2-3

 塾のバイトに復帰して、数日が経った。塾長には体調管理に気を付けることを口を酸っぱくして言われた。受験シーズンで殺気立った、生徒の親御さんたちの言葉の受け売りなのが見え透いていて、時々適当にうなずいてしまう。でも、今回は俺が悪い。

 今日のコマを終えて帰ろうとしていると、生徒を1人引き連れている金子さんを見かけた。

 「あっ 桐田くんちょうどよかった」

 俺に気づいた金子さんが生徒と共に近づいてきた。

 「明日から通うことになった伊藤さん」

 そう紹介された生徒は、俺に頭を下げて言った。

 「伊藤 櫻子さくらこです」

 「ご丁寧にどう、……」

 不自然極まりないが、俺はその子の容貌を見て言葉に詰まってしまった。つやつやの黒い髪を今どき珍しい三つ編みにして、銀のフレームの眼鏡をかけている。レンズの奥の切れ長の目は長いまつ毛に縁取られ、鋭いまなざしをしている。尖った鼻と、きつく結ばれた薄い唇。

 目を疑うような美少女だった。

 「何か」

 鈴の鳴るような声に短く言われ、ようやく我に返った。

 「あっすいません 桐田陸です 大学3年です よろしく」

 「よろしくお願いします」

 「うんうん じゃあこれからよろしくね」

 金子さんが両手を合わせて言い、そのまま生徒用ロッカーのほうへ伊藤さんを連れていった。

 「スッゴいよね」

 「おっ びっくりした」

 どこからともなく日下が現れ、言った。手にはコンビニのフラッペが握られている。

 「超美人なんですけど」

 「知ってる子?」

 「先週転校してきた しかも同じクラス」

 「そうなんだ」

 フラッペを一口飲み、日下は頭いた、とつぶやいた。

 「もうすぐ高3って時期に引っ越してくるってどうよって感じ」

 「家の都合かな」

 「いじめじゃない?」

 プラスチックのカップが、日下の白い手にぐしゃっとつぶされる。

 「まあ、仲良くしてあげなよ、…?」

 俺の視界の端に知った顔を見たような気がして、エレベーターのほうを見ると、同じ大学の伊藤が立っていた。伊藤は俺と目が合うと、一目散に走っていった。

 「ちょっ きりたんどこ行くの!?」

 日下の驚いた声を背に、伊藤を追いかける。

 「こら走るな! って桐田くん! 最近変だぞ!」

 廊下をすれ違った塾長にまたもや悪印象を与えてしまった。

 

 無事伊藤を捕らえ、ビルの外階段の喫煙所に連れていく。喫煙所といっても、階段の踊り場に円柱の灰皿が立っているだけだ。緑色の錆びたドアを開けると、夜風が思い切り体を撫でて一気に体温が下がった気がした。

 「なんで逃げたんだよ」

 伊藤は、下を向いてぶっきらぼうに言った。

 「そっちこそ、何で追いかけてきたんだよ」

 「なんでって…」

  言われてみればそうだった。逃げられたから、自然と追ってしまった。

 「ていうか、何でここにいるんだよ」

 「…妹が通うことになったから、迎えに来たんだよ 時間遅いから」

 「妹?

  …もしかして、伊藤櫻子とかいう子?」

 「そうだよ」

 「あんま、似てないな」

 「親違うからな」

 伊藤は小さくため息をついて、ポケットから煙草を取り出した。ライターの火を夜風からかばいながら、煙草の先に火をつける。舞い上がった煙が、階段から夜の空に吸い込まれていった。

 「煙草吸うんだ」

 「まあ」

 1年の頃からの知り合いだが、伊藤が煙草を吸っているところを初めて見た。

 「小5の頃親が離婚して、母親と住んでたんだけど、その母親の再婚相手の連れ子。びっくりしたよ めちゃくちゃ可愛い子が急に妹って」

 「たしかに」

 「俺もそう思える奴がよかったよ」

 伊藤はなにかを振り払うように、下を向いて煙草を口にした。

 「全部、気持ち悪かったよ。 

  父親以外の男と恋愛した母親も、その辺の女と変わらない奴が妹になることも、そいつを可愛いと思ってしまう自分も」

 煙草の火が、階段の手すりに押し付けられて消える。

 「同級生にも、妹のこと色々詮索されて、ありもしない噂流されて。

  やましいことなんて何もしてないのに。

  クラスの奴らがどの女子が可愛いとか言ってると 椅子蹴り飛ばしそうになったよ なんで俺だけがこんな目に遭わなきゃいけないんだって。

  あいつが妹になってから、俺の人生はめちゃくちゃだ」

 俺は、だんだん涙声になっていく伊藤の話を、ただ聞いているだけだった。 

 「ごめん 何も言えてないけど」

  涙の絡んだ、鼻にかかった笑いが聞こえた。

  伊藤は鼻の頭をこすり、そのまま続ける。

 「でも俺、妹のこと嫌いになりたくないんだよ。

  あいつだって、急に知らない家に来させられて困ってるんだろうし。

  妹だけじゃなくて、母親のことも 父親のことも もう元だけどさ」

  短くなった煙草の灰が、円柱形の灰皿の穴に落ちる。

 「だれも、家族を憎みたくないんだよ」

 俺はなおも、何も言えないままそこに立っていた。俺にとって、家族は当たり前の存在で、深く考え込んだりする必要のない、ごく円満な家庭だったからだ。

 「メッセージ勝手に見て、変なこと言ったこと、謝るよ。

  ごめん」

 立ちつくしている俺に、伊藤は言った。志保さんのメッセージを勝手に見て、俺に怒鳴られた日のことだろう。

 「俺、お前と友達になりたかったんだ」

  伊藤の背後の空で、街の明かりにかろうじて負けず光っている星が見えた。

 「もうどうせ自分に友達なんかできないと思ってたけど、桐田は、なんか、大丈夫な気がして。だからうざいこと色々言ってばっかだったんだ」

 「俺こそ、ごめん」

  俺が言うと、伊藤は意外そうな顔で俺の顔を見た。

  俺自身、意外だった。

 「お前のこと、ずっと適当にあしらってたとこあったよ。

  これから、改める」

 「桐田…」

  伊藤は目を輝かせ、俺に握手を求めた。

 「これからよろしくな、親友」

 「えっ 親友はちょっと…」

  強引に手を掴まれ、ぶんぶんと振り回される。

  そうして、俺は伊藤の親友になった。

  それにしても、最近の俺は意外なことをする。

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メヌエット @umibashira

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