第3話 あの日に戻らぬ理由(わけ)

 腹部の怪我は2日で完治した。

 男と老人とを米国に連れ帰って拘束したが,国家機密案件とかいう得体の知れぬ通達により2人は釈放された。

「逃げられると思わないで」男に耳打ちする。「子供たちを追いつめたように,今度はあなたが追いつめられる番よ。振り返るとそこに私がいる――覚えておいて」

 男は鼻でせせら笑い,事務処理センターへと続く細長い廊下を歩いていく。老人が深々と頭をさげてから,足を引きずりながら息子のあとを追った。

「見こんだとおり,君には素質がある」男が立ちどまった。「最初から僕は君が欲しかったんだ。だから,過去に戻って自分は林道に入らず,君だけを来させろと命令したのに,芽虹里ときたら殴っても蹴っても指示に従わない。自分はもとの平穏な生活に戻れるというのに」

 泣きそうになったが,堪らえた。

「芽虹里はね――君の身代わりに過ぎなかったんだ」男が振り返り,黒目がちの瞳を艶々と輝かせた。「君が追いかけるまでもなく,振り返るとそこに僕はいる」

「私は捕まったりしない。たとえあの日に戻って1人で林道に入ったとしても,おじいさんの忠告を聞いて引き返したはずよ。第一,子供の私は1人でザンバリーネ怪道に踏み入ったりしないもの」

「そうさ――だから,芽虹里は死にそうな拷問を受けても,過去のあの日をやり直そうとはしなかった」

「……どういう意味?」

「1人で林道に入れば僕に捕まった」

「ふんっ……」

「林道を引き返せばトラックに轢かれて死んだ。林道に入らなくてもトラックに轢かれて死んだ――芽虹里と林道に入らなければ,どんな状況でも君はこの世に生きていないという意味さ」

 芽虹里――あんたはだから過去に戻らないと言ったのね。馬鹿,あんたは本当に大馬鹿者よ。

「芽虹里に会いたいだろう。会いにいけばいい――僕なら君を時空超越体に改造してあげられるんだよ」

「誰がそんなグロテスクなものに……それに芽虹里が失望するわよ。彼は時空超越の力を否定していたもの」

「芽虹里はね――だが,君の心は既に決まっているんだろう? 僕には分かる」

「うるさい! 黙りなさい!」

 男が愉快げに笑い,背を向けて手をあげた。「いつでも歓迎するよ。振り返れば僕がいる」

 延々と続く廊下の先の闇に2人の姿が吸いこまれた。

 17時の時報が響く。おぼろげながら目視できていた194号室のドアが視界から消えた。闇の支配する領域はひたひたと迫ってくる。

「一緒に楽しまない?」耳元で誰かが囁く。

「あなたは――」経理課のマイクだった。経理課全体で不正支出が横行している。浮かした経費が職員の遊興に回されることなど日常茶飯事だ。証拠を揃えて上官に報告したが,有耶無耶になったまま処分の下されることはなかった。

「杓子定規に生きるなんて面白くない。人生1回きりだよ」肩に手を置いてくる。

「1回きりなのかしら……」マイクの手を払いのけ,歩きだした。

 採光窓から降り注ぐに,行く手が紅に染まっていた。

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紅のザンバリーネ怪道 せとかぜ染鞠 @55216rh32275

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