春の章:四月その三

 何とも奇妙な光景だろう。

 屋敷の末娘と、庭師が桜を見上げてお茶を飲んでいるのだから。

 糸は離れの浜縁に座り、比呂は外から浜縁の高欄にもたれながら。


「桜、綺麗ね」

 糸は桜を見上げて笑う。

 比呂はどうしたものかと悩みながらも「そうですね」と取り敢えずの相槌を返す。

 先程渡された落雁を口に含むと、舌の上ですぐに溶けて甘さが口に広がる。菓子を食べたのはいつぶりだろうか。

 安居院の家に来る少し前に、末の弟が小学校で書いた作文が先生にとても褒められたということで母も比呂も他の兄妹に大喜びだった。

 その話を知った隣りの家の老婆が「良いことがあった日には美味しいものを食べるもんだ」とおはぎを持ってきてくれたのだ。恐らくそれからは食べていないと思い出しながら、あっという間に口の中で消えてしまった落雁の余韻に比呂は浸る。

 糸はそんな比呂を満足そうに見ている。


「甘いのはお好き? もう一つ如何?」

 糸はそう言いながらずいっと落雁が敷き詰められている箱を差し出してくる。

 甘いものは嫌いではないが、流石にこれほどの高級品を幾つも頂くわけにはいかず比呂は「一個で満足しました」と返すと、糸は「そうなの」と残念そうに肩を落として落雁を一つ口に含んだ。比呂が落雁を断ってがっかりした様子だったが、口に含んだ落雁の甘さにすぐさま明るい表情が戻ってくる。


「家の者は皆働き者で忙しくしているから、誰も私のお茶に付き合ってくれないの。でも今日はお前を捕まえられて嬉しいわ」

「はあ」

「仕事の手を止めさせて申し訳なかったけれど、運が悪かったと思って諦めて頂戴」

 そう言って糸は悪戯っぽく笑う。まるで企みを成功させた童子のようだ。

 比呂はそんな失礼なことを思いながら、やはり妹に接しているような気分になる。本当に失礼な話だが。


「今日はもう終いのつもりだったので」

「あら、そうなの」

「後は引き抜いた草を片付けるだけです」

 比呂はそう言いながら桜の花びらが浮いたお茶を啜る。

 使用人たちが普段口にする番茶とは明らかに味も香りも違う高級なお茶に最初比呂は何を飲んでいるのかわからなかったが、これが普段この娘が口にする『お茶』なのだろう。生まれた家が違うと、こうも人生が変わるものなのかと比呂は他人事のように考えてしまう。

 美しい着物、日焼けのない真っ白な手、よく手入れされた艶やかな髪。

 どうやったらそんな生き方ができるのか。

 生まれた場所が違うだけでこうも人間は変わるものなのか。


 きっとこの娘とは分かり合えるものなぞ存在しないのだろうな。


 比呂がそんなことを思いながら糸に視線を向けると、糸はじっと桜を見上げていた。

 その視線に、桜を美しいと思う気持ちは共に存在するのだ、と認識を改める。

 しかし次の瞬間、糸の発言に比呂は驚かされることになる。


「ねえ、今日の仕事はもう終わりだと言ったわね」

 桜を見上げていた糸が不意に真剣な眼差しを比呂に向ける。

 その鋭さすら感じてしまう視線に比呂は思わず身を捩りながらも「はい」と返事する。


「では、もう一仕事してほしいのだけれど」

「……何でしょうか」

 何だろう、お嬢様の気まぐれに何か芸でもさせられるのか。

 比呂が極力顔に出さないよう努めなつつ糸の言葉を待っていると、糸はゆっくりと視線を桜の木に戻してその降り注ぐ薄紅色の花びらを指差す。


「花を取ってきて」

「……部屋に飾るものを、でしょうか」

 少し前に枝は要らないと言っていたのに。

 しかしながら気分が変わることもある。使用人として枝くらい剪定するのは吝かではない。比呂が考えていると、糸は勢いよく首を横に振る。


「違う、花だけ」

「花だけ、ですか?」

「桜の塩漬けにしたいの!」

 そう言いながら目を輝かせる娘に比呂は呆気に取られる。

 桜の塩漬けとな。

 驚く比呂を余所に糸は話を続ける。


「毎年この桜の花を使って庭師が桜の塩漬けを作っていてくれていたのだけれど、去年は庭師がいなかったことと何だか家の者が忙しくしていたから桜の塩漬けを作っていなかったの」

「はあ……」

「いつもは特別の日に桜湯を飲むのだけれど去年は全然なくて。ねえ、桜の塩漬けは好き?」

 急に話を振られて比呂は呆気に取られながらも「好きです」と返す。

 普通なら目出度い席で出されることの多い桜湯。

 桜の塩漬けも頻繁に食べられるものではない。糸の言う通り、何か特別のときのためのことが多い。

 比呂としても去年親戚の娘が嫁ぐのでその祝いで桜湯を飲んだが、湯に浮かぶ桜の花を見るとこれが目出度い席なのだと感じて嬉しくなる。そういう意味で、桜の花が好きなのだ。

 そういう席で余った桜の塩漬けを貰い、それで作ったおむすびを兄妹に振舞うと笑顔で喜んでくれるのもやはり彼が桜の塩漬けを好きな要因の一つだ。

 西の街では、桜の塩漬けを埋めたあんぱんがあるらしいが、比呂自身それを見たことはない。一度でいいからお目にかかりたいものだ。


「桜の塩漬けで家族におむすびを作ると喜ばれました」

「まあ、おむすび! 素敵ね! おむすびは食べたことがないのだけれど、米を固めた食べ物でしょう? あれに桜を乗せるの?」

「……おむすび食べたことなんですか?」

「ええ、米は器に盛られたものしか食べたことがないわ。手で食べるのははしたないと長滝に怒られるの」

 御干菓子は手で食べても怒られないのにね。

 糸は納得できないという様子で首を傾げる。

 比呂は比呂で、おむすびを食べたことがない人間の存在に驚く。そんなヤツいるのか。

 しかしながらこれが『育ちの差』というものだろうかと比呂は無理矢理納得する。


「桜の塩漬けができたら、おむすびを作って頂戴」

「はしたないって怒られるんじゃないですか?」

「駄目よ、私にそんな素敵なものがあることを教えてしまったのだから。ねえ、良いでしょう?」

 糸はずいっと高欄にもたれる比呂に近づき微笑む。

 その童子のような微笑むに、比呂は返答を詰まらせる。その屈託ない笑顔が、桜の塩漬けおむすびを頬張る兄妹たちの笑顔を思い出させてきて比呂は肩をすくめる。


「桜の塩漬けが上手く出来たら……で、良いですか?」

 比呂がそう呟くと、糸はその白い頬を紅潮させて頷く。

「きっとよ! きっと! ねえ指切りしましょう!」

 糸は喜びに表情を溶かして、比呂に右手の小指を突き出す。

 その白く細い小指に比呂はまるで妹と約束を交わす時のように小指を絡ませようと右手を近づけるが、ふと自分の手が土で汚れたままなのを思い出して引っ込めようとする。だけどそれよりも早く糸は比呂の右手小指に自分の小指を絡ませる。


「糸様、手が汚れます」

「大丈夫よ?」

 そう言いながら糸は右手を縦に振って歌う。

「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲まーす、指きった」

 そう言って糸は絡めていた指を離す。離れていく彼女の小指の白い腹に少し土が付いて比呂は罪悪感を覚えるが、糸は気が付いていない様子でゆっくりと立ち上がる。

「じゃあ早速始めてくれる? 私、ざるを借りてくるわ!」

 そう言ってさっさと離れと母屋を繋ぐ廊下を行ってしまう糸。比呂はその姿に困惑しながらも、持っていた湯呑のお茶を飲み干してお盆に戻すと急いで脚立と鋏を取りに急いだ。

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美しの糸 神﨑なおはる @kanzaki00nao

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