春の章:四月その二

 安居院あぐい家での生活が始まって四日目。

 朝起きて身支度を済ませると、まずは屋敷を挟んで庭とは反対方向にある畑へ向かう。庭もかなりの広さがあるが、畑も同じくらいの広さがある。

 朝の早い時間にまずは畑の手入れを行う。くりやで朝食の準備を行っている女中からほうれん草を収穫してくるように言われているので、比呂はそれから始める。

 その後雑草を刈り取り、水を撒く。

 畑の端には今回初めて栽培に挑戦したキャベツもあるのだが、どうにも上手く成長しておらず、葉を丸く巻いていくはずがそうはならず、沢山の葉が外に広がってしまってとてもキャベツには見えない。

 一緒に畑の水撒きをしていた新谷もキャベツにはとても見えない孔雀のような葉野菜に苦笑する。

 新谷は比呂よりも五年長くこの安居院家で働いている下男げなんだ。比呂よりも一回り以上歳上で、比呂がやってきてから色々面倒を見てくれている。

 下男が寝泊りする家屋の説明だったり、就寝時間や起床時間など此処での暮らしについて教えてくれる。


「これ、食べれるんでしょうか」

 比呂がもう外に広がって丸まる様子のないキャベツの葉に触りながら新谷に問う。新谷は大笑いしながら「形は兎も角キャベツはキャベツだ。食べたらキャベツの味だろうから問題ないさ」と答える。

 確かにその通り。丸まってないけれど、これは確かにキャベツではある。

 比呂が納得していたが、新谷は「まあ、こいつをどうするかは厨の姐さん方が決めることだけどな」と笑いながら持っていた如雨露じょうろを片手に井戸の方へ歩いていく。恐らく水を撒き終えて片付けに向かったのだろう。

 比呂はその背中を見送るとすぐにキャベツに視線を戻す。


 確かにこれはもうキャベツとは程遠い見た目になってしまっている。

 厨担当の女中が、これは食卓に出せるものではないと考えたら破棄されてしまうのか。

 何て勿体無い。

 そう思うのと同じくらいその行為の正当さもわかる。

 以前の屋敷でも、庭にある花は完璧なものを求められた。

 美しく咲き誇る花、変色したり花の小さいものはすぐさま剪定した。

 切り落とした小さな蕾もこのまま育てれば美しい花になるかもしれないとは思ったが、主人がそれを求めない以上使用人がいう事は何もない。


「お前はどうなんだろうな」

 比呂はキャベツの葉を少しちぎって口に入れる。

 咀嚼するとキャベツの青臭さと土の味がした。生もいいけど、お浸しにして食べたいと思いながら、比呂も漸く新谷に後を追いかけて戻った。


 ***


 朝食を終えて、比呂は庭にいた。

 庭師としてまずはこの庭を整えることが第一なので、比呂は庭を整えていた。

 雑草を抜くことから始めたのだが、この四日間でどれだけ雑草を取り除けたのか不思議に思えるほど、この庭は広かった。いや、確実成果は出ている筈だ。比呂は自分にそう言い聞かせながら無心で雑草を刈り取る。

 しかしながら、この庭はどれだけの期間、人の手がつけられていなかったのか。

 この季節に花を咲かす植物は沢山あるはずなのに、この庭にはまるでない。

 植木も枝と葉は伸び放題になっている。

 今この庭で花を付けているのは、多分、離れの横にある桜くらいなのだろう。

 それはこの四日間で庭を見て回った比呂の感想だ。

 折角こんなにも広い庭があるなら、もう少し花があっても良いかもしれない。

 とはいえ、まずは雑草の片付けを終えてからだ。

 比呂は無心で雑草を引っこ抜いていった。


 昼食を取ってからも、比呂は只管雑草を引き抜いていた。

 何という量だと始めたときは頭を抱えたくなったが、四日も続ければ元々の庭の風景が見え出してくる。

 美しい庭園だったのだろう。

 手入れがされていないのが本当に勿体無い。

 季節な花を植えればさぞ見る者の心を潤す庭になるだろう。

 比呂はこれから自分が手掛けていく庭の姿を想像しそれを目標にする。

 まだまだ遠い道のりではあるが、毎日続けていけば必ず美しい庭に蘇る。

 そう意気込むと比呂は雑草をまた引き抜いた。


 数時間黙々雑草と格闘していた比呂だったがそろそろ西日が強くなってきたことに気がつき、今日引き抜いた雑草をまとめて手押しの一輪車へと集めていく。

 ある程度の量が溜まったら焼くために、庭の端へ積んでおくのだ。

 比呂は雑草を乗せて一輪車を押していると、ふと、女の声が聞こえてくる気がして足を止める。辺りを振り返っているとまた「ねえ」と若い娘の声がする。

 その声に聴き覚えがあり、比呂は少し先にある桜の方を見る。


 すると桜の木の横にある離れから糸が顔を出して比呂に手を振っていた。手招きするような手の動きに、比呂は驚きながらも離れへ近づく。

 糸は先日とは違う柄ではあるが、赤色の美しい着物を着ていた。

 前のは花が多かったが、今回は鳥が大きく描かれている。だけど比呂にはそれが何の鳥なのかがわからなかった。

 先日と同じように離れの浜縁に立っていた糸はやってきた比呂に微笑む。

 その美しい娘に比呂は緊張しながらも頭を下げた。


「お呼びですか、糸様」

 比呂がそう言うと、糸は「また花を取って欲しいの。取ってくれる」と呟く。

 その言葉に比呂は驚きながらゆっくりと顔をあげると、糸は無邪気に微笑み桜を指差す。

「えっと……また枝を切れば良いんでしょうか」

「そうじゃないの。今日は花びらが欲しいの、枝は要らないわ。花びらをお茶に浮かべたいの」

「花びら……」

 糸の言葉に比呂はゆっくりと顔をあげる。上から花びらがひらりひらりと落ちてくる。恐らく糸は地面に落ちる前にそれを取ってほしいということなのだろうか。

 先日会ったときは、もう少し風が強かったため花びらが浜縁にいた糸の髪にもついていたことを思い出す。だけど今日は風が少ないせいか、花びらが離れまで届いていない。離れから桜まで少し距離があるから、今日の風では花びらが糸の元まで流れていかないのだろう。

 比呂は上から落ちてくる花びらの一つに注目し、その落下地点を予想して両手で掬うように花びらを手で包みとる。

 ゆっくりと手を開くと比呂の手には二枚の花びらが乗っていた。

 比呂はその花びらを糸に見せた。


「まあ! お前、上手ね!」

「はあ、お褒め頂く程のことは……」

「いいえ、私じゃあ多分他の花びらに気が行ってしまってこんなすぐには取れないわ。ありがとう」

 糸はそう言いながら比呂の手に乗った二枚の花びらを取る。

 自分の節くれた硬い手に、白く細い指が触れることに比呂はぎょっとする。

 日に焼けておらず水仕事で荒れてもいない綺麗な指が、薄紅色の花びらを摘む。とても同じ人間の手とは到底思えなかった。

 自分の手はこんなにも黒いのに……。いや、黒いのは雑草を引き抜いて土が着いているからか。

 そう思ったとき、比呂は焦る。


「すみません、糸様! 俺、手も洗わず花びらに触ってしました! 急いで洗って取り直すのでその花びらは捨ててください……!」

 こんな汚れた手で取った花びらをお茶に浮かべさせるわけにはいかない。

 比呂が慌ててそう告げるが、糸はきょとんと不思議そうに自分の掌の花びらを見る。


「汚れてる? そう?」

「で、でも、土塗れたの手で」

「お野菜も土の中にあるのよ? でも私、お野菜食べるわ?」

「それはちゃんと洗ってるので」

「でも別に汚れてないわ。大丈夫よ」

 糸は屈託なく笑う。糸本人が良いというなら良いのだろうか……。

 比呂が困惑していると、糸は何かを思いついたのか、表情を輝かす。


「ねえ、一緒にお茶を飲みましょう。花びらのお礼よ。上がっていらっしゃいな」

 糸はそう言いながら、障子を開ける。

 その言葉に比呂はすぐにあの規則を思い出す。


『庭師はどんな理由があっても屋敷に上がってはならない』


 理由は未だに知れないが、でもこの状況が良くないのは比呂にもすぐにわかった。

 娘が暮らす離れに、男の比呂が許可されても上がるのは駄目だ。

 比呂はすぐに「すみません、糸様。俺は屋敷には上がれません」と言って頭を下げた。

 糸は振り返り比呂を見ると、「そう」とだけ言って離れの中に消えていく。


 機嫌を損ねてしまっただろうか。

 しかし規則は規則だ。

 折角の職をこんなすぐに辞めるのは嫌だ。


 比呂が心の内で葛藤していると、すぐに糸は浜縁の方へ戻ってきた。

 彼女はお盆を両手で持っており、そこには湯呑二つと急須、そして小さな白い箱が乗っている。


「じゃあ、此処で飲みましょう。それなら良いのよね?」


 糸は微笑むと、急須から湯呑にお茶を注ぐ。二つの湯呑にお茶を注ぐと、糸は先程比呂が取った花びらを浮かべて満足そうに頷く。

 そしてその一つを比呂に差し出す。

「はい」

「あ、ありがとうございます」

「そうだ、御干菓子もあるのよ」

 糸はそう言いながら白い箱を開けて比呂に見せる。

 中には落雁が入っている。花の形でどれも美しく精巧だ。見ただけでそれがどれだけ高級なものかわかってる。

 箱を差し出されるが、比呂が手に取って良いものではない。比呂が落雁に手を伸ばさないことを不思議に思い、糸は首を傾げて「御干菓子は嫌い?」と問う。


「いえ、この家のお嬢さんとお茶を飲んでいるなんて、他の人に見られたら怒られてしまいます」

「そうかしら。誰も気にしないわ」

「そんなことは……」

「あっ、でももし長滝に叱られたら私も呼んで。私も叱られるわ。一緒に正座しましょ」

 そう言いながら糸はお茶を桜の花びらが浮いたお茶を飲む。

 あまりに暢気にそういうものだから、比呂も何だから気が抜けてしまい同じように花びらの浮いたお茶を飲んだ。


 はらはらと舞い落ちる桜の花に、比呂は束の間の春を感じた。

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