異魚 ――綾―― その三

 一九一八年 一一月 帝居地下 神殿外郭部 管制室





「お兄様~、お~い!」


 既に海中となった窓外からは、〈異魚彼女〉が瑠璃家宮に向かって手を振っていた。

 儀式で変容した直後に見せた忌まわしさは鳴りを潜め、屈託のない笑顔と仕草を見せている。


 そこだけを見れば年頃の娘にしか見えない。

 だが、〈異魚彼女〉の身体は異形そのものだ。


 手指の間には水掻みずかきが、両手の下膊かはくにはひれが備わっている。


[註*下膊かはく=肘から手首までの部分]


 胸郭には一対の大きな裂け目。

 そこから覗く赤い器官は、水中での呼吸を可能にするえらだ。


 背中には背鰭せびれも確認出来る。

 両脚は膝上あたりで結合し、膝下から足先までは一体化していた。


 足先は四つまたに分岐した長い尾を引いており、ある種の金魚の尾鰭おびれを彷彿とさせる。

 その尾鰭こそが、天女の羽衣の正体であった。


異魚彼女〉を間近で眺めていた宮森はある特徴に気付く。


 頸部けいぶ左右に縦長の裂け目が入っているのだ。

異魚彼女〉が言葉を発する度に裂け目が開き、そこから発せられる声は室内拡声器スピーカーを通して二重三重に聞こえて来る。


⦅御殿での嬌声しかり。

 伝説にある、水夫を誘う人魚の歌声の正体はこれか……⦆


 薄い血管の筋が入った膜が眼球を覆っている。

 瞬膜しゅんまくだ。

異魚彼女〉はとことん水中に特化した身体の変容を見せている。


 瑠璃家宮が彼の取り巻きと喋ってばかりいるので、綾はいい加減退屈していた。

 だが、硝子ガラス窓のそばに見知らぬ青年がいる。


 自分の身体を一心に見ます青年に気付き、綾は彼を不思議そうに見返した。

 試しに手を振ってみたが反応しない。

 気付いてはいる様なのだが、綾とは目を合わせ様としないのだ。


「ねえ、貴方は誰?

 お役人さん? それとも研究所の人?」


 青年に話し掛けたが返事はない。

 綾は無視されたのがしゃくさわったのか、投光器が照らし出す範囲から外れてみた。


 明かりの範囲から外れても少し暗く感じる程度で、綾の方からは問題なく青年を視認出来る。

 しかし向こう側からは全く見えなくなるのか、青年はかなり慌てているらしい。

 余り意地悪するのも悪いと思い、綾は明かりの許へと戻ってみる。


異魚彼女〉がいきなり視界から消えたので、自分がまじまじと〈異魚彼女〉の身体を観察していた所為ではないかと思った宮森。

 一瞬肝を冷やしたが、直ぐに〈異魚彼女〉は視界に戻って来て今度は宮森に笑顔を差し向ける。


 慌てていた所為か、宮森もつい目を合わせてしまった。

 瑠璃家宮の前と云う事もあり、この時ばかりは宮森も〈異魚彼女〉と目を合わせてしまった事が気不味きまずい。

 どうしても、彼女が異形に変容してしまう前の面影を想像してしまう。


⦅彼女の中に巣食っている筈の忌まわしいモノは、一体何処へ行ったのだろうか。

 眠っている……いや、門前での儀式で娘の人格と云うよりは霊格、霊魂とでも呼ぶべきモノが萎れくのを確かに感じた。

 肉体も抜け殻同然だった筈。

 では、今まるで年頃の娘の様に振る舞っている彼女は……⦆


食指しょくしが動いたようだな」


「はは。

 憑かれた様に綾様を観ている」


「さっきまではあんなかたくなだったのにねぇ~」


「興味が湧くと周りなど気にならんか。

 あ奴らしい」


 瑠璃家宮、草野少佐、蔵主社長、多野教授は、宮森の無我夢中振りを見物し乍ら歓談を続ける。


「それにしても今回は上手く行きましたねぇ~、殿下ぁ」


「これも宮司殿の才の賜物たまものよな」


「私共の時とは定着率がまるで違いますな。

太歳たいさい〗も良く馴染んどる」


「はは。

 教授の言う通りです。

 には申し訳ないが、あの方の力は突出している。

 桁違けたちがいだ」


「それにしても教授ぅ、宮司殿が招かれたはどうなるのでぇ?」


 蔵主が口にした『弟君おとうとぎみ』という言葉には、僅かではあるがあざけりの匂いがした。


「うむ。

 本来ならば直ぐにでも御隠れになる筈だ。

 だが、綾様の様に物質として顕現されているのではないからな、ようはある。

 殿下、どうなさいますか?」


「云う迄もない。

 直ぐにでも実行に移せ」


 呵呵大笑かかたいしょうしている一同を尻目に、宮森は〈異魚彼女〉を見詰め続けている……振りをしていた。

 目覚めた霊感の助けもあってか、悪人一同の交わす会話を一言一句憶える事が出来る。


⦅会話の内容によると、奴ら九頭竜会は化け物弟君をこの現世に留め置く為、何か大それた事を計画している様だな。

 そしてそれは直ぐにでも実行出来るらしい。

 あの宮司の事もある。

 この機会になるだけ多くの情報を仕入れたい……⦆


 宮森の立てる聞き耳に気付かず、話に花を咲かせる四悪人達。


「……ですねぇ。

 平民どもの苦しがる姿が目に浮かぶなあぁ」


「まったくですな。

 蔵主さんも更に一儲け出来そうで……。

 宮森君、君は何時まで綾様を眺めている積もりかね?

 殿下の前で不謹慎であるぞ」


「もっ、申し訳御座いません。

 集中してしまうと、周りが見えなくなる性質たちでして……」


「ふふっ。

 一国の皇太子と国の重鎮達を揃って周り呼ばわりか。

 其方は中々に肝が据わっているな」


「もっ、申し訳御座いません。

 高貴な方々と御話をさせて頂く機会などっ、これ迄になかったものですから……」


「よい。

 綾も其方の事が気に入った様だ。

 綾が余の子を産むのは少しばかり先の事だが、その際は存分に励め」


「そっ、その様な御言葉をたまわるなど、恐悦至極に存じますっ!」


 宮森は平身低頭し乍らも、心にもない世辞せじを平然と口に出来た。


 何故なのかは解らないが、瑠璃家宮達の悪意をみ取ると恐怖も感ずると同時に気も鎮まる。

 怒りも湧くと同時に頭も冴えて来る。


 その様な思いを抱き、宮森は形ばかりの恐縮を続けた。


「では殿下、今日はこのくらいで御暇おいとま致します。

 宮森君、来たまえ」


「でっ、殿下、草野少佐、蔵主社長、宮森もこれで失礼致しますっ……」


 多野が宮森を連れ引き上げ様としたその時、宮森は不意に〈異魚彼女〉を見てしまった。


 そこには、先程まで見せていた屈託のない笑顔と仕草は微塵みじんもない。

 既に、忌まわしいモノが舞い戻っていたのだ。



 あどけない邪気で彩られた嬌笑を浮かべ、


 けがれた海中を淫猥いんわいに揺れる尾鰭で揺蕩たゆたう。


 瞬膜に覆われた瞳で宮森エモノを付け狙い、


 聞く者の理性をとろかしてしまう、


 甘美だが有害なウタを垂れ流す。


 ――彼女は笑っていた。


 好物を口に運ぶ前の、子供の様に。


 ――〈異魚彼女〉はわらっていた。


 虫けらをなぶり殺す時の、コドモのように。



 ――――。





                異魚 ――綾―― その三 了

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