第4話
本校舎の裏を抜けた中庭を臨む別棟に文芸部の部室はある。元々は学生寮だった建物を改装し、今は主に文化部の部室棟として利用されている。蔦の這うレンガの壁だけは歴史を感じさせるが、中はいたって普通の造りだ。
昼休みに来た時亜鳥が物珍しそうにしていたのは、運動部には用がない場所だからかもしれない。
「外観だけなら肝試しができるな」
「それ洒落になってないから」
亜鳥は間違いなく天然だ。そんなことをして詰草が出てきたらどうする。心の中でそんなツッコミを入れながら吹き抜けになっているのロビーを通り、部室前に辿り着いた。
「部長―」
部室の戸を開けると同時に、中にいるであろう人物に呼びかける。放課後は常に部室に一番乗り、原稿用紙とにらめっこしている我が部の部長――
「静かに! 今いい文章が思い浮かんだんだから!」
「はいはい」
適当に返事をすると、常盤先輩は中途半端に伸ばしたボサボサの髪が机につくくらいに原稿用紙に顔を寄せ、うんうん唸り始める。
「あれが部長?」亜鳥が耳打ちする。
「そう、三年の常盤先輩。いつも髪を振り乱してる作家志望の変な人。気味が悪いって言わないであげてね」
「聞こえてンだよ小娘!」
「はいはいすいません」
どうやら今日は虫の居所が悪いらしい。SNSのアカウントを作ってもらうには時間がかかりそうだ。常盤新――ペンネーム『
そんなことを考えている間に亜鳥がツカツカと進み出て、ドンとひとつ大きな音を立てて常盤先輩の机に手をついた。
「部員が死んだばかりなのに精が出るな」
「なんだお前は」
「あーもうちょっと待った!」
至近距離で睨み合う二人を慌てて引き離す。体の大きい亜鳥は私の力ではビクともしないので、仕方がなくキャスター付きの椅子ごと常盤先輩を押して後ろに追いやった。
「運動部のやつがここに何の用だよ」
椅子を滑らせながら常盤先輩が言う。
「詰草のことを聞きにきた」
「詰草ァ? あいつ、勝手に死にやがって! 天才様の考えることはサッパリ分からねえよ」
「詰草が死んでも自分には関係ないと?」
先輩の握る万年筆がミシミシと嫌な音を立てる。亜鳥はいきなり地雷を踏み抜いてしまった。未だに先輩を睨んでいる亜鳥に小声で伝える。
「常盤先輩は詰草のことをライバル視してたの。だから勝手にいなくなった詰草に腹を立ててる。でも、悲しんでないわけじゃないんだ。だからそんなに怒らないで」
「む……」
亜鳥はようやく肩の力を抜く。同時に常盤先輩の手から万年筆が転がり落ちた。それを拾うこともなく、先輩は俯いている。
「なんで死んだか知らないが、俺があいつに追いつくためには書くしかないンだよ。放っとけ」
ペンだこと爪が食い込んだ跡だらけの手を見つめ、常盤先輩はそう呟いた。ボサボサの髪がその表情を隠す。
私と亜鳥は顔を見合わせた。
常盤先輩は誤解されやすい。詰草が死んでから一心不乱に小説を書いているのは彼なりの弔いなのだ。
いずれにせよ亜鳥のおかげで先輩の手が止まった。この機を逃すことはできない。
「先輩、こちらはラグビー部の亜鳥くん。今日は文芸部の見学に。私が案内します」
「見学ぅ?」
「はい。それと、文芸部のSNSグループに私を入れてくれませんか」
先輩は訝しげに亜鳥を見た後、額に手を当てて考え込んでしまう。
「あー。そうだな……それも、どうするか」
その曖昧な返事に首を傾げる。
「どうって……ただ今あるグループに私を追加してくれればそれで」
「俺にその権限はない」
「え?」
「あのグループのマスターアカウントは詰草だからよ」
それを聞いて隣の亜鳥が息を止めた。私も耳を疑う。
詰草へのいじめがあったSNSグループのマスターアカウントを、詰草本人が持っていた?
「まあ、その詰草がいないんじゃああのグループは凍結だな」
「それって詰草の許可がないとグループに入れないってことですか? そういうのっててっきり部長に言うものかと」
「あのグループを最初に作ったのは詰草だからな。その流れで詰草が管理していたんだよ。あいつは特に部内の役職に就いていなかったし。分担としては丁度良かった」
「そう、だったんですか」
「なんで急に? 三十一文字にしか興味のない短歌オタクだから小説グループには入らないって言ったのはお前の方だろ」
「それは……」
至極当然の疑問をぶつけられ私は言葉に詰まる。そんな私を下がらせて亜鳥が身を乗り出した。
「グループでどんなやりとりをしているのか見たい」
「なーんで部外者に見せなきゃなんねーんだ」
にじり寄る亜鳥に先輩はべっと舌を出す。
私がグループに入れない以上、文芸部の誰かに頼んで内容を見せてもらうしかない。しかしもしも頼む相手を間違えたら。証拠を消されてしまうかもしれない。
常盤先輩は文学賞を獲った詰草に対抗心を燃やしていた。それに加えてこのすぐに噛み付く性格だ。詰草に誹謗中傷を送らないとは言い切れない。
常盤先輩はまだ白とは言えない。
「SNSで詰草を叩いていたのが誰か知りたい」
「あん?」
そのはずだったのに、亜鳥の放ったど直球が常盤先輩にぶち当たってしまった。
「あっ! 馬鹿!」
「やっぱりまわりくどいのは嫌いだ。SNSで酷い誹謗中傷があったのを薊が見ている。どうなんだ、あんたは詰草の作品を叩いたことはあるのか」
直球で勝負しないと一度は承諾したはずなのに。本当に我慢がきかない男だ。しかしその亜鳥の猪突猛進さによって常盤先輩の口から思わぬ一言がこぼれ落ちた。
「誹謗中傷って……まさかアレのことを言ってんのか?」
「えっ先輩、心当たりが?」
「心当たりというか……」
そう呟くやいなや、先輩は自分のスマートフォンを操作し始める。
難しい表情を浮かべる先輩の隣で、亜鳥が待ちきれないとでも言うように大きな体を屈めてその画面を覗き込んだ。
数秒後、先輩が差し出したのは、毒々しいピンク色で彩られたSNSのトーク画面だった。私も覗き見たことがある、文芸部のSNSグループだ。
「『詰草彰人は才能がない。もう書くな。』『つまらない』『底辺』……お前らが言っているのはこのことか?」
先輩が画面をスワイプする度に新しい悪口が次々と現れる。
亜鳥は憎らしげにその画面を睨みつけて語気荒げた。
「そうだ。俺達はこの言葉たちが詰草の心を傷つけ、死に追いやったんじゃないかと考えている。一体そいつは誰なんだ!?」
探していたSNSでのいじめの痕跡を見つけることができた。確かに詰草に対する罵詈雑言が並んでいる。しかし私の視線は画面に表示されたある文字に釘付けになっていた。詰草のアカウントを覗いた時には見ていなかったその名前。それに気が付いた常盤先輩は、ゆるりとその箇所をインクで汚れた指で示す。
「この暴言を吐いているアカウント名は――『十三番目の鴉』。実にアイツらしい名前だと思わないか。薊」
ドクンと心臓が跳ねた。
「まさか」
「そのまさか。現に受賞した作品――『
「おい、一体どういうことだ?」
常盤先輩の言わんとすることを察し、私は愕然とする。激しい動悸が襲ってくるとともに、どんどん呼吸が浅くなっていくのが分かった。
「薊? 大丈夫か」
私の異変に気付いた亜鳥が肩を支えてくれて、たまらずその腕に寄りかかる。私達が前提としていたものが崩れる音がした。
言葉が出ない。ぐるぐると思考を巡らせる。
「――亜鳥、時間大丈夫?」
たっぷりと時間を使って、ようやく出たのがそれだった。亜鳥は「あっ」と声を出し、部室の時計を見て肩を落とす。
「俺は部活に行く。常盤、明日も来るからちゃんと説明しろ! 薊、また連絡する」
「常盤『先輩』だコノヤロー! 二度と来んな!」
慌ただしく去って行った亜鳥の背中をぼうっと見送って、私は鞄を肩にかけ直した。
「今日は部活休みます」
「薊、お前は……」
「また明日。常盤先輩」
先輩の方を見ないままその場を去る。部室の扉を後ろ手で閉め、ずるずるとその場に座り込んだ。
十三番目の鴉。
詰草の敬愛するオフリート=プロイスラーが書いた児童書『クラバート』。その主人公は十二番目の鴉だった。
「本当に、詰草らしい名前だよ……」
常盤先輩は最初から気が付いていたのだ。先輩だけでははない、恐らくSNSグループに入っている文芸部員全員が。
涙が落ちないように膝に顔を埋める。
もういない詰草に未だに振り回されているのが、涙が出るほど悔しい。
詰草への誹謗中傷が詰草の自作自演であることを、知らなかったのは私だけだったのだ。
▽
詰草にはそういうところがあった。完璧主義で、自分にも他人にも厳しい。間違いを正さずにはいられない。誰かを慮る前に自論が先を行く。
二十万字書いた原稿を、受賞を逃したという理由で破り捨てる姿を見た時はひやりとした。感情が一人歩きして、知らない生き物のように思えたからだ。
つまり詰草が自分で自分の作品を貶していても全く不思議に思わない。
SNSに書かれた誹謗中傷は、いわば詰草の自傷行為だったのだ。
詰草がグループのマスターアカウントを待っているならば、中傷するためのアカウントを作ることも容易にできる。
「ねえ、この前亡くなったあんたの同級生。同じ児童館だった彰人くんじゃないの」
お風呂上がりでゆったりとしたい気持ちが母の言葉で台無しになった。私は濡れた髪に保湿オイルを付けるのに忙しいというのに。母は構わずに続ける。
「お通夜は行かなくてよかったの? お葬式は?」
「うん。いいの」
「でも昔はあんなに……迎えに行くといつも二人で本を読んでて、仲良かったじゃない」
仲良かったじゃない。その言葉が頭の中にこだまする。ギリッと奥の歯が鳴った。
「別に仲良くないし」
「でもねえ」
「いいの!」
ドライヤーを引っ掴んで自室に戻る。途中思い切り閉めたドアが存外大きな音を立てた気がするがどうでもいい。
自分の机に突っ伏して、視線の先の本棚をぼんやりと眺めた。チャコールグレーの本棚には、和歌に関する本が並ぶ。私は立ち上がり、感情を押し殺しながら、本棚の手前にある俳句集をひとつひとつ抜いていった。そうして奥に見えてくるのは、詰草に押し付けられたドイツ文学の背表紙だ。
もうこれは詰草彰人には必要ない。彼を連想させる洋書をすべて紐でくくる。
自分の信じる文学こそが本物である。そう思っている節があった彼に強く言われて、エンデやフンケ、もちろんプロイスラーも読んだ。対して彼は私がいくら言っても万葉集を読もうとはしなかった。
詰草彰人には、そういうところがあった。でも亜鳥はきっとそれを知らない。
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