第19節② 猟師と旅人

 あの大イノシシと私が戦う? 想像しただけで口が乾いた。唾すら出ない。ビリーが持っていたエールを奪い取って飲み干すと、私の中を苦味が駆け抜け、体が熱くなった。


「私が、やらないといけないんですよね」

「そうでもない。主に選ばれたのはソニアだけど、選ぶのはソニアだ。好きにすればいい」

「森が衰えるなら、やるしかないじゃないですか」


 やらなければならない。義務感もあるけれど、あの大イノシシに挑みたいと思った。それは猟師としての意地かもしれない。父さんなら挑んでいただろうし。


「おい、他にもあるんだろう」


 私の決意に水を差すようにサムが身を乗り出すと、彼の椅子がギシッと音を立てた。その顔は険しい。


「ああ。よくわかったな」

「ふん。お前はわかりやすいんだ。傭兵ようへい団を抜けた時だってそうだ。大事な話はいつも最後。こっちの身にもなれ」

「話はこう、締めくくられる。主の代替わりに手を貸した者は、その土地を離れなければならない。それが定めだ」

「どういうことだよ、ギル! 主を倒させて、その上、村を出ろだって? ふざけるな! あんまりじゃないか! 俺は認めないぞ!」


 今にもつかみかかりそうな勢いでビリーが詰め寄ったが、ギルは動じてもいなかった。ギルが見つめるのはビリーではなく私だ。

 

「主を倒した獣が次の主となる。それが人であってもだ。しかし人は森で生きられない。だから主になる前に土地を離れる。そうすれば違う獣が主になる。なぜそうなのかまでは知らない。そういうもの、らしい」


 要領を得ない話でビリーは爆発寸前だった。それも私のせいで。さっさと退散しよう。後は私が決めればいい。


「わかりました。サム、ビリー、今日は帰るわ。一晩考えさせて」

「おい! 待てよ! 話しは終わってないぞ! いいのかよ、それで!」

「だから考えさせてって言ってるでしょ! おやすみ」


 これ以上何か言われる前に出て扉を閉めた。とっくに日が落ちて、村は静まり返っていたが、ここには人の息づかいで満ちていた。

 どの家からも、それが伝わってきた。もちろん私が背を預けている扉の向こうからも。すぐそこにビリーがいるのがわかる。私のために怒っているのがわかる。

 ありがとう、ビリー。この村は私が守る。そこに私はいないけど、それでもいい。さよなら。楽しかったわ。


 翌朝、空が白んできた頃、森に入るために丘に登った。ビリーの祖母、ホリーが眠る丘に。これで最後だし村を一望できる丘に寄りたいと思った。そして一人で村に別れを告げよう。そう、思った。それなのに。


「遅いぞ。ソニア。待ちくたびれたぞ!」

「何で二人がここにいるの?」

「そりゃあ俺たちも一緒に行くからさ。俺とギルで見届けてやる。それぐらいいいだろ?」


 主殺しをするなんて言ってないのに。一緒に行こうなんて頼んでないのに!


「選ばれたのは私。だから私がやるの。ビリーたちには関係ない。帰って」

「うるさいな。俺が決めたんだ。俺の意思だ。勝手に関係ないとか言うな」

「……ビリーはいつも勝手すぎるよ」

「おう。しっかり見届けてやる」


 止めてよ。そんなに真っすぐ見つめられると困る。

 これ以上ビリーの顔を見ていられなかったから歩き出した。先頭を進んでいたから姿は見えなかったけど、ビリーが付いて来てくれるのははっきりとわかった。ビリー程じゃないけど、ギルがいるのもわかる。またこの三人で大イノシシに立ち向かうとは思わなかった。今度は私一人のはずだったのに。でも、とても心強い。そう、思った。


「それで? 無策じゃないんだろう?」


 もう少しで昨日の場所に着くと言うところでギルが口を開いた。

 もちろん考えはある。弓だけで立ち向かうつもりはない。父の残したいしゆみ。これでなければ致命傷を与えられないだろう。


「凄いのを持ってるな。よく使うのか?」

「いいえ。普段はまったく。弦を引くのに時間も力も使いすぎるから。それに、これの矢はそんなに残ってないんです」

「なるほどね。勝負は一瞬と言うわけか。どう使う?」


 通常、弓を射るのは高い位置からがいい。でも今回は違う。私が位置取るのは低地。イノシシは下りに弱い。重心が前過ぎるから。機敏に動けずに真っすぐ向かってくる相手なら狙いを付けやすい。


「わかった。もう一度だけ聞こう。本当に一人でやるのか? 助けを求めるのは恥じゃない。たった一言でいいんだ。それを言ってほしい。頼む」


 こんな心配そうな顔をする人とは思わなかった。間近で見るギルの顔は若かったけど、その目は子や孫を気遣う者の目だった。


「大丈夫。ビリー。あなたも手出ししないでね。助けてもらいたいのは山々だけど一人でやらせて。これは主への敬意なの。それと父の技を受け継いだ私の誇り、なのかな。だから、しっかり見届けてね」


 二人を安心させるつもりの微笑みだったけど、それは自然と零れたものだった。もう心残りはない。待たせたわね、森の主。あなたを救ってあげる。そこにいるんでしょ?

 主はそこにいた。木々がまばらな高台の上で。主だけじゃない。多くの獣たちが私たちを囲んでいた。まるで待ちわびているようだった。

 主は大きく土をかくと一直線に駆け下りてきた。

 一撃で終わらせる。狙いを定め留め金を弾くと耳の横に突き立ったが、浅い。下り坂だというのに主の勢いは落ちないどころか更に速くなる。

 あっという間に距離を詰められ、かわすだけで精一杯だった。弦を引く余裕はない。使い慣れた弓に持ち替えて二射。剛毛に阻まれ大した傷を負わせられない。

 主は木々を間を駆け抜け反転する。来る!

 主の進路を阻むようにビリーが盾を構えたが大きく跳ね飛ばされた。


「手を出さないでって言ったでしょ!」

「うるさい! 手は出してねえ!」


 すぐに立ち上がるビリーを見てほっとしたけど、それを隠すように怒鳴った。


「次が来る! 俺が防ぐからさっさと撃て!」


 そう言われても簡単に弦は引けない。焦る気持ちとは裏腹に弦は手に食い込むばかりでなかなか引けなかった。


「私がやる!」

「ギルまで! 見届けるって言ったのに!」

「気が変わった」


 ニヤリと笑うギルが弩を奪い取りと弦を引き始めたが、主はまた向かってきている。またビリー立ち塞がった。腰を落とし両手で盾を支えているけど、いくらビリーが頑丈でも何度も正面から受け止められるはずがない!


「私よりビリーを!」

「無茶を言うな。あんな突進、私が止められるはずがないだろう」


 ギルは歯を食いしばりながら弦を引き、留め金にかけた。


「できたぞ!」


 受け取った弩に矢を番えたけど間に合わない!


「腰を落とせ! すくい上げろ!」


 ギルの叫びを聞いたビリーは更に腰を落とし、盾の向きを変えた。


「うおおおお!!」


 ビリーが雄たけびを上げると主と激しく衝突した。同時に鳥が一斉に飛び立つ。主の巨体が僅かだが浮き上がり、土や小枝をまき散らしながら転がった。

 狙うのは今。起き上がりを見定める。私の手にあるのは弓ではない。慣れない弩だけどやる事はいつもと同じ。感じろ。私は矢だ。弩を構えているのも私だ。矢に意思は必要ない。真っ直ぐ飛ぶ矢に意思はいらない。だけど! 届いて!

 私の意思で留め金を弾く。私の意思で主を殺す。

 風切り音だけを残して矢は飛び立ち、額中央に突き立った。主は巨体を震わせると、ひざまずくようにして静かに、倒れた。


<礼を言う。人の子よ。これで森は……正しい姿と……なる>


 それっきり声は聞こえなくなった。もう主はいない。そこに横たわるのは、ただのイノシシ。役目を終えた大イノシシだった。

 見届けたとばかりに獣たちが去っていくのがわかる。終わったのね。


「痛てぇ。終わったのか?」

「無茶しすぎよ。でも、ありがとう」


 ビリーが肩をさすりながら立ち上がった。彼の足元にある盾はゆがんで使い物になりそうもなかったけど、無事で本当に良かった。ビリーに助けられたのはうれしかったけど、これで、終わり。


「で、この巨体はどうするんだ?」

「そのままでいいわ。森に帰してあげたいの。あ、でも少しだけ肉をもらおう。お腹空いたし。串焼きにする?」

「ソニアらしいな」


 そこまでお腹が減ってはいない。もう少しだけ一緒にいたかっただけ。

 

「老イノシシだったけど意外と美味かったな。さて、行くか。遅くなると大変だ」

「そうだね。ビリー、元気でね。あまり無茶したら駄目だよ」


 辛くならないように精一杯明るく言ったのに、ビリーは首を傾げた。


「何言ってるんだ? 俺も一緒に行くんだよ。そう言ったろ?」

「え? 聞いてないよ」

「言ったぞ。ソニアを見届けるって。これからもずっとだ」


 頬をかきながらそっぽを向くビリーをギルが小突いた。


「ほらな。やっぱり伝わってなかった。もっとはっきり言った方がいい」

「ビリー。私からもお願い。あなたの意思を聞かせて」

「ソニアだけ村から出て行かせない。俺はソニアと一緒にいたい。ずっとだ」


 私の手を取るビリーは真剣な目をしていた。彼らしい真っすぐな目。思えばビリーはいつだって真剣だった。


「木こりの仕事は? サムは? 家族のみんなはどうするの? 私に付いて来ても苦労するだけだよ」

「大丈夫。わかってくれてる。二人いればなんとかなるって。それとも俺が一緒じゃ嫌か?」

「そんなわけないじゃない」


 笑みを浮かべたビリーに釣られて私も笑った。


「ギル! あんたが証人になってくれ!」

「引き受けよう」


 ビリーは私の手を持ったまま膝をついた。そこには幼かった彼はいない。戦士に憧れていた彼もいない。成長し、大人になって、頼もしくなったビリーがいた。


「ソニア。俺と結婚してくれ」

「喜んで」


 答えると同時に立ち上がったビリーに抱きしめられた。彼の息づかい、熱が伝わってくる。

 村を離れたらどんな苦労が待っているかは想像もつかない。でも。ビリーが一緒ならなんとでもなる。

 そうよ。二人で乗り越えていけばいいだけじゃない。私はもう一人じゃない。


「この結婚は、私、ギルが見届けた! 意義がある者は申し出よ!」


 ギルの宣言が森の静寂に溶けていった。森はいつものように、静かで、優しく、私たちを包んでくれている。

 もう、こんな森の奥深くで誰が聞いているのよ。

 でもこれでいいのかもしれない。森とギルに祝福してもらえるならそれでいい。ビリーと共にあれるなら、それでいい。そう、思った。

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