第8節② 異端審問官と旅人

 まず、歴史からおさらいしよう。聖杯伝説はいつの時代の話か? ギルはそう私に問いかけました。

 正確な年代は知られていません。はるか昔の出来事だとだけ伝わっています。

 では、聖杯が持ち帰られたのは?

 それは記録に残っています。おおよそ二百年前。信心深い信徒が長い探索の果て、この地より持ち帰りました。


「なるほど、そこの聖杯を取ってくれないか?」


 先ほどまで暖炉の上に鎮座していた聖杯の複製品。今は転がっているそれをギルに渡しました。火に照らされ、銀の杯は暖かい光を放っています。彼は回しながら刻まれた模様を注意深く観察しました。どんな小さい情報も見逃さないように。


「ここに刻まれている山を見てくれ。鋭い頂きをもつ山が三つある。これはこの地にある山だ。晴れていればよく見えるんだけどね」

「偶然の一致でしょう」

「そうかもしれない。それからこの描き方。細かい傷のような線を組み合わせて描かれている。これもこの地、独特の技法だ。さっき私がホットブランデーを飲むのに使った杯にも同じ技法で描かれていた」


 ……先ほど感じた既視感はこれでしたか。


「この地で作られた杯が聖地に伝わり、聖者がそれを使ったかもしれません」

「十分あり得る話だ。それでは山と一緒に描かれたもの、麦穂はどうだい? この地に麦が伝わってきたのはおおよそ二百年前。うそだと思うなら街に行ってから確認してみるといい。その伝承は聖杯伝説同様に知らない人はいない」

「それが、一体なんだというのです?」


 私にはギルが何を言いたいのか読み取れません。しかし、私の信じるものが足元から崩れていきそうな、嫌な感じがしました。


「つまり、麦を知らなければ、この模様を描けない。二百年以前に聖杯は作れなかった。そう思わないか?」

 反論しなければいけない。しかし私は何も思いつきません。考えてみれば、今まで何一つ自分で考えていませんでした。私に神命を伝える枢機卿すうききょう、神の言葉。疑うなどもっての外。考える必要はありません。しかし……

 さらにギルの言葉は続きます。


「信徒が聖杯を持ち帰った。それが二百年前。もう一つ付け加えよう。当時この地は食料不足で餓死者も多かった。鉄や銀はたくさん採れるけど、それでは腹は膨れない。その信徒は農耕に詳しく、麦を伝えた。数年かけて安定して生産できるようになった。感謝の証として多くの銀が贈られたけど、彼は受け取ろうとしなかった。それならばと知恵をだしあって作ったのがこの杯。この地を表す山々と、彼が伝えた麦穂を描いた杯。財は受け取らなかったが、これだけは受け取っていた。とても喜んでいたよ」

「まるで見てきたかのように話しますね」

「そう聞こえたかい? どうやら私は語り部としてもやっていけそうだ」

「あなたは、その信徒が聖杯を偽ったと言うつもりですか?」


 今まで、問いかけに対して軽快に答えていたギルの口が止まりました。やはり怪我をしているのでしょうか? いえ、違います。これは返答に詰まっていますね。


「わからないが……彼は偽ってまで手柄をあげようとする人ではないよ。しかし、彼の名誉を守るのなら聖杯は本物だと認めるしかないか。降参する。この勝負は君の勝ちだ」


 もう少しで勝てそうだったと、力なく笑うギルでしたが、聖杯が偽りであるとの説には反論しようもありません。少なくとも私にはできない。なぜならば今まで自分で考えようとしてこなかったからです。聖杯が本物であると証明しなければイェルドを討てません。いいでしょう。今まで使ってこなかった分、頭を使ってみるとしましょう。それが神のご意思だと信じて。


 ふと気がつくと隙間から入り込んできていた雪が収まっていました。火も弱まっています。また木片をくべなければ。

 しかし、どれだけ頭を働かせても答えはでません。長年使わなかった筋肉が固くなるように、私の頭も固くなっているようです。それに引き換えギルの思考は柔軟。少し羨ましくもあります。わずかしか言葉を交わしていませんが、異端審問官である私と気後れせずに会話を楽しもうとする人は今までいませんでした。少し、彼を知りたいと思います。できればこんな環境ではなく、寛ぎながら話してみたい。そう思えました。

 チラリと見ると彼の動きがありません。眠ってしまいましたか。しかし、凍える寒さの中で眠るのは危険だと聞いたことがあります。何度か揺すると目を覚ましてくれました。


「ありがとう。いつの間にか眠ってしまった。それにしても冷えてきたな」


 彼は荷物から小さい赤い実と干し肉を取り出し口に入れました。私にも勧めてくれたのでありがたくいただきます。

 !! これは辛い! 冷えた体が一気に熱を帯び、涙が流れました。


「ゲホッ! 何ですか ゲホッ! これは?」

「唐辛子という香辛料さ。ククッ。辛いけど温まるだろう? エールに入れると美味い。そうだ、ブドウ酒なら少しある。飲むかい? ああ、すまない。禁じられているんだったな」

「いえ、一口だけいただきます。というよりもこの辛さは何か飲まずにはいられません。それに、友の勧めです。神もお許しになるでしょう。ギル、あなたを友と呼んでもよろしいですか?」

「ああ。君は私の友達だ、アダム」


 彼は笑顔ですが、徐々に生気が失われつつあるように見えます。励ましになるかわかりませんが、私には語り続けるぐらいしかできません。


「ギル、先ほどの続きをしましょう。議題は持ち帰った杯がなぜ聖杯となったか? です」

「それだと聖杯が偽物だと認めることにならかいか?」

「私にはそれを覆す説が思い浮かびませんでした。それより、なぜ事実が曲がってしまったのか? それが知りたい。ギル、一緒に考えてくれませんか?」

「二人で考えよう。この倒壊した礼拝堂が私たちの研究室だ」


 彼の目に力が戻りましが、考え続けさせなければいけません。そのためには私が切っ掛けを与えなければ。先ほどの彼はどうやって始めたのか? そう、歴史からです。


「まず歴史からおさらいしましょう。聖杯が持ち帰えられたのは二百年前。その頃の教会はどのような状態だったのでしょうか? 私は知りません。あなたはどうですか?」


 彼なら知っていそうな気がしました。二百年前の出来事を見てきたかのように語るギルならば。


「今ほど強い力を持っていなかった。むしろ弱かったと言ってもいい。土地独特の精霊信仰が主流だった。……そうだな、聖杯を持ち帰られて伝説が広まり、急速に力をつけていった」

「そうであるならば、こう考えられませんか? 司祭が持ち帰った友好の証である杯を聖杯として利用されたのだと。だから枢機卿はイェルドの訴えを罪とした」

「それはありえる話だけど……いいのか? 異端審問官がそんなことを口にしても」

「私が仕えるのは神です。御名を利用する者ではありません。それに、この小さな研究室にいるのは私たちだけです。何も問題ないでしょう」


 自分でも口にした内容に驚きました。神命を与えてくださる枢機卿を疑う発言です。何が正しいのか? それはわかりません。ただ強く思うのは真実を、歴史を知りたい。それだけです。その為には多くを学ぶ必要があります。幸い私が勤める大聖堂には立派な図書館があります。学び考える環境には恵まれています。


「では、イェルドはどうする?」

「真実が不明であるならば何もしません。罪なき者を裁くのは神のご意思ではありませんから。枢機卿はそれを許さないでしょうが上手くやります。その気になれば枢機卿ですら断罪できるのが異端審問官です」

「それがアダムの答えかい?」

「はい。それも、ここから出られればの話ですが」


 おそらくイェルドは戻ってきません。私たちはここで果て、天の国に旅立つでしょう。最後にギルと知り合えて良かった。語りあえて良かった。イェルドを裁かずに済んだのですから。

 できれば大聖堂へ戻り、枢機卿に問いただしたい。それは後世の誰かが行ってくれるでしょう。真実を追うものが。

 目を閉じ、手を組みました。神よ。あなたの御許でも仕えさせてください。

 もう人任せにしません。私は、私の信念を持って、あなたに使えます。


 その時、壁の一部が崩れて冷たい空気が吹き込んできました。大勢の声が聞こえます。小さく開けられた穴からのぞき込む顔はイェルド。私たちを見てほっとしているのがわかりました。


「神よ! 感謝いたします! さあ今助けます。もう少しだけ耐えてください」

「待ちわびたよ。退屈で眠ってしまいそうだった。なあ? アダム」


 ギルの軽口に付き合う気になれませんでした。私の関心はイェルドの行動に傾いています。


「なぜ、戻ってきたのですか? 私はあなたを裁こうとしていたのに」

「隣人の危機には手を差し伸べよ。我らが神の教えの中でも、私が最も大切にする教えです。いえ、共に苦難に立った者を見捨てられるわけがない。違いますか?」

「その通りですね。救援、感謝します。出来れば急いでもらえますか? ギルが酔いつぶれそうなので」


 私の言葉を聞いたギルがいたずらっぽく笑いながら差し出した聖杯を受け取りました。彼はブドウ酒を聖杯に注ぐと瓶を掲げます。もちろん私もです。


「飲むといい。賭けに勝った私からのおごりだ」

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