第2話

 ▽


 高校二年生の秋。詰草が死んだと聞いた時、驚きはしなかった。けれどたったひとつだけ後悔した。私は彼に死んで欲しかったわけではなかったのだ。


 だからペンを持った。

 誰かに暴いてほしくて。


『先日、二年三組の詰草彰人くんが飛び降り自殺をした件について、SNSでのいじめがあったことをここに告発します』


 ▽


『詰草くんが所属する本学の文芸部には、匿名で互いの作品について評価し合うグループSNSがありました。そこでは作品と作者だけ公開され、感想を述べたり指摘は匿名でします。

 詰草くんは文芸部の部員に、自作小説を酷評され続けていました。

 批評といえば聞こえはいいかもしれません。

 厳しい言葉で作品の悪い点を指摘するのもまた、互いに切磋琢磨する上で必要な場合もあります。

 しかし詰草くんの元に匿名で寄せられていたのは中傷とも言える酷く悪意のあるものでした。

 なにを書いても全て否定され、詰草くんは追い詰められていた様子でした。

 つまり、文芸部の誰かが、詰草くんを貶したいがために批評という形をとって彼を責め立てていたということです。それが彼を飛び降りさせた原因だと思います。

 どうか文芸部に罪を』


 そこでふと我に返ってペンを置いた。無心で書いたこの文章に疑問を感じたからだ。すぐに自分が告発する立場にないことを思い出し、しばし眉間を揉む。


 机に齧りつくような体勢を元に戻すと、取り憑かれたように書き殴った文字が右上がりになってルーズリーフに並んでいることに気付く。


 こんなものを書いて私はどうしたいのだろう。


 詰草が死んだと聞いても驚かなかったというのに、そこまで詰草を追いつめた原因を暴きたいと思うなんて。


 告発文を書いても、当のSNSグループから弾かれている私には詰草の作品に向けられた酷い言葉の嵐を晒し上げる術がない。つまり現時点で文芸部内でいじめがあったことの証拠はなにもない。


 ぐったりと背もたれに寄りかかり、両腕をだらんと脱力させる。あの日詰草がしていたように、黙って天井を見上げた。


「これは詰草彰人の最高傑作だ。将来小説家になれたとしても、きっともう、俺はこれを超えることはない」


「諦めるよ」と。原稿用紙の束を私に手渡して、そんなことを言っていた。詰草が自宅マンションから身を投げたのはその夜のことだった。


 最後に会話した詰草は酷く憔悴した様子で、それでも無理やり笑おうとしていたのが印象に残っている。


 詰草が飛び降り自殺を図ったと、いつもどおり登校した後に教室が騒ついてから私はようやく知ったのだ。


 諦める、がまさかそういう意味だったなんて。回らない頭は拙い着想を得る。詰草の最期を描くワンシーンには、虚空を見つめる彼の瞳が添えられていた。


 誰も生きることを諦めようとしていたとは思わないじゃないか。酷評をくらわないことを諦めるとか小説を書くことを諦めるとかそういうことだと思ったのに。


 ルーズリーフをぐしゃぐしゃと丸めてゴミ箱に放り投げると、放物線を描いたそれは標的をかすめて地に落ちた。それが地面に叩きつけられる詰草を連想させて、息がつまる。


 落下中の詰草の気持ちなんて想像したってSAN値が削られるだけだ。嫌なイメージを消し去りたくて、私は必死にそして至極真面目に天井の木目を数え始めた。木の節は目玉に見えるので数えやすい。


 それに比べて人間の感情は不可算なのでとても不便だ。詰草の心を機関銃よろしく穴だらけにしたものは数を持たないが、彼の矜持を押し潰す程度の質量のある悪意の塊だったと推測する。


 八個目の木目から目を外し、机に伏せていたぶ厚い本をパラパラとめくる。私の大好きな万葉集の現代語訳版の一巻だ。古くから日本人の心に寄り添う歌の数々をぼんやりと眺める時間こそが私の心を和ませてくれる。


 万葉集に収められた歌の一割以上を詠んだ編纂者の大伴家持、歌聖と呼ばれた柿本人麻呂、和歌聖と評価された山部赤人はもちろん、家族との別れを詠んだ防人の歌、詠み人知らずの恋愛や、旅の風景を詠んだ歌のどれもが愛おしい。


 その重たい愛読書を抱えている時、詰草にはいつも白い目で見られていた。


 文芸において趣味志向が合わないことは珍しくない。海外文学を愛する詰草と万葉集にぞっこんな私は当然合わなかったが、小説と和歌という垣根を超えて互いに切磋琢磨していたとは思う。


 そんな彼の書いたものを無理やり押し付けられていた身からしても、詰草の作品から死の兆候は感じられなかった。


 人は唐突に死にたくなるものなのだろうか。


「なあ」


 同じ空間に誰かがいることに、話しかけられてから気付いた。声のした方に目をやると、見たことのあるようなないような体格のいい強面の男子が近づいてきたので、なるべくなんともない顔で迎える。


「ええと、確か隣のクラスの?」


「亜鳥だ」


 あとり。その単語を口の中で転がす。聞いたことのある名前だった。詰草が時折口にしていたかもしれない。詰草の数少ない友人。


 そこまで考えて思い至る。彼がなぜここに来たのか。


「ここ――文芸部の部室になにか用?」


「お前が投げ捨てたこれは真実か?」


「あーそれ……」


 しわくちゃのルーズリーフを片手に厳しい目をこちら向ける彼に私は肩をすくめた。


「告発文のつもりか? お前も文芸部なのに」


「うん、そうだね。あとお前じゃなくて私にはあざみって名前があるからね」


 亜鳥はきっと私を責める気なのだ。詰草を身投げさせた文芸部の一員である私を。


 自分自身を棚に上げた告発文なんて書いて、私はどうしたいのか。自分でも分からない。紙一枚じゃ禊ぎにもならないというのに。


 詰草彰人は何故死んだのか?


 その答えに辿り着くまで、怒りを携えた目をしている彼からはしばらく逃れられないだろう。ならばと諦めて私は亜鳥に向き直った。


 ▽


 亜鳥真尋まひろという男子は簡単に言うと私のような陰気な女子とは住む世界が違うタイプの人間である。


 屈強な体の上に強面が乗っかっていれば大抵の人間は距離を取ろうとするだろうが、この亜鳥にはその見た目の厳つさをカバーするだけの人望がある。


 高校生活のほぼ全てをルーチン化しているような私とは真逆の、毎日が目まぐるしい青春の一頁を過ごしているような存在。


 というのも彼がこの高校で最も憧れと尊敬を集めるラグビー部のレギュラーメンバーであるからだった。


 本州から橋を渡ってしばらく高速道路を走ってようやく辿り着くような田舎にぼんやりと建つこの高校が一躍有名になったのもラグビー部の功績のおかげである。らしい。一介の文芸部員にはあまり関係のない事柄だ。


 そんな漠々とした知識を掘り起こしてもなお学園のスター選手である亜鳥真尋がここ文芸部に用がある理由が思いつかない。ましてや私の書き捨てた紙を拾って中身を勝手に読んで問い詰めてくる事情など分かりもしない。


 ぐしゃりと青筋の立つ拳に握りつぶされた紙を一瞥して、私は胸元に溜まっていた重たい空気を吐き出した。


「はあ、それね。それを読んでどう思った?」

「創作にしては趣味が悪い」


 そのきっぱりとした答に頷くしかない。文芸部だからといって同級生の自殺を小説のネタにするのはあまりにも狂っていると言いたいのだろう。


「事実だって言ったら?」

「詰草を追い詰めた奴を見つけて、罪を償わせる」


 まるで正義のヒーローのような台詞に、一拍置いてにんまりとしてしまう。亜鳥の言うことはまさに私が望んでいたことだ。


 少しだけ違うのは、亜鳥は詰草を追い詰めた人物を暴くと言うのに対して、私は詰草が飛び降りた原因が知りたいということだ。大差ない。どちらも分かるときは同時だろう。ということは私と亜鳥は目的を同じくしているとも言える。


「気になるんだね、詰草のこと。どうして? 仲良かったの? 意外だな」


 お互い初めての会話だというのに情報を貪ろうとするのがおかしくて少しだけ話をそらしてみた。亜鳥がむっと唇を引き結ぶのを見ては楽しくなって、さらに言葉を重ねる。


「それともただの偽善? 同級生の無念を晴らす犯人探し?だったら――」

「あいつの書く小説が好きだった」


 遮るように投げられたその言葉に思わず息を飲む。


「小説読むの?」

「ああ」

「詰草の小説って……海外文学的な感じだけど好きなんだ?」

「ああ」


 その大きな手に文庫本が収まっている姿を想像して首をかしげた。天下のラグビー部様のブロマイドにするには不似合いだ。


「俺が本を読むのがおかしいか?」

「いや別に。そういうつもりじゃないよ。てことは部誌読んでくれてるんだね」


 ここの学生ならば半年に一回程度発行する部誌を手に入れれば誰でも詰草の小説を読むことは可能だ。詰草の小説を気に入って、友人になったのだろうか。とにかく亜鳥は詰草の小説を気に入っていて、だから詰草を死に追いやった人物に腹を立てている。


「詰草の小説のどれが好きなの?」

「この前コンクールで入賞した最新作」


 今度こそ私たちの間に流れる空気がぴたりと止まった。


「『野草くさむすび』ね……」


『野草結び』。それは詰草彰人の新作で、つい先日高校生対象の文芸コンクールで大賞を受賞した作品だ。


「部誌には載せてないはずだけど。どこで読んだの?」

「詰草に読ませてもらった」

「ふうん」


 亜鳥は嘘をついている。『野草結び』を読んだのはコンクール関係者以外では文芸部員しかいない。恐らく彼は私の反応を伺っているのだ。


「お前が書いたこの告発文が真実なら、詰草が飛び降りたのは『野草結び』をSNSで叩かれたからじゃないか?」

「どうだろう」

「そのSNSを見せてくれ」


 詰草を追い詰めたSNS上の攻撃。その爪痕をなぞろうとする気持ちは分かる。友人による敵討ちとでもいったところか。


「これじゃあ私たち、まるでサスペンスごっこじゃない。亜鳥が刑事、私たち文芸部が容疑者、被害者は詰草ってわけ?」

「それは……」

「でも、例えごっこでも。ちゃんと原因を暴かないと詰草も浮かばれないよね」


 接着剤でくっついたかのように重かった腰を、勢いをつけて椅子から引き剥がす。亜鳥の前に立つと身長差で首が引きつった。彼の瞳が私を捉える。


「一緒に探そっか。詰草が飛び降りた原因を」


 その大きな手を無理やり握る。私たちは協力関係を結んだのだ。その瞬間亜鳥がどんな顔をしていたのかは、残念ながら見逃していた。

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