黄昏便器譚

亜済公

黄昏便器譚

 団扇で扇ぐと、どんよりとした空気が首筋を撫でる。高架下から見える空は、大分夜へと近づいていた。橙赤色と紺の狭間に、小さな雲がたった一つ揺れている。どこかの家で風鈴が鳴り、それを押しつぶすように頭上を列車が走り去った。無数の人間を押し込んで、遙か遠くへ走る格好……。その想像は、耐えがたい重みを感じさせる。詰め込まれたモノの重みだけではない。そこには、動的な時間の圧倒が、確かに存在したのである。僕は何より、そいつが嫌いだ。


 便器を発見したのは、今から一ヶ月前のことである。丁度その頃、自室の空調は故障して、生ぬるい息を吐き出すばかりになっていた。日が沈むか沈まないか……そのくらいの時間になると、室内よりも、むしろ街中の方が涼しいように思われる。暑いことには暑いものの、風がある分、熱気がこもらないのかも分からなかった。だから僕は、夕暮れ時に、ふらりと散歩に出るのが常だったのだ。

 夕暮れに染まった街並みが、夜に浸食されていく。路地に並んだ室外機からは、濁った気配が溢れ出て、その場を通ろうとする者を、柔らかく掴んで放さない。

 僕は例えば、電信柱に貼り付けられた、人捜しのポスターを眺めてみる。身長百四十五センチくらい、性別男、年齢十五、三角に切られた西瓜を一切れ持っている……。日付を見ると、失踪してから三年ほどが経過していた。干からびた西瓜を握りしめ、どことも知れない風景を、迷い歩く少年の姿……。そんなものを、何気なく想像する度に、何となく愉快な気持ちになるのだった。

 だから僕には、あの便器が持っていた、白く、なめらかで、色っぽい……そして何より、時間というものをまるで感じさせない雰囲気が、堪らなく愛おしかったのである。第一に、安寧。第二に、悲哀。そして何より、「生々しさ」というものが、綺麗さっぱり消えている。

 なだらかな下り坂を形成した、道路の一番底の部分。真上には列車の線路が乗っかっていて、暗い影を地上に落とす。高架下、その内側にありながら、便器の白さは、ボウッと浮かび上がって見えていた。陽光の、赤い色にも支配されない、まさに純粋な白色の輝き! 埃を被った様子もなく、ただ静かにたたずむ姿に――僕は、すぐさま夢中になった。

 思うに、時間とは即ち変化である。そしてまた、変化とは時間のことである。ならば例の便器の魅力は、その 無時間さにあったと言えるだろう。

 便座の蓋の裏側には、細々とした書き込みがあった。あるものはボール・ペンで、またあるものは油性のサイン・ペンで記されている。年号、日付、ここへやって来た理由その他、愚痴とか、詩とか、そんな何にもならない下らない文字が、くねくね気まぐれに漂っている。それが唯一、時間を越えた便器の持つ、汚れであると言えるだろうか。

 僕は、ズボンを素早く下ろし、便座にそっと腰掛けた。道路の反対側が目に入る。もしも車が通ったならば、乗員は僕の格好を、果たしてどう思うのだろう? 案外、自分が座りたかったと、うらやましがるのかも分からない。

 僕は、速やかに排便を始めた。


 一ヶ月間、便器に座り続けると言うと、大抵の人は顔をしかめるに違いない。以前であれば、自分だってそうしただろう。しかしそんな想像に反して、案外、退屈はしなかった。通行人、車、そして道路の向かい側に転がっている小さなゴミ箱。それだけで、僕の好奇心は十分に満たされてしまうのだ。

 消しゴムの入った袋を抱え、通りすがる浮浪者の格好。時計を執拗に舐めながら、車道を歩く少女の髪型。運転手のない車に、車のない運転手。ゴミ箱からは、一本の足が飛び出していて、時折思い出したように痙攣している。僕は全く、足が好きだ。

 手首の疲労に、団扇を捨てる。大した役には立たないし、暑苦しさにも、この頃ようやく慣れてきた。汗臭さと、粘つく服の感触と、それさえ忘れてしまったならば、排便の感覚はむしろ心地良く腹に響く。事実僕は一ヶ月以上、途切れることなく便の排出を続けているのだ。太股は、便座に合わせてすっかり歪んでしまっている。

「なぁ、アンタ」

 と、突然声が掛けられた。

「一寸、譲って欲しいのだがね」

 会社員らしき一人の男が、腹部を押さえて、そこにいた。足下には古びた鞄が転がっていて、口が半ば開いている。デッサン用の人形が、ぎっしり詰まっているらしい。黄昏の日を浴びる姿は、どこか永遠を思わせた。

「今までずっと、腹が痛くて苦しんでたんだ」

「今までずっと?」

「今までずっと」

 僕は少し考えてから、敢えて冷酷な顔をして、首を素早く横に振る。

 どうしても?――どうしても――何をしても?――何をしても。

 男はがっくりうなだれて、どこへかふらふら歩いて行った。

 ああいう奴ほど、いざ便座に腰掛けた途端、何でもない顔をして「気のせいだった」と口にするのだ。僕はそういう連中を、嫌と言うほどよく知っている。

 ――ここは、本当に心地良い! 譲るにはもったいないほど、心地良い!

 排便が、終わらないと良いのだけれど。そんなことを思いつつ、僕は今日も、ひり出し続ける。

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