定着の儀式 その三

 一九一八年一一月 帝居地下 神殿区画





 娘の痙攣と呻き声が高まり続け、狂態と凶声に変わらんとしたその時、遂にあの子供の神官が動いた。


 後腰に佩いたつるぎの柄に右手を掛ける。

 逆手さかての格好。

 だが、そのままでは刀身が長過ぎて大人でも抜けない。


⦅並んだ神官達が酷く緊張しているように見える……⦆


 宮森は確かにそう感じたが、その感覚は正しい。

 他の会員達や多野 教授、草野 少佐、蔵主 社長、瑠璃家宮でさえ、その顔から余裕が消えているからだ。


 そして子供の宮司が、


 ――抜く。


⦅矢張り、刀身は無いな⦆


 宮森の推理は当たる。


「何の事はない、柄だけだったのか」


「脅かしおってからに……」


「ちぃっ、吃驚びっくりして損したわ!」


 緊張から解き放たれた会員達は破顔し始め、沈黙から解き放たれた口からは安堵の声が漏れる。

 しかしナニかを認めたのか、彼らは直ぐに緊張の面持ちへと逆戻りしてしまった。


 子供の神官が順手に持ち替えた剣の柄から、


 ――ナニかが出ている。


 ナニが出ているのかは解らない。

 ただ宮森には、剣の柄から一メートルばかり先までの空間がゆがんで視えていた。


『ブゥーーーーーーーーーーーーン……』


 そして、この場全体に染みわたる異質な振動。


 宮森は観察する。


⦅シャボン玉の泡のような歪み方だ。

 それに何だか、空気が震えているぞ……⦆


 剣が抜かれた直後、針の如く細長かった空間の歪みはまたたく間に膨らむ。

 宮森には何故か、その瞬間が認識できた。


 肉眼だけでとらえた訳ではない。

 宮森の五感全て……いや、それ以上の霊的本能が湧き上がり激しく警鐘けいしょうを鳴らしたからこそ、目前に展開される不可解な現象の視認が叶ったのである。


 宮司の剣先から放たれるナニかを、人間ヒトの肉眼で知覚する事は到底不可能だ。

 無理矢理にたとえると、日本の祭りなどでよく見られる大団扇おおうちわを、ことごといびつにしたような形状である。

 厚みに関しては、るのかいのか全く判別できない。


 加えて、歪んだ空間からは耐え難い程の悪臭が漂い始める。

 まるで魚の死骸と人間の糞尿を混ぜ合わせて長期間発酵させたものを、グツグツと煮立たせた末に遠慮なくぶちまけたような匂いだ。


 余りの悪臭に、案内係や会員達のほとんどが、鼻と口をてのひらやハンカチーフで反射的に押さえる。

 耐え切れなかった者は、先ほど受け取った吐袋に吐瀉物としゃぶつをぶちまけた。

 この為の吐袋だったのである。


 それとは対照的に、吐袋を受け取らなかった多野、草野、蔵主、瑠璃家宮は、上物の葡萄酒ワインの香りでもたのしむかの如く胸いっぱい悪臭を吸い込んでいた。

 瑠璃家宮に至っては左手にワイングラスを持つ真似まねをした上、下顎したあごと舌とを盛んに口内で動かし、葡萄酒ワイン味聞きテイスティングの要領で悪臭を味わい尽くす事までしている。


 殆どの会員達の面持ちは破顔から緊張へ、緊張から恐怖へと変貌を遂げていた。

 彼らは怯え切った顔で、子供の神官とその先の磔刑台を見詰みつめる。


 子供の神官が、不浄の妖気を湧き出させる剣を無造作に突き出した。


 娘の下腹部を覆うように歪んだ空間と、そこから放たれる悪臭が娘の全身に吸い込まれて行く。

 娘の四肢がとことん暴れ、猿轡ごしに絶叫しているのが判った。


 宮森の目覚め始めた霊感が、ソレを捉える……。



⦅あの娘の胎内に途轍とてつもない悪意が雪崩なだれ込んで……。

 彼女の人格こころが拒絶反応を起こしている。

 いや、それだけではない……⦆


 不意に悪臭が収まる。


⦅ん、何だ?

 花の香りのような、何か別の……⦆


 歪んだ空間は次第に領域を狭めて行く。


⦅邪悪さを感じない。

 むしろ清浄な……⦆


 消滅する。


⦅モノ?⦆


 ――――。



 娘の呻きと痙攣が止まり、全身が弛緩しかんする。

 彼女は深く項垂うなだれたまま動かない。


⦅死んだ……のか?⦆

 

 宮森の眼前にその光景が映し出される。


 娘の人格こころは、突如として雪崩れ込んで来た悪意によってズタズタに蹂躙された。

 見る影もなく萎縮し、霊性がしおく。


 そう感じる宮森だったが……


⦅ただ、それとは別のナニかが、彼女の胎内に……⦆


 悪意とは違う別のナニかも、同時に知覚しているようだ。


 宮森は、最早もはや抜け殻と呼んでも差し支えない娘の身体を、憐憫の情を持って見詰める。


 そして娘の霊的な喪心そうしんを感じ取り、いたんだ――。





 子供の神官が他の神官達に目配せする。


 神官達は娘に着けていた目隠し、猿轡、手枷、足枷を外し、磔刑台前に横たえた。

 その後神官達は磔刑台の左右に四人づつ、子供の神官は現状の位置で向き直り、横たわった娘を前にして全員が一列に並ぶ。


 娘の全貌があらわになった。


 誰も言葉を発しない中、瑠璃家宮が子供の神官に言葉を掛ける。


宮司ぐうじ殿、ここ迄の働き御苦労であった。

 首尾は?」


 驚愕した宮森は自問する。


⦅あの子供がだと⁈

 こんな幼い子供が神社を、恐らくは背後にある神殿……と、そこで執り行なう祭祀さいしを取り仕切るなど絶対に有り得ない。

 待てよ……もしや子供ではないのか。

 幼い頃の骨折などが原因で上背うわぜいが伸び悩む事例や、一定の年齢で成長が止まってしまい、歳を取らないように見える奇特な病も有るらしいが……。

 只それらの場合も、肌だけは年齢の重なりが出るとされている筈。

 肌の露出が少ないので決め手に欠けるが、目の前の宮司は子供にしか見えない⦆


 宮森だけでなく他の会員達の中にも、宮司と云う呼び方に驚く者が居た。

 上級会員に成り立ての新米なのだろう。


 しかし乍ら多野、草野、蔵主、瑠璃家宮は、その顔色すら変えない。

 過去にも同じような儀式がもよおされ、この宮司が祭祀を執り行なったのかも知れない。


⦅状況から見て、あの子供の神官はかなり特別扱いされている様子。

 勅任待遇ちょくにんたいぐうの可能性すら有るな⦆


[註*勅任待遇ちょくにんたいぐう=国の高級官吏かんりに任命される事]


 宮森の勘繰かんぐりが当たったのかは定かではないが、子供の神官あらため宮司は言葉を発さず、ただ静かに頷くのみ。

 すると、娘の身体に刻まれた紋様がなんと発光し始めた。


 濁った黄色の光が段々と強まる。

 同時に身体の痙攣も始まった。


 いや、痙攣ではない。

 身体は完全に弛緩しており、何の意思も感じられない。


 ――蠢動しゅんどう


 発光するはだえの下で何かが起こっているのを感じ、会員達がざわめき始めた。


 娘の霊的な死を感じ取った筈の宮森も自身の目を疑う。

 しかも、娘の中に忌まわしいモノが入り込もうとしているのが解った。


⦅悪意が這い回っている……。

 来た!⦆


 不気味な蠢動が収まり、刻印の発光も消える。


 横たわっていた娘は静かにまぶたを開き、一度上体を起こしてからゆっくりと立ち上がった。

 彼女は左右の肘を交互にあご辺りまでげ、繁々しげしげと己の裸体を見詰めている。


 宮森は娘の身体に不審な点を見付けた。

 刻印の為に付けられた傷痕きずあとが急速に塞がって行くのである。


 そして傷跡が消えた身体には、肋骨ろっこつに沿う左右一対いっついの大きな切れ込みが認められた。


 娘は寝ぼけまなこおもむろに両手を組み、掌を天井へと向け思いっきり背伸びする。

 その様子は年頃の女子そのもので、この異常な儀式を忘れそうになる程に屈託くったくが無い。


 娘の背伸びに従い、胸郭きょうかくの切れ込みが開いて行く。

 そこに覗いたのは、列をなした赤色の板状器官。


 その板状器官……ひだは、一枚一枚がゆっくりと収縮、膨張を繰り返し、まるで波打っているように見える。


 そう、あの器官は


 ――えら


 常識を超える出来事が矢継やつばやに起き過ぎる所為か、宮森を含め多くの会員達はポカンとした表情を浮かべている。


 無理もない。

 宮司の持つ剣、紋様の発光、傷痕の修復。

 そして彼女の鰓に至っては、完全に会員達の想像の埒外らちがいなのだから。


 そんな会員達を尻目に、娘は左右に居並ぶ神官達と前方の会員達を順に見回して、


 ――笑った。


 娘から発散される年相応の無邪気さと滲み出る扇情的な妖気とが複雑に入り混じり、瞬く間にあどけない邪気へと暗転して行く。


 男性の本能を直球で刺激する娘のを、即座に危険と判断する宮森。

 会員達の中には、既に股間が膨らんでしまっている者が出る始末だ。


 宮森の霊感とでも呼ぶべき感覚は、娘の元々の人格が完全に消え去ってしまい、醜悪なナニかに乗っ取られた事をいみじくも告げる。


 娘がこちらに向かい歩みを進めた。


 気圧けおされたのか、会員達が恐る恐る道を譲る。



 彼女は瑠璃家宮の前で足を止め、瑠璃家宮の手を取る。


 きびすを返し、瑠璃家宮の手を引いて歩み始める。


 瑠璃家宮に腕を絡ませ軽快な足取りで、を抜ける。


 彼女と瑠璃家宮の通った後には、しおの香りが漂う。


 ふたりはいたく楽し気な様子で、神殿建屋へと入って行く。


 心置きなく逢引きデートを楽しむ、仲の良い恋人達カップルのように――。





 定着の儀式 その三 了

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