春の章:四月その一
離れで暮らす末娘に頼まれて、一番花が美しく咲いているものを選んで枝を切った。それを差し出すと、彼女は、
「綺麗、とても綺麗だわ」
桜の枝を見つめて糸は朗らかに笑う。その姿は桜を愛でる仙女の如き美しさがあり、無邪気に微笑む姿は童女のようでもあり、どちらにしても比呂は思わず見蕩れてしまうが、あまり見ていても失礼だという気持ちが勝り視線を下げたのだった。
「ありがとう」
糸はそう言うと桜の花が溢れそうなほど咲き誇る枝を大切そうに持ちながら、離れへと戻っていく。彼女は桜の花を眺めながら障子を閉める。
その美しい娘を見送ると、比呂は脚立と剪定用の鋏を持って納戸へ向かう。脚立と鋏を片付けるためだ。
納戸へ向かう道すがら、比呂は好き放題育った雑草が小道を侵食し、きっと形が整えられていたはずの植木が綿菓子のように広がっている様に驚く。
一体この庭はどれだけ手入れされていないのか。
前の庭師は、いつからいないのか。
取り敢えずこの庭を片付けるのが暫くの比呂の仕事になりそうだ。骨が折れそうな膨大な仕事に比呂は首の後ろを摩り息を吐く。
取り敢えず雑草抜きからだろう。
そんなことを考え歩く比呂だったが、道具を出してきた納戸が見えてくる。そしてその前に立っている叔父と着物姿の老女の姿があった。
叔父を見て、比呂は挨拶もする前に勝手に庭を歩き回ってしまっていたことを思い出して顔を青くする。
慌てて比呂が二人に駆け寄ると、二人は脚立と剪定用の鋏を持ってやってくる比呂を驚いて見る。
「何だお前、もう庭に入ってたのか?」
叔父が呆れながら問いかけると、比呂は叔父と老女に深々と頭を下げた。
「勝手に動き回ってすみません」
「全くだ、挨拶も済んでない内から」
ぼやく叔父に比呂は気不味くなりながらも納戸に脚立と鋏を戻す。その様子を見ていた老女が不思議そうに「此処に道具が入っていることは誰に訊いたのですか」と問われる。
「この家のお嬢さんに教えてもらいました」
一瞬正直に言うか悩んだが、後で糸からこの老女に伝わった時に心証が悪くなるのは困るので正直に話す。すると老女は怪訝そうに「糸様が?」と呟く。
比呂は庭を散策していると離れに辿り着いたこと、離れの浜縁の高欄に足をかけて枝に手を伸ばしていたことや、彼女に頼まれて枝を切ったことを話した。
老女はその話を聞きながら「糸様……」と恐らく彼女のお転婆具合に呆れ困った顔をしてこめかみを指で押さえて軽く頭を振る。
話を聞き終えると老女は「来て早々大変でしたね」と肩をすくめる。
「私は糸様の乳母をしておりました
「緒方比呂です、よろしくお願いします」
比呂は長瀧に改めて深々と頭を下げる。
「当家は末娘の糸様がいるので、男はこの家屋で寝てもらいます。食事は屋敷の厨で取ってくれて構わないし、家屋にも厨はあるから好きにして良いです」
「わかりました」
「あと……聞いていると思うけれど、当家では貴方に関わらる規則があります」
長瀧の言葉に、比呂はこの屋敷に来る途中に叔父から聞いた話を思い出す。
『庭師はどんな理由があっても屋敷に上がってはならない』
その一文を頭に巡らせ比呂は「知っています」と頷く。
比呂はその規則の成り立ちが気になり、長滝に「どうしてそんな規則が出来たのですか?」と問う。
「十年ほど前に御当主様がお定めになりました。その所以は私も知る処ではないのです」
「そう、ですか」
使用人のまとめ役でも知らないのか。
比呂は少しがっかりしながらも、それならなしょうがないと納得する。
「他の者と比べて不自由に思う事があるかもしれないけれど、何かあれば私に声をかけてくれて構いませんので」
「ありがとうございます」
長瀧の言葉に、比呂はまた頭を下げる。
確かに妙な規則ではあるが、こんな立派な家屋で眠れるし給金も良い。
有り難いことばかりだ。
「今日はそろそろ日が暮れます。明日からよろしくお願いします」
「はい」
「庭は暫く手が入っていないので大変だと思いますが、貴方の働きに期待していますので」
「はい!」
長滝はそう言って緩やかに微笑むと、屋敷の方へと歩き出す。
だけど一度だけ振り返ると、「今夜の夕餉は母屋の方へいらっしゃいな。後で呼びに来ますので今日はゆっくりしていて良いですよ」と言ってくれる。
その言葉に比呂は感激して「ありがとうございます!」とまた頭を下げた。
長瀧がいなくなって、二人のやりとりを見ていた叔父は安心したように肩をすくめた。
「どうやら来て当時に解雇ということにはならなくて安心したぞ。お前がいなくなってて、少しばかり逃げ出したのかもと肝を冷やした」
「そんなことはしない。ウチの家の生活は俺の稼ぎにかかってるんだから」
「そうだな。まあ、しっかりやってくれ」
叔父はそう言うと役目を終えたこともあり、暗くなる前に帰ろうと勝手口に向かって歩き出す。比呂もここまで一緒に来てくれた叔父を見送るためにそれについていく。
「叔父さん、今日はありがとう。母さんたちのことお願いします」
「わかってる。けど町が違うからなあ。たまに様子を見に行くくらいしかできない。お前も手紙は沢山書いてやれ。姉ちゃんも弟たちも喜ぶ」
「そうする」
比呂が大きく頷くと、叔父は比呂の肩を二度ほど軽く叩き勝手口から出て行く。
その背中を見送ながら、比呂は叔父にも頭を下げた。
いよいよ新しい生活が始まる。
今度も庭師だ。
全く初めてのことではないから、それほど苦労もないだろう。
比呂は振り返って、大きな日本家屋を見て深呼吸をする。
頑張って働くぞ。
まずはこの庭の掃除からだ!
そう意気込むが、その広すぎる庭の掃除に、まず何日かかるだろうと考えてほんの少しだけ憂鬱な気分になってしまった。
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