美しの糸

神﨑なおはる

プロローグ『安居院家の娘』

 その屋敷に妙な規則がある。

『庭師はどんな理由があっても屋敷に上がってはならない』というものだ。


「何それ」

 緒方比呂おがたひろは自分の前を歩く叔父に問う。すると叔父もぶっきらぼうに「俺もよく知らん」と返す。

 仕事を斡旋しておいて、詳しいことを知らないなんて、と比呂は内心不安に思う。



 比呂は先日まで別の屋敷で庭師として働いていた。

 西洋風の建物で、庭にも欧州の植物など日本では見たこともない花が植えられていた。広い庭で、働き出してすぐは雑草を刈り取る仕事ばかりだったが、先輩の庭師に花や木の世話の仕方を教わり、最近は一人でも仕事ができるようになっていたのだ。

 しかし、その屋敷の主が事業に失敗してしまった。

 ありとあらゆるものが売られた。屋敷も、庭の花も木も。

 当然使用人を置いておく金もない。

 先日あっさりと解雇された。


 比呂の父は去年の冬に他界した。

 風邪だった、はじめの内は。それが肺炎に発展し帰らぬ人となった。

 家にはまだ幼い兄弟もいて、まだまだ金が必要だった。

 父が死んだ後も、屋敷からの給金で何とか家族は食べていけた。

 なのに、今回の解雇。

 正直、比呂は目の前が真っ黒になった。


 だが、我が家を心配していたが叔父が、とある商家が庭師を探しているという話を知り比呂に紹介してくれたのだ。


 商家の庭師。

 正直話を聞いたとき、比呂は有り難いと思った。

 環境は違うだろうが今までやってきたことで給金が貰える。

 そろばんは勉強したが、どうも上達しなかったから、新しい仕事がそろばんを弾く必要があったらどうしようかと心配していたのだ。

 土いじりなら気が楽だ。


安居院あぐい家だっけ? 遠いの?」

 もう随分歩いているが、まだ着かない。先程からずっと同じ風景の通りを歩いている。

 左側はもう随分と同じ土壁の塀が続いている。何かの施設だろうか。

 比呂がそんなことを考えてながら塀を見ていると「その塀の内側が安居院家だ」と言うので思わず目を剥いて塀を見る。

 先日までいた屋敷も随分の広さだったが、此処も負けていない。


 これなら母さんや弟たちを食べさせていけるだけの給金が貰えるかもしれない。

 比呂はそう思って安心する。

 だけどその安心はすぐに溶けてしまう。

『庭師はどんな理由があっても屋敷に上がってはならない』という規則を思い出したからだ。

 一体何だ、この規則は。


 とはいえ、前回の屋敷では外にいることが多く、屋敷には入らなかった。

 勝手口近くに使用人たちが集まって休憩をしたことはあったが、中に入ったことはない。あの西洋風の屋敷の内部がどうなっているのだろうかといつも気になっていたが、終ぞ、その疑問が解消することはなかったわけだ。


「……どういう家なの?」

 比呂は大して興味もないが、一応自分を雇ってくれる家のことを訊いてみる。

 叔父は「俺も大しては知らん」と言いながらも安居院家について話してくれる。


 安居院家は江戸時代から反物の商いを続けていた商家だ。

 明治になり開国後、様々なものが海外へ行き来するようになり、当時の当主が事業を拡大させたらしい。

 美しい反物を海外向けに輸出を始めたのだ。

 着物にせず、洋服を仕立てれば注目を集めると狙ったらしいが、それがあちらでは人気が出たらしい。

 それから数代経て昭和になった今も、当主は皆、商才はあるようで事業を継続できているらしい。

 当主には四人の娘がいるが、上の三人は既に嫁いでいる。

 今、屋敷にいるのは、当主夫婦、当主の母、そして末の娘だ。そして使用人が多数。

 娘ばかりで、家は誰が継ぐのかと思っていたが、どうやら末の娘が婿をもらうことになっているらしい。


「商家だが、親戚筋に華族もいるから、失礼の無いようにやってくれ」

「わかってるよ。俺も折角の働き口がなくなるのは困る」


 比呂は叔父の言葉にそうぼやいていると、漸く安居院家の裏側の勝手口が見えてきた。先に入る叔父を追いかけて、比呂は深呼吸をしてから中へと入った。


 ***


 広い敷地内には、大きな日本様式の母屋、そして渡り廊下で繋がった離れがあった。敷地の端には使用人が使える家屋もあった。

 女性の使用人は殆どが母屋で寝泊りを許可されているが、娘がいることもあり、男を母屋で寝泊りさせることができないという理由から使用人専用の家屋が作られたらしい。

 比呂も此処で寝泊りすることになる。

 一階建ての平屋ではあるが、充分な広さがある。八畳の部屋が二間続きだ。

 そもそも男の使用人は数人しかいないので、広すぎるだろう。

 厨や便所もあるが、風呂はない。風呂は銭湯にいくか、身体を拭くか。

 比呂は使用人専用の家屋に、大して量のない荷物を置くと外に出る。

 叔父は母屋の方で、比呂の雇用について話をしているが、まだ当分時間がかかるだろう。

 それなら庭を見て回っても良いだろうか。

 どんな草木があるか知りたい。

 比呂は興味から庭に足を踏み入れる。


 庭は少し荒れていた。

 雑草が目立つ。これは暫く手入れがされていない。

 それだけで今この屋敷に庭師がいないのがわかる。

 今の奇跡は春なのに、春の花が見当たらない。春なのに寂しい庭だと比呂は感じる。


 だけど、何もないわけでもない。

 奥の方に桜があった。

 大きな樹で、薄桃色の花がほろほろと咲いている。

 比呂は桜の樹を近くで見ようと、桜の樹を目指して歩き出す。

 近づけば近づくほど、その樹は立派なのがわかる。

 花もたくさんついている。

 花弁の枚数が多いから、染井吉野ではない。

 江戸桜に近い品種なのだろうが、正直自信がない。

 比呂が桜を見上げて悩んでいると、樹の奥で枝が突然揺れる。


「?」

 何事かと思い、比呂は恐る恐る桜の樹に近づく。

 すると桜の樹の裏に建物があることに気が付いた。大きさは使用人専用の屋敷よりも少し大きいくらいの建物で、屋敷をぐるりと囲むように板張りの回廊・浜縁がある。

 その浜縁の高欄に足をかけて、桜の枝に手を伸ばす着物の娘がいた。


 赤い振袖の着物を来た若い娘だった。

 着物には美しい花や蝶の模様が入っており、比呂も初めて見るような美しい着物だった。

 でも美しいのは着物ばかりではない。

 その娘も着物に負けない美しさだった。

 黒く長い髪が結われずに垂れているが、まるで夜空のように艶やかだった。

 太陽の光を反射して輝く様子は、まるで天の川のように見える。

 小柄で、顔も小さい。

 整った顔は白く、唇に惹かれた紅が映える。

 黒く大きな瞳は、桜の樹を見上げていた。


 ひらひらと舞い落ちる桜の花弁が彼女の髪を滑り落ちていく。彼女の姿はまるで桜の樹の精だ。

 それとも桜の花に惹かれてやってきた天女か。

 どちらにせよ、こんな美しい娘を見たことはなく、比呂は思わず彼女に見蕩れてしまった。


 だけど彼女が高欄に足をかけて桜の枝に手を伸ばしているが、不意に身体のバランスを失い前のめりになり浜縁から落ちそうになるものだから、比呂は慌てて駆け寄ろうとする。

 その時、娘は比呂の存在に気が付いたようで、桜の枝から比呂に視線を向ける。磨かれた黒曜石のような瞳が比呂を捉える。


「お前はだあれ?」


 彼女はそう問いかける。

 何処か幼さの残る甘い声が比呂の鼓膜を揺らす。

 彼女の口振りから、彼女がこの家の末娘だと理解する。つまり主人の娘だ。

 比呂は慌てて両膝を地面につき、深々と頭を下げた。


「今日から庭師としてお世話になる緒方比呂です」


 比呂はそう言いながらゆっくりと頭をあげる。

 娘は高欄に足をかけたまま、比呂を見つめて「庭師?」と首を傾げる。

 そういえばこの屋敷では『庭師はどんな理由があっても屋敷に上がってはならない』という規則があるが、他にも規則がないか不安になる。

 許可なく庭に立ち入ってしまったから、解雇、なんてことにならないだろうかと良くない想像に比呂は焦る。

 しかし娘の答えは違った。


「そう。私はいと安居院糸あぐいいとよ」

「……糸様」


 比呂はもう一度深々と頭を下げる。

 どうやら不興を買った様子もなく安心する。

 が、次の瞬間、糸は比呂が驚くような言葉を続ける。


「じゃあ、比呂。その枝を切ってくれる?」


 彼女はそう言って桜の枝を指差す。

「部屋に飾りたいのだけど、届かなくて困っていたの。切って」

 そう言いながら嬉しそうに微笑む。

 その言葉に比呂は戸惑う。


「えっと、使用人の俺が、庭の樹の枝を勝手に切るのは」

「どうして? お前は庭師なのでしょう? 庭師が庭の樹の枝を切らないで誰が切るというの?」

「でも」

「それに私がこのまま手を伸ばして枝に届いても手折ってしまうだけ。折るより切る方が、枝が痛まなくて良いわ」

 それはまあ、確かに。

 比呂は糸の言葉に納得しながら桜の樹を見上げる。


「お道具は、使用人の屋敷の横の納戸にあるわ」

 ほら、早く。

 糸は比呂を急かして笑う。

 まるで宝物を前にする子供のように嬉しそうに笑う。


 主人の娘が言うのだから、大丈夫なのだろう。

 比呂は「わかりました」と頷くと立ち上がり、来た道を小走りで駆け出す。

 一度だけ振り返ると、糸は「早く早く」と微笑む。

 その様子に、比呂は気恥ずかしさに襲われる。


 本当に美しい娘だ。

 最初は天女のような完璧な美しさが目を引いたが、話す姿はまだ幼さが残る少女だった。

 桜の枝が欲しいと無邪気に笑う姿は童子そのもの。

 その童子を喜ばせてやりたいと、長兄としての血が騒いだのかもしれない。

 比呂は納戸から剪定用の鋏と、脚立を抱えると急いで糸の元へ向かった。


 それは昭和の初めの春の出来事だった。

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