夕暮れの神社

葉月 望未

夕暮れの神社

 肌に触れる冷気は夏から秋への変わり目のせいではなく、自分の内側の怖気おぞけからそう感じているものだとわかっていた。


 なぜなら今日は丁度良い気温だからだ。風もないし寒くもないはずなのに、さっきから鳥肌が止まない。


「……まずい」



 呟いて、早く戻るよう自分を促すが足が動かず、冷や汗はワイシャツを濡らしていくばかり。


 家の近くにある神社の裏手。晴天にもかかわらず鬱蒼うっそうとした木々が神社を囲み、光が届かない暗い陰湿な場所だった。


 神主の姿など一度も見たことがない。それどころか参拝する人すら見かけたことがなかった。


 廃れた神社は木造が腐り蜘蛛の巣が張っている。鳥居は時をどれほど重ねたのか想像もできないほどに古く、朱色の面影すらない。


 けれどその神社の噂や心霊スポットになっているなどの情報や噂は全く聞いたことがなく、地元の人達からすると存在さえ忘れられているような神社だった。



 視界には入っているが、存在を認識していないという無関心。



 俺はいつも通学路でその神社の前を通っていた。



近くには住宅もあって、別にどうってことのない神社。俺だって普段は神社に意識なんて向けていない。ただ今日だけは違った。



 部活が終わり——それは文字通り、予選敗退で中学のサッカー部を引退した、その日。



悔しくて悔しくて、泣きそうに鼻をすんっと鳴らした俺を見て、同じクラスの西原が「夏にできなかった肝試しとか花火とか、部活で出来なかったぶん、今やるぞ」と歯を見せて俺の肩に腕を置いた。


 するとそれを近くで聞いていた佐々木が「それじゃあクラスの女子も呼ぼうぜ。どうせこれから受験勉強ばかりになるんだし、今のうちに楽しんどかないと」と俺の背中を軽く叩いて笑った。


 「肝試し」で真っ先に浮かんだのは家の近くのあの神社。そこで俺は「いい場所知ってるから、ちょっと下見しとくわ」と軽い気持ちで言ってしまったのだ。


 心霊スポットなんて、本気な場所は怖いから嫌だ。肝試しで怖さやスリルを友達と楽しむという思い出だけが欲しいのだから。



 だからこそ、あの神社はうってつけだった。それなのに。



「……動け。動け、動け」


 足、動けよ!


 視線を落とすと、汗がポタリと土の上に落ちていった。



 明るかった空はだんだん暗くなり始めている。夕日が背中に赤くのしかかり、影が長く伸びていた。その俺の影を木々の影が飲み込んでいる。



 鳥居をくぐると静けさが広がっていた。それは自分の鼓膜を感じるほどの静けさで、虫の音一つしなかった。



 落ち着いていて、いい場所じゃないか。それなりに雰囲気もあるし、ここで肝試しをやろう。本殿の裏とかまでまわれたら、より雰囲気でるよな。


 と、考えながら、この間買ったばかりのサッカーボールを足の甲で上げ、落ちてきては上げ、を繰り返していると。



「あっ!うわ、失敗した」


サッカーボールが本殿らしきところの裏——草が腰の高さまで伸びているところに入り込んでしまい、溜め息を吐き出しながら草をかき分けていった。



 かき分けて、かき分けて、気づいた。



 ——こんなに草が茂っているならもっと手前でボール、止まらないか?



「……な、んだ」



 突如、視界に入る、ほこら


祠の周りだけ不自然に草がない。祠を囲むように真っ黒で、見るからに冷たそうな固い土があった。


その土を踏んでいる、俺の右足。——踏んでいるのは土だけではなく、紐のような物も一緒に。



 その紐につけられている、白い、いや、相当古いのだろう、白さはどこにもなく黄土色になっている、それ。


神社でよく見る、しめ縄と一緒につけられている、多分神聖な白いあの紙。ひらひらした、名前がわからないけど、「あれ」。



 それを俺が、踏んでいる。



 喉元に気持ち悪さが込み上げてきて、目が飛び出そうな悪寒。本能が警告を鳴らしていた。ここにいてはまずい、と。



 サッカーボールは祠の前にあった。おかしい。縄があるのなら、縄で止まるはずだ。


おかしい。まずい。きっと、よくないものだ。



「ねえ」


「うわあっ!?」



 後ろからくっきりと濃く、高い声がした。驚いた反動で体が飛び跳ねて動けるようになり、気づけば俺は振り返っていた。



 そこには二つ縛りの女の子が立っていた。


目は一重にもかかわらず大きい。黒目が俺を見上げていた。


真っ赤なワンピースが神社の暗がりに浮かび、おぞましさを感じてしまう。



「それには近づいちゃ、駄目」



 くいっと俺の制服の裾を引っ張り、女の子は白い人差し指で祠を指差した。


思わず祠へ目を向けてしまうと朽ちた扉の部分——闇が動いたような気がして「ひっ」と、小さく悲鳴を漏らす。



「サッカーボールは駄目よ。ゆう君のものだもの。返さないと駄目」


「う、うわあああっ」


 俺は、凛とした表情の女の子の横顔を見て逃げ出した。


 あの子は祠へ話しかけていた。きっと「何か」がいるんだ。



あの女の子は誰なんだ。ていうか、女の子置いて来ちゃったよ、俺。あんな小さい子がこんな夕方に、大丈夫、だろうか。



 全速力を出して荒い息と動悸を感じながら、振り返る。



 神社はもう見えない。日が沈み、夜がやってくる。



 俺は、また、戻るのか?あの、怖いところに?でも、女の子が。

 ……戻りたくない。怖い。嫌だ。



「……母さん、お願いが、あるんだけど」



 俺は母さんを、頼った。いつも口うるさい母さんを鬱陶しく思っていたけれど、こんな時にはやっぱり頼ってしまう。


情けないとは思うけど、あの場所にもう一度一人で行くなんて、絶対に無理だ。



「なあに、泣いてんの?どうしたっていうの」



 なんて母は笑いながら俺の真っ赤な鼻を突いた。



「この神社に来るのなんて何年ぶりかな。すっかり廃れちゃって。で?サッカーボールだっけ?あんたも可愛いところあるよね、お化けが怖いなんて」


「ほ、本当に、あれは、まずいやつだったんだって!」



 能天気に笑いながら母は躊躇することなく草むらをかき分けていく。


俺は早い鼓動に嗚咽を溢しそうになりながらも母の後ろをついていった。



「女の子、いる?母さん、あんまり進みすぎんなよ。祠が」



「祠?ここに?そんなのあったっけ。その女の子、もう帰ったんじゃない?いないよ」



 かき分けても、かき分けても、草。



 母さんは首を傾げて、「きっと大丈夫。帰ったよ」と俺の肩を優しく叩いた。

 俺は、母さんの言葉に反応する余裕がなかった。


草、ばかり。草の先には民家と神社とを仕切る高い壁。呆然と立ち尽くした。



「ほら、帰ってご飯食べよう」


 グイッと手を引かれて母さんときた道を引き返す。おぼつかない足取りで、生茂る草を見つめる。俺は狐につままれた気分だった。


 サッカーボールはないし、女の子もいなかった。それどころか祠も。



 「何か」はサッカーボールを欲しがっていた。

——ぞっとして、俺はすぐに前を向いた。草むらのその先を見てはいけない気がしたからだ。




 その後、俺の懇願もあり結局肝試しは中止になった。



あの日からあの神社の前を通るのが心底怖く、神社を視界に入れないようにした。前を通る時には必ず走るようにした。


遠回りをしたこともあったが、その夜にはあの神社が夢に必ず出てくる。



 祠の中から声がする。何かをぼそぼそと低い声で、言っている。


黒い唇が動いている。感じるのは、どうして離れていくのだという怒り、寂しさ、苛立ち。無性にあの神社に行かなければと夢の中で思ってしまう。



 けれど目が覚めるとそう思ってしまった自分自身が恐ろしく、半泣きになりながらやっぱり母さんを頼るのだけれど、夢の話をしても「夢だって」と困った顔をされるだけ。




 決死の思いでその神社の前を通った日には、その夢を見なかった。だから、やむを得なく元の通学路で学校に行っている。




事が動いたのは、あの出来事から一週間が過ぎた帰路のことだった。



 てんてんてんっ、と、サッカーボールが神社から転がってきたのだ。

 まっすぐ俺のところまで。


「……ひっ!」


「ゆう君、サッカーボール、やっと返してもらったの」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、鳥居の先にあの時の女の子が立っていた。


 後ろで手を組み首を微かに傾け、可愛らしく笑っている。



「怖かったね。あいつ、夢にまで出てきたんでしょ?私の大事な人をいじめるような奴、許せないよ。だから、ちょっと懲らしめてやったの」



 あの日と全く同じ格好で、ふふっと小さく肩を揺らして笑っている。




 その表情には憎悪ぞうおの強く暗い光が灯っていた。唇を引き伸ばして笑うその様は、子どもには見えないほどに不自然なものだった。




「ゆう君はもうこの神社には入らないほうがいいよ。ね?ほら、もうお帰り」



 女の子は目を細めて微笑むと俺に触れるように手を伸ばし、鳥居の先から俺を撫でていた。


ずっと恐怖で支配されていた心が、撫でられるたびに解かれていくのを感じた。


 そうして彼女は遠慮がちに手を振ると、あの祠があった草むらの中に消えていった。







 ——その数年後、大学で上京するために引っ越しの準備をしていた時。


 アルバムの中から整理されていない写真の束がハラハラと落ちてきて。


 その中に、あの女の子に似た人がいた。今ではもう顔もうろ覚えだが、あの真っ赤なワンピース。




彼女は俺が幼い頃に亡くなった、祖母だった。



母の話では「葉夕太はゆた」と親族が俺の名前を呼ぶ中、唯一、祖母だけが真ん中の「夕」をとって「ゆう君、ゆう君」と柔らかい声で何度も呼んでいたという。



 あれから俺は一度もあの神社に行っていない。もちろん、祖母にも会っていない。


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