第8節① 異端審問官と旅人
私には神命があります。一刻も早く、神を
こんなところで足止めされている場合ではない。いくら猛吹雪とはいえ、このままこの古い礼拝堂に身を潜めていいものだろうか。目的である麓の街までもう少し。多少無理をしてでも進むべきでは?
「だめだ、収まるのを待ったほうがいい。日中だというのに何も見えない」
冷えきった空気と共に駆け込んできたのは、私と同じように吹雪に阻まれた旅人。つば広帽とコートに張り付く雪を払いながら私たちのおかれている状況を教えてくれました。
「雪も酷いけど、それ以上に風が強い。雪が巻き上げられてどっちを向いているかわからなくなる」
旅慣れている彼がそう言うのでは仕方がありません。神命を成す前に倒れるのは許されませんから。
凍てつく手に熱を取り戻さんと擦り合わせる彼の元に、足止めされていたもう一人の男が近づきました。
「お疲れ様です。どうぞ火の近くへ。それとホットウイスキーはいかがですか? 温まりますよ」
その様子を見て思わず眉をひそめてしまいました。彼は麓の街に住む司祭だという。気遣う精神は褒めましょう。しかし信徒たる者が酒を勧めるなどとは許されません。
視線を感じたのか、私に向けて片目を閉じ、口に指を当てています。
「こんな状況です。見逃してください」
仕方がありません。人を救うのも信徒の務め。信徒が口にしないのであれば認めましょう。辛うじて、ですが。
「これは美味いな。それに杯もいい。この模様の刻み方はこの土地由来の技法だった気がする」
「ええ。そのウイスキーも杯も、古くから受け継がれたこの土地のものです」
旅人の手にある杯には短く細い線を組み合わせた模様が刻まれていました。どこかで見たような気がしますが、思い出すまでには至りません。
そんな事はどうでもいいのです。それよりも、神命。
この辺りの気候に明るくないので聞いてみました。
「私たちはいつまでここに足止めされるのでしょう?」
旅人は窓の外に目を向けながら肩をすくめています。
「さあ。吹雪が収まるまでだね。それこそ神頼みというやつさ。お祈りしてくれないか? 司祭様。いや、助祭? 違うな。どちらでもない」
驚きました。彼は私の祭服で役職を判断したようです。確かに司祭、助祭の祭服と似ていますが、これはどちらでもない。彼にはその違いがわかっている。それは教会という組織を知っていることに他なりません。
「私は異端審問官です。異端者を断罪するためにこの地を訪れました」
異端者。その言葉を聞いて反応する者が一人。優しい笑みを浮かべていたいた司祭。その顔から笑みは消え失せていました。
異端審問官が全ての信徒から嫌われ、怖れられているのは知っています。しかし、これは。ああ、全能なる神よ。吹雪に足止めされていたのではないのですね。導かれて私はここにいる。神よ。神よ。感謝します。
立ち上がり、司祭を正面から見据えると気圧されたのか一歩下がりましたね。
一瞬にして穏やかな室内はひりつく空気に満たされました。暖炉の薪が爆ぜ、思った以上に大きく響きます。暖炉の上にある聖杯。教会や礼拝堂ならどこにでもある複製品。これが全ての発端。
「司祭。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「イェルド・サリアン。そうですか、あなたが教会の答えですか」
「全能なる神よ。この者にあなたの御許で罪を償う機会をお与えください」
剣を抜き、刃を持ち上げると炎を反射して神々しい輝きが放たれました。観念したかのように動けずにいるイェルドに向けて踏み出すと、床板がギシリと嫌な音を上げ、ました。
神よ、神よ! 神よ!! この者の魂に救いを!
しかし、神命を果たさんとする私の前に旅人が立ち塞がりました。
「待て! 静かに!」
なんだというのです? 仲裁のために割り込んできたかと思えば、見当ちがいの事を……
いや、遠くから地鳴りのような音が…… それは、次第に近づいてきて……
「伏せろ! 雪崩――」
彼が言い切る前に壁が吹き飛び、屋根は崩れ、激しい衝撃に打ちのめされ、私の意識は途切れました。
「……おい! 目を覚ませ! しっかりしろ!」
何度も腕をたたかれ、目を開けると、体を起こすこともできない僅かな隙間に閉じ込められていました。
暖炉の火は残っていましたが、長くは持たないでしょう。旅人は近くにいましたが、下半身が崩れた棚の下敷きになっていて動けなさそうです。
「どれだけ気を失っていましたか?」
「良かった。意識ははっきりしているな。それほど長くない。体は無事かい?」
体の半分が雪で埋まっていましたが抜け出せそうです。しかし、身をよじると左腕に激痛が走りました。
傷みを堪え、なんとか抜け出しましたが左腕に深い刺し傷があります。出血は……止まっていませんね。
「酷いな。悪いけど、私の荷物を取ってくれないか? 届かなくてね」
ほんの一メートル先でしたが、痛みと隙間の狭さから埋まっている荷物を引きずり出すのは大変な仕事でした。
彼は傷口に布を巻き、その上から石のカケラを挟んみこんで強く縛りました。
止血ですね。それにしても手慣れている。
礼を伝えようとした時、声が届きました。おそらく外からです。
「大丈夫ですか! 返事をしてください!」
「二人とも無事だ! しかし身動きができない! イェルドは!」
「私は問題ありません! すみません! 私一人ではどうしようもありません! 街まで助けを呼びに行きます! それまで耐えてください!」
「待て! この吹雪では危ない! 無理するな!」
「大丈夫です! ここは私が生まれ育った土地です! 多少視界が悪いぐらいでは障害にもなりませんよ! 行きます! 二人とも頑張って!」
イェルドの声はそれっきりでした。彼はまんまと逃げおおせた。そして私は倒壊した礼拝堂の下。なぜ神は異端者の味方を? いえ、これは神に与えられた試練。一瞬でも神を疑ってしまったことをお許しください。
「さて、手当は済んだし、私たちを動けない。あとはイェルドが戻るまで待とうか」
「戻らないでしょう。彼は異端者で私は異端審問官です。わざわざ殺されるために戻るとでも? 馬鹿げています。それにこの吹雪。自然が彼を裁いてくれるでしょう」
「どうかな? 彼は戻ってくる。根拠はないけどね。それより、火が小さくなってきた。近くにある燃えそうな物を放り込んでくれるか? あまり火を大きくすると煙で先に死ぬことになる。絶やさない程度でいい」
言われるがまま、床板の破片をくべる。時間は掛かりましたが、上手く火を育てられました。
「次は?」
「何も。もう希望を持つしかできない」
旅人はおどけて見せてはいますが、その額からは脂汗がにじみ出ています。
「あなたこそ大丈夫ですか?」
「ああ、私はわりと頑丈でね。動けなくて退屈なぐらいさ。そうだ。退屈しのぎに話をしてくれないか? そうだな、イェルドの罪とやらを聞かせてほしい。いきなり剣を抜いたから気になって仕方がない」
本来は語る必要はありませんが、手当の借りは返さなければなりません。
それに彼は私を恐れない。信徒であるなし関わらず、異端審問官と聞いただけで皆、私から遠ざかる。そんな彼に興味を覚えました。
「彼の罪を語るには、まず聖杯伝説について知る必要があります」
聖杯伝説とは聖者が起こした奇跡の伝説。
異教徒に殺された友の為、三日三晩祈り続けた信徒がいた。哀れんだ神は涙を流し、その者を助けようと言った。声に従い涙を杯で受け止め、友に浴びせかけると、息を吹き返した。信徒は聖者となり、その杯は聖杯と呼ばれた。
これが私の知り得る聖杯伝説の情報だったが、旅人も知っていたようでした。
「それなら知っている。その所在は長い間不明だったが探求の末に持ち帰られた。見つけられた場所がここ、私たちが今いるこの地。この地でその伝説を知らない者はいない」
「その通りです。そしてイェルド・サリアンは聖杯伝説に異議を申し立てた。聖杯が偽物だと訴えたのです」
「それでイェルドを異端として断罪すると。もう少し詳しく教えてくれないか? ただ偽物だと訴えたわけではないだろう? それなりの証拠を示したはずだ」
旅人の指摘は正しい。当然、私はイェルドの提示した証拠を確認しました。
「彼が示した証拠は三つ。一つ目は聖杯が銀製であること。奇跡の地、聖地で銀は産出されない。二つ目は、はるか離れた縁のないこの地から持ち帰られたこと。そして三つ目が、聖杯に刻まれた模様です。刻まれているのは山と麦穂。聖地は広大な平野。見える範囲に山はありません」
一見、理に適っています。しかし聖者が聖地の杯を使ったとは限らない。証拠としては弱い。そして聖なる杯を非難したことは許されません。それ故イェルドは異端とされました。
「教会は検討して異端だと?」
「知りません。私は決定に従います。それが、神の意思であり、秩序です」
「では勝負しないか? 私が検討してみよう。君を納得させれば私の勝ち。納得できなければ君の勝ち。どうせ何もできない。暇つぶしだと思ってさ。どうだ?」
恐れ多い事を気軽に口にする旅人です。教会に決定に盾突くと思われかねないというのに。しかし、ほんの少しだけ興味が湧きました。
「勝者は何を得るのですか?」
「何も。君は信徒だ。賭け事はできないだろう?」
「いいでしょう。それであなたの気が紛れるのなら」
「ありがとう。では始めようか。その前に私はギル。君は?」
「アダム・ウィーランです。改めてよろしくお願いします」
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