日高川ひだかがわさかのぼって〘龍泉村りゅうせんむら〙の秘湯を目指す事にする。


 先ずは東牟婁で散策していなかった古座川町こざがわちょうへと向かった。

 見所は矢張り、古座川の一枚岩である。


 宮森は、この地に伝わる逸話を権田 夫妻にそらんじてみせた。


「この一枚岩には伝説が在りまして……


 ――昔々、太地たいじの海から上陸し岩山を食い荒らす、〖岩かじり〗と云う魔物が居たと云われております。


 ――ある日、岩かじりが古座川の下流から、岩石を食べつつ上流へと登って行きました。


 ――そして岩かじりがこの一枚岩を食べようとしたその時、一匹の犬が吠えたてます。


 ――犬に吠えたてられ驚いた岩かじりは一目散に逃げて行き、それによって古座川の一枚岩はその姿を保つ事が出来たのでした。


 ――一枚岩のほぼ中央に走る縦のくぼみは、岩かじりの歯型であると伝わっています。


 ――又、雨が降り続いた際に上の池から水があふれると出現する滝は、岩かじりの悔し涙が流れ落ちたものであるとも。


 ――岩かじりを退けた犬は守り犬と呼ばれ、毎年四月下旬と八月下旬の二回、一枚岩に守り犬の影が映るのだと云われています。


……お終いお終いっと、このような逸話ですね」


 中々堂に入った宮森の語り口に、権田 夫妻も大層喜んでいる。


「岩かじりか……。

 岩を食らう割には犬が吠えただけで逃げるなど、強いのか弱いのか判りませんな」


 まだ講釈を聞きたかったのか、頼子が宮森に問い掛ける。


「宮森さんは、岩かじりの正体は何だと御思いですか?」


「そうですねぇ……。

 自分は、岩かじりが海から登って来たと云う所に注目しています。

 太地の海に漂着した、異国の民がいたのかも知れません。

 その民は岩を切り出して住居などを造り、古座川下流で生活圏を広げて行った。

 しかし原住民との折り合いが悪くなり、遂には追放されてしまう。

 犬の吠え声で逃げたとされているのは、漂着民を追放した地元の豪族が犬を飼いらし、狩猟や戦に使役していたのかも知れません。

 と、自説を披露したのですが、実際は一枚岩の石質が均質かつ非常に硬いものだそうで、それゆえに風化と浸食に耐え今現在まで残っている、と考えられています」


「そうなのですか。

 岩かじりが雨風だったとは、少し残念な気もします」


 宮森は自然の御業みわざだと権田 夫妻に説明するが、彼自身はどこかしっくりこない心持ちだった。

 かすかにではあるものの、くだんの一枚岩から念を感じ取ったからである。


⦅希薄になってはいるが、不可思議な念を感じる。

 でも何と云うか、随分ずいぶんと機械的だな。

 人間の感情が感じられない。

 こんなのは初めてだ。

 明日二郎も感じ取れないと言っているし……⦆


 頼子のたわい無い春愁しゅんしゅうと宮森の疑心を一枚岩に映して、一行は西牟婁にしむろを目指す。





 一九一九年五月 和歌山県 田辺町





 西牟婁地方に入った一行は、牛鬼うしおに伝説で有名なことたきを見物。

 白浜町しらはまちょうにも逗留し、付近の名所を観光する。


 一行が田辺町に参着すると、町は平時とは違う雰囲気を見せていた。

 賑わい半分物々ものものしさ半分と云った具合で、落ち着きが無い。


 多くの町人が何かを取り巻いており、その中心が怒声を発しているのだ。

 宮森 達も何事かと思い人だかりに近付くと、その理由が判然とする。


 自動車だったのだ。


 当時は自動車が殆ど普及していない時代で、自動車自体を見た事の無い者が大半である。

 宮森 達も汽車の他、馬車と人力車を移動手段として用いていた。


 うしていると、渦中かちゅうの中心から怒気をはらんだがなり声が放たれる。


「貴様ら早くどかんか、車が通れん!」


 どうやらどこぞの華族か金持ちが、好奇心旺盛な町民達に囲まれてしまったようである。


 このままでは自動車が占拠されてしまうと思ったからか、たまらず益男が助太刀に入った。


「町民の皆さん、自動車の進路を開けてやって下さい。

 これでは通れません。

 自動車が見たければ、目的地に着いた後でゆっくりと見せて貰いましょう」


 洋服を着こなし、柔らかな口調ではあるが堂々たる態度の益男を見て、町人達は御偉おえらいさんと勘違いしたのか、自動車の進路を開け始めた。

 加えて、かたわらにたたずむ頼子の背丈にも驚いている。


 先程がなり立てていた男は運転手だったらしく、進路が開いたのを確認し運転席へと戻った。

 運転手は益男に向かい脱帽して一礼。

 後部座席に座っている人物達にも頭を下げ、車を走らせ始める。


 その運転手の服装を見た宮森はいぶかり、自動車に向け手を振っている益男に問うた。


「益男さん、運転手の方は軍服でしたよね?」


「ええ。

 後部座席に乗っていた方々の内の御一人も、帝国陸軍の軍服を召されていましたよ」


 頼子が町人達に聞いてみた所、自動車は町役場に向かっているらしい。

 宮森 達も町役場へと向かった。





 町役場に着き、宮森 達は自動車に乗り込んでいた三人の男性に会う。


 運転手とその上官らしき陸軍将校に、和装の御大尽おだいじんとは言い難い変わった雰囲気の男。


 変わった雰囲気の男の背丈は宮森と同程度だが、横幅が広くがっちりとしていて見事な太鼓腹である。

 頭は丸刈りをそのまま伸ばしただけのもので、口髭とあご髭も同じくだ。

 髪色がやけに明るく、日本人離れした彫りの深い顔立ち。


 その変わった雰囲気の男は、宮森 達に対し険しい眼光を放っていた。


 宮森 達に気付き、再び頭を下げる運転手。


 上官らしき陸軍将校は脱帽せず、宮森 達を認めるや否や疑念を含んだ口調で問い掛けた。


「先程の取計とりはからい痛み入ります。

 それで、私共に何か御用ですかな?」


 高圧的な態度の陸軍将校を前にした為か、周囲から見ても明らかに気後れしているように見える宮森。


 それを察してか、益男がある行動に出た。

 自らの右手を、洋服の腹の辺りにあるボタンと釦との間に差し入れたのである。


 さり気なく自然に行なわれたその動作ポーズを、目前の陸軍将校は見逃さなかった。

 意図が伝わったのか、陸軍将校の口調が突然柔らかなものとなって宮森 達へと向けられる。


「これはこれは失礼しました。

 私共は町長に面会を申し込んでおるのですが、そちらはいかがなされますか?」


 陸軍将校の唐突な態度の変化にいささか面食らう宮森だったが、益男が上手く取りなす。


「町長との面会はそちらだけで。

 私共はここで待たせて頂きます」


 陸軍軍人のふたりと和装の男が完全にこの場から立ち去るのを待ち、益男が先程の動作を取り乍ら宮森に話し掛けた。


「宮森さん、もしかして教えて貰っていなかったのですか?

 これ」


 宮森はばつが悪いのか、頭をき乍ら申し訳なさそうにつぶやく。


「いやあ、旅行前に教えては貰ってたんですが、先程はどうも狼狽うろたえてしまって、ど忘れと言いますか、その……」


「構いませんよ。

 御存知ならば問題ありません。

 宮森さんのような方でしたら、旅行でもなさらない限りは使う機会の無いものです。

 旅行中は私と妻に万事ばんじ御任せ下さい」


 益男が陸軍将校に向け行なった動作は、いわゆる手合図ハンドサインの一種だ。

 世界各国の魔術結社は、組織や派閥ごとに必ず手合図ハンドサインを持っており、中には組織の枠を越えて使用できるものも在る。


 旅行中のいざこざを避ける為、大昇帝 派が使う最新の手合図ハンドサイン教練を宮森は受けていた。

 だが、自らを気弱な学者肌の青年として見せ掛けたい彼は、故意に手合図ハンドサインを使わず狼狽える振りをしていたのである。


 手合図ハンドサインが効力を発揮し、いざこざには至らずに済んだ。

 それどころか陸軍将校の態度まで軟化したその威力に、宮森は改めて魔術結社の恐ろしさを痛感する。


 四半時(約三十分)後、町長との会談を終えたらしい三人が戻って来た。


 和装の男が宮森 達に険しい顔を近付ける。

 若しや大昇帝 派ではない事がばれたのか、と宮森にも緊張が走った。


 眉間に皺が寄り、なおも険しく宮森 達をめ付ける和装の男。

 宮森の胸も早鐘はやがねを打つ。


 しかし次の瞬間、和装の男はその厳しい顔を反転させ破顔一笑はがんいっしょうして言い放った。


「あんさんら、もう宿とっとるんか?

 取ったら直ぐにワイんとこ来てくれや。

 馳走するさかいに。

 ええやろ、西川はん?

 ん、よっしゃ決まりやな。

 今日はむで~♪」


 大昇帝 派の宴会に加わる事になってしまった一行の運命やいかに――。





 そうだ、熊野へ行こう! その二 了

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