第5話


 ▽


 ぼとりと机にケチャップが垂れた。

 亜鳥が大口を開けて食べようとしたホットドッグはそのまま袋に戻される。

 昼休みに亜鳥から連絡がきたからまたこうしてランチタイムを共にしているというのに、空気が重い。


「自作自演?」


 信じられないという表情で、亜鳥は私の言った言葉を繰り返した。頷くと強く肩を掴まれる。


「ありえない。何故そんなことをする必要がある?」

「詰草ってそういうところあったから……」

「そういうところ?」

「自分にも他人にも厳しいというか」


 理解できないと言いたげな表情をする亜鳥に、なるべくやんわりと説明する。


「詰草は自分の作品に満足していなかったんじゃないかな。でも誰も強く批評しないから、悪口専用アカウントを作って自分を叩いた。そうすればそれに乗っかって誰かが悪い点を言ってくれるかもしれないでしょ? 叩かれているふりをして、みんなの本当の意見を聞きたかったんだよ」


 と、いいように言ってはみたが、結局は詰草の癇癪からの自傷であることは作家詰草彰人を崇拝しているらしい亜鳥には黙っておく。


 私が綺麗に整えた理由に納得したのか、亜鳥はそれ以上否定はせずに私の肩から手を離した。


「痛いなあ」

「すまん。熱くなった」

「力強いんだから気をつけてよ」


 しゅんと肩を落とす亜鳥を横目におむすびを頬張る。


「どうして十三番目の鴉が詰草だと思ったんだ?」

「詰草はドイツの児童文学に傾倒していたから。プロイスラーのクラバートって読んだことある?」

「いや……」

「まあそもそもグループに入るのに詰草の許可が必要って時点で、誰も正体を知らないアカウントなんて詰草以外にあり得ないよね」

「詰草がSNSを管理していたのは確かなのか? 常盤がでまかせ言っていたら?」

「じゃあ副部長にも聞いてみよう。副部長は詰草ともよく絡んでたし、他にもなにか知ってるかも」


 しばらくの沈黙の後、白米を咀嚼して飲み込むまでを見守られていることに気付きギョッとする。


「な、なんでずっと見てるの?」

「詳しいんだな」

「何に?」

「詰草に」

「冗談やめてよ。まさかまだ私と詰草が付き合ってたなんて思ってないよね?」

「でも詰草はよくお前のことを話していた。少なくとも仲は良かったんだろう? 知り合って長いのか?」


 亜鳥のその言葉に、「またそれか」と心の中で舌打ちをする。詰草が亜鳥に何をどう話していたのかは気になるが、仲が良かったとは私は思っていない。


「別に仲良くない。私はね、万葉集が好き。詰草がドイツ文学が好きなように、私は万葉集を愛してる。一千年前に交わされた言葉が現代に伝わって、共感できるのが素晴らしいと思うから。だから詰草とは分かり合えなかったよ」

「好きなものが違うのは当たり前だろう」


 さも当然のごとく言う亜鳥にしばし反応できず、ただ目を開く。

 それは私が詰草に言いたくて言いたくて仕方がなかったことだった。


「私もそう思うよ……。亜鳥の知っている詰草は、私の知っている詰草とは少し違うみたいだ」


 半開きの窓から冷えた空気が流れ込む。下ろした髪を通り抜け、寒さが耳まで届いた。思わず肩が震え、窓を閉める。


「我れゆ後 生まれむ人は 我がごとく 恋する道に あひこすなゆ」

「え」

「なんて言うから勘違いした」


 亜鳥の口から出てきたのは紛れもなく私が以前呟いた柿本人麻呂の一首だった。


 あの時亜鳥は意味を知らない様子だったのに。思わずぽかんと口を開ける。


「どうしてそれ……」

「普通にネットで調べたらすぐに出てきたぞ」

「わざわざ調べたの? 一回しか言わなかったのによく覚えてたね」

「知らないことをそのままにしておきたくない。それに、人が言ったことはあまり忘れない性質なんだ」


 そういえばこの男は成績も学年で上位だった。日々練習に大会に明け暮れているのに学力を維持できる理由はここにあったのだ。


「もしかして授業聞くだけでテスト余裕なタイプ? 羨ましいなあ。人生簡単そう」


 そんな私の嫌味に亜鳥は即座に首を振る。


「記憶力が多少良くても、ラグビーで勝つことは簡単じゃない。頭で分かっていても身体ができていないと吹っ飛ばされる。だから難しい」

「だから楽しい?」

「そうだ。簡単にいかないからいい。簡単じゃないものが俺は好きだ」


 側から聞いている分には贅沢だなと思うのに、亜鳥本人はそれが普通であるかのように言う。恵まれてるねと言ったところで私の嫌味なんてまた流されるだけだ。

 亜鳥が羨ましいとは言いたくない。けれど私から見たら亜鳥の人生はイージーモードだ。


 ふと、この男がどうやったら崩れるのか興味がわいた。


「じゃあ亜鳥にとって詰草の死はラグビーと同じなんだね」

「なに?」


 亜鳥の顔色がさっと変わる。


 自分の中で顔を出した気持ちを自覚した瞬間、口から意地の悪い言葉が出た。


「詰草彰人は何故死んだのか。これ、簡単じゃない。だから亜鳥は一所懸命になるんだね。もしかして亜鳥は詰草の死を――」


 亜鳥が勢いよく立ち上がる。ガタンと音を立てて椅子が倒れた。私を見下ろすその表情は残念ながら蛍光灯の影になっていて分からない。


 亜鳥がなにか言おうとしたちょうどその時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


「さて、教室戻ろーっと」


 さっさと部室を去ろうとすると、「怒っているのか」と私の背にいつか彼に言った言葉がそのまま返ってくる。


「どうしてそう思うの」

「お前と詰草のことを邪推した」

「ああそんなこと別に。でもさあ、私達一度よく話し合った方がいいのかもしれない」

「なにを」

「お互いが知っている詰草のこと」


 首だけひねって亜鳥を見る。意外にも彼は困ったように眉を下げていた。


「まずは私ね。詰草と百人一首をしたことがあるんだけど、もーほんと弱いの! 私に負けて癇癪起こして、百人一首をバラバラに放り投げるから大変だった。あれは生粋の負けず嫌いね。――はい、次は亜鳥の番。放課後までに考えといて」


 部室の天井を見上げながら、詰草との記憶を引っ張り出す。

 些細な感情を積み重ねながら行った詰草彰人との交流を、説明するだけならば簡単だ。


「今の俺にはお前が一番難しい」

「複雑に考えるからだよ」


 片手を上げて逃げるようにその場を後にした。


 亜鳥が眩しい。真っ直ぐ過ぎて辛い。そんな自分の中で渦巻く感情が気持ち悪い。


 ▽


「おかえりアザミン! また亜鳥くんとなに話してたのよ?」

「文芸部の話だよ」

「それホント? なんかアヤシー」

「ホントホント。亜鳥はなんだか……私と正反対みたい」


 亜鳥は簡単ではない方がいいかもしれないけれど、私は物事はすべて簡単でいいと思っている。


 恋の悩みや故郷を想う気持ちを三十一文字に込めるように。


 その気持ちに同じく歌で応えるように。


 人は簡単な感情と言葉があれば気持ちを伝えられる。詰草だって例外ではないのだ。だから詰草彰人という人間の思考を、至った結論を、その力強い正義で導き出してほしい。


「ア、アザミン……からかいすぎちゃった?」


 暗くなってしまった声に華ちゃんがオドオドし始める。私は慌てて笑顔で首を振った。


「ううん、ごめんごめん。なんでもないよ」

「そう? でもあの亜鳥くんと話せてラッキーだね!」

「そうだね」


 簡単じゃないものが好きだというのならこの不毛な探偵ごっこはとても楽しいはずだ。


 どんな結果でも真実ならそれでいいから。


 ▽


 君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな(中皇命/万葉集第1巻/10)


 ▽


「草を結ぶ。その行動には呪術的要素があり、草結びを表現した歌は時に呪歌とも呼ばれた。

 旅路の安全を願い、再会を夢見る者たちに残された唯一の心の拠り所。――その草結びに足を取られ命取りになろうとは、結んだ本人も思わない」


 ブレンドをちびちびと飲みながら詰草彰人はそう語る。その目はどこも見てはおらず、遠い記憶の欠片を探している。


 亜鳥は腕を組み黙ってその話を聞いていたが、とうとうテーブルに身を乗り出し、詰草彰人の視界に自身を入れた。


「思い出話もいいが、わざわざ語られなくても当時のことは覚えている」

「本当に? あの時の亜鳥には知らないことがたくさんあったんじゃないかな」

「ああそうだ。詰草彰人が死んだ本当の理由はずっと分からないさ」


 亜鳥は苦々しい表情をして、まだブレンドに口を付けている詰草彰人に『野草結び』を突きつけた。


「『野草結び』……お前が高校時代に文芸コンクールで大賞を取った小説だ。内容は遠く離れ離れになった男女の恋の話。当時の詰草彰人にしては珍しく繊細な題材だった。お前は言ったな、これを読めば詰草彰人が死んだ理由が推測できると。だからこうして俺は書籍を読んだ。しかし分からなかった。だからこうして直接お前に聞きに来たんだ。昔話も程々にしてくれないか」

「真実に近づこうとして足元が見えなくなるのは亜鳥の悪い癖だよ。君のためにも見えない草が結ばれているかもしれない」

「見えない草?」

「そう」


 詰草彰人は使い終わったおしぼりの端と端をきゅっと結び、できた輪っか越しに亜鳥をまじまじと見つめる。


「よくできたブービートラップがね」

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