最終節② 呪い師と旅人
――暗闇に漂い思う。何もないここが私の居場所だ。ここしか知らない時はそれで良かった。今はどうだろうか? 落ち着くのはパン屋の作業場、店先、屋根裏にあてがわれた自室だ。
そこに戻りたい。次はいつ出られるのだろう? それを決めるのは私ではない。そう思った時、声が聞こえた。
「急に代わって悪かったわね。そろそろ起きてもらえるかしら?」
気がつくと体に重みがあった。ここでは初めての感覚だった。そっと目を開けるといつもの闇ではない。ここは……記憶にある家だろうか? 釜土は冷え切っている。窓は全て閉ざされ、昼か夜かわからない。とても静かだ。
私は丸テーブルを囲む椅子に座っていた。テーブルの上には大きな赤い本。声は本から聞こえていた。心配しているような声だった。
「聞こえてる?」
「大丈夫。助けてくれたのはわかったわ」
「思ったより平気そうで良かった。あなたにとって、ギルの存在は強すぎるから接触してほしくなかったけど問題ないようね」
思った通り、ギルという人は私にとって重要な人なんだ。
「あの人は誰?」
「あなたを大切に思っていて、私を恨んでいる人。あなたに会いたいと言っていた。どうするかは任せるわ」
彼と話してみたい。しかし、きつく当たられないだろうか? そんな思いはお見通しだったようだ。
「大丈夫よ。私とあなたが別だと理解してくれたから」
「会うわ。記憶を取り戻すには必要だと思う」
「では行きなさい。北の城門で待ってると言っていた。時間は明日の昼。正午の鐘が鳴る頃に。明日と言っても、もう今日ね。あなた、いくら呼んでも返事をしないから」
「今日は先約があるわ」
マルクの言っていた剣試合は今日だった。
「それは知らなかった。どちらに行くかは自分で決めなさい」
それは考えるまでもない。優先度は明白だ。
やるべき事がわかると、あれからどうなったか気になった。
「配達? あなたが起きないから私がやっておいたわ。人の営みというのも案外悪くないわね。そうそうパンの生地もこねてみたの。あれ難しいわ。機会があれば教えてちょうだい」
「私の教えは厳しいわよ」
「ふふ。楽しみにしているわ。さあ、行きなさい」
部屋の空気が動きだした。勢いよく扉が開き、まばゆい黄金色の光が差し込む。体が浮かび上がり外に吸い出される。黄金の光は見渡すばかりに広がる麦畑だった。これがミナが愛した故郷。
ああ、この光だったのね――
目を開けると作業場にいた。小窓から朝の冷気が入って来ている。作業台の上にはボソボソでまとまっていない生地。前掛けも両手も粉と生地くずでベタベタだった。
指に付いた生地を丸めようとしたがボロボロとこぼれた。
ふふ。本当にだめね。水が足りていないわ。
それは初めて出た自然な笑いだった。
城門に行くとすでにギルが来ていた。私より早く気づいていたようで厳しい視線が向けられている。その表情は複雑で読み取り切れない。
「早いのね。そんなに待ち遠しかった?」
「そうかもしれない。ミナと思っていいのか?」
「たぶん。昨日とは中身が違う、と言ってもわからないわね」
探るような話し方で警戒されていたが私はうれしいと感じていた。
「妻が死んだ時に心が失われたと呪い師は言った。昨日の話では心を
「さあ? まだ全部を思い出していないからわからないわ」
「どういうことだ?」
「そのままの意味よ。それよりも……」
持ってきた包みを渡すと、あからさまに怪しまれた。
「これは?」
「そんなに警戒しないで。今朝、焼いたの。良かったら食べて」
包みの中は特別なパン。燻製肉と葉野菜を挟んだパン。ギルに食べてもらえば何か見えるかもしれない。
彼は物言いたげな顔でパンと私を見比べていた。ほら早く、と促すとおずおずと口に運んだ。そのままもう一口。……そして動かなくなった。
「どう?」
「美味い……ミナの、パンだ」
表情が柔らかくなったギルを見ている内に記憶の穴が次々と埋まっていく。それは穏やかな日々だった。
畑に向かうギルを見送る。汚れた作業着が似合っている。剣を下げている今の彼より全然良い。
生地を作り、焼いて、燻製肉と葉野菜を挟み、布巾に包んで籠に収めた。家を出て風になびく麦の中を進む。水車小屋を横切るとギルの姿が見えた。汗を拭きながら手を振ってくれた。二人ならんで柵に腰を下ろす。
他愛のない会話を交わしながらパンを渡すと、すぐにかぶりついた。美味い、もう一仕事頑張れる、と笑う彼を見て私も笑った。
これがミナなのね。
「当たり前よ。私が焼いたのだから」
「またミナと話して、これが食べられるとは思わなかった。たくさん、話したい事があるんだ。本当に、たくさん、あるんだ」
困った事にギルは往来で泣きそうになっていた。でも、ごめんなさい。私は聞いてあげられない。
「残念だけど違う。私はミナじゃない。彼女になれなかった。あなたに会ってよくわかったわ」
戸惑うギルに笑ったつもりだったけど、うまくできない。視界がゆがんでいた。これが悲しいって感情なのね。
これ以上の会話に意味はない。もう行こう。傷は浅い方がいい。
「さよなら。もう会わないから忘れてくれていいわ」
「……君は違うと言ったが、私にはミナとしか思えなかった。妻とまた会えたとしか思えなかった」
「本当に? うそでもうれしいわ。今度こそ――」
このまま去れば奇麗に別れられたのに、困ったものだ。怒りを隠そうとしていないマルクが大股で来ていた。鬼気迫る形相に人々が道を開ける。
「ミナ! なぜ来てくれなかった! その男は誰だ!」
荒々しくつかまれた腕に痛みを感じた。
「あなたこそ、なぜここに? 剣試合はいいの?」
「とっくに終わったさ! 俺の話はいい! 来てくれると言ってたじゃないか」
「大切な用だったの。ごめんなさい」
「その男か! 何者だ!」
マルクは苦々しげにギルをにらみ標的を変えた。私を差し置いてギルに歩み寄るがそうはさせない。元はと言えば私がまいた種だ。
「彼は関係ないわ」
その一言がマルクの怒りを更に大きくした。言葉の選択を間違えたのだとわかり自分に対して苛立つ。精々半年やそこらの経験ではうまく立ち回れないらしい。
「俺と決闘しろ!」マルクが剣を抜いた。集まって来ていた野次馬が悲鳴をあげて離れていく。
「私と彼女は無関係だ。残念ながら人違いだったらしくてね」
ギルの言葉に胸が痛んだが、今はマルクをなだめなければならない。彼の持つ剣の切っ先はギルに向けられたままだった。
「マルク、やめて。人違いって言ってるでしょう? それでも彼に剣を向けるの?」
「そうだ。俺は騎士としての誇りを傷つけられた! それもただの旅人に! 抜け! その剣は飾りか? 門番! 聖堂騎士マルク・ヘルトリングが命ずる! 立会人となれ!」
場を納めるべきか様子を見に来ていた門番が、突然の名指しに驚く。
思いとどまらせようとマルクの腕に手をかけたが跳ね除けられた。持っていた籠が宙を舞い中身が飛び散る。それでも食い下がろうとしたが、剣を向けられたままのギルが口を開いた。
「どうすれば剣を納めてもらえる?」
「ギルもやめて!」
「方法は簡単だ! 貴様が死ねばいい! 門番! 合図だ!」
勢いに飲まれた門番が、始め、と声を上げた。合図と共に野次馬の輪が広がり、マルクは剣を振り上げた。ギルが殺されてしまう! しかし、それが振るわれた時には、マルクは倒れ気を失っていた。
何をしたの? ギルが投げたというよりマルクが勝手に回って倒れたように見えた。
見ていた人々が一斉に声を上げる。突然の歓声に荷車につながれた馬がおびえて暴れた。騒ぎが騒ぎを呼び、衛兵が現れ、城門前はひどい混乱となった。
ギルは私をチラリと見るとつば広帽を深く被りなおし、そのまま雑踏に消えていった。
――その夜、本に語りかけられた。私は椅子に座り、丸テーブルの上には赤い本が無造作に置かれていた。ぐるりと見回すと、ここがギルとミナの家だとわかった。窓も扉も閉ざされ、いくつもの
「昼間は大変だったわね」
「ええ。でも記憶を取り戻したわ。そして感情も芽生えた。これで満足?」
「怒ってるの?」
「少し、ね。あなたにじゃないわ。自分自身にかしら。無邪気な好奇心がマルクを傷つけ、ギルを失望させた。きっとミナも悲しんでいるでしょうね」
そう、私は場を乱しただけだ。
「今、ミナ、と言ったわね。ではあなたは誰?」
「私はミナになりきれなかった別のモノでしょうね。考えてみれば当たり前なのよ。記憶が同じでも歩んできた人生は全く違うのだから」
「そう、ではミナになりきれなかったモノに聞くわ。あなたはどうしたい?」
「それを! あなたが私に聞くの!」
怒りにまかせてテーブルを
「そうよ。私には何もできない。その上で聞いているの」
「……私はミナになりたかったのではないと思う。きっとギルを知りたかったんでしょうね。ミナが愛したギルを。あの人がどんな思いであなたを追いかけたか知りたい。それは、あなたが求めている『人の心を知りたい』という思いと同じじゃないかしら」
「わかったわ。他には?」
「マルクに謝りたい、かな。ひどい事をしてしまったもの」
本はしばしの沈黙の後に話しはじめた。言葉を選んでいるように感じた。
「最初に謝っておくわ。もうじき、あなたは消える。もしかしたら私かもしれないけれど」
「どういう事?」
「さっき、私が『人の心を知りたい』と言ったわよね。どうしてそれを知っているのかしら? あなたには伝えていない。他にも知るはずのない情報もあるでしょう? 例えば、私が呪った吸血鬼とか」
確かに知っている。傲慢な領主を呪い、吸血鬼に変えた。その時はミナの体ではない。老婆の姿だった。
「心当たりがありそうね。ミナが死んだ時、彼女の望み通り不老に作り替えた。夫であるギルも一緒に。二人を離れ離れにして愛の強さを測りたかったの」
「知っているわ。ひどい事を考えたものね」
「そう? 今でも良いやり方だったと思うけど。でも、ミナの心は失われてしまい、不老の体だけ残った」
そこから先はこう。ミナの体を使って、ギルだけで試す事にしたのよね。本当に悪趣味だわ。
「ある時思いついたのよ。ミナの記憶を修復すれば心も修復できないかって。そこから先の説明はいらないわよね」
「そうね。最初からやり直すつもりだったんでしょう」
「そうよ。夫が妻を、妻が夫を探す。私は本に戻り観察させてもらう。そのつもりだったんだけど」
「でも失敗してしまった。しかも予想外の事態を起こして。一つの体に二つの心は入り切れない。それがあなたの見解よね」
これは私の考えではない。彼女の記憶だ。私は知っている。老婆になる前を。それどころか本に封じられる前も。彼女が『人の心が知りたい』と思ったきっかけを。
燭台の火が一瞬大きくなり消えた。
「私たちは混じり始めた。私の記憶と心、ミナの記憶、そしてあなたの心。それも急速に」
「混ざるとどうなるのかしら?」
聞くまでもなかった。彼女は知らない。予想は立てているみたいだけど。それでも聞いておきたかった。
蝋燭の火が一つ消える。
「たぶん、あなたは私に吸収されるでしょうね。何百年も生きている私と、半年しか生きていないあなたでは比べるまでもないわ」
「はっきり言うわね」
思わず笑ってしまった。
次々と火が消えていく。部屋の闇が広がっていく。
「安心して。あなたの思いは私が引き継ぐ。そのかわり、あなたが残った時はよろしくね。私の思いはわかっているでしょう?」
「ええ。約束するわ」
残る火はあと一つになった。
私は言った。
「そろそろ意識を保っていられなくなってきたわ。この眠気は何?」
私は言った。
「知らないわ。きっと混じる反動なんでしょうね。わかるのは、眠りにつくのは二人、目覚めるのは一人」
私たちは言った。
「じゃあ、おやすみなさい。きっと良い目覚めになるわ」
「本当に?」
「ええ、本当よ」
私たちはクスリと笑う。
最後の火が消えた。
部屋は暗闇に覆い隠され深い眠りについた。
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