最果ての地で

レオニード貴海

第1話

 革命が起きた。

 人々は何かが変わることを期待していたわけではないが、眼前の絶望から目を逸らすには、どんなささやかな可能性も捨て去ることはできなかった。時が巡り、やがて現実の暗い影が深く頭を垂れ始めると、人々の瞳から光が失われていった。

 武力による革命は、新たな武力の支配へと形を変えただけだった。ビリヤードの球が弾かれて、弾いた方の球が今度はその場に居残るように、ただ単にボールの色が変わったに過ぎない。

 干ばつによる凶作が各地を襲い、飢餓と貧困、新政府への失望が団結を生んだ。


 月日が流れ、失望は怒りへ、怒りは行動へと転化して行った。

 反政府デモが武力制圧されると、紛争が始まった。



「どうして帰らなかったの」

 クワラはため息をついた。

 タケウチと仲間の二人は日本から来ていたNGOの構成員だったが、昨今の情勢から近々武力衝突が起こるかもしれないと伝えて何度も帰郷を促したのに頑なに帰ろうとしなかった。欧州メンバーがすぐさま帰国するのを横目に、そのときはそのときだよ、とか俺が守ってやるとか呑気なことを言っていたら、ついに戦争が始まってしまった。

「この村は安全だと思っていた」

「冗談で言ってるの?」

 クワラは呆れた。日本は平和な国だとは聞いていたが、平和な国からは判断力や危機感が一切排除されてしまうのだろうか。危険な国だ、とクワラは思った。毎日決まった時間にたっぷりの水と食事を摂れる生活。憧れていたが、過度に安定した生活はひょっとすると、生物に不可欠なはずの感覚をごっそり奪い去ってしまうのかも知れない。ペンギンのように、飛べなくなる代わりに新たな能力を獲得するのならまだいい。彼らはただ力を失っただけのように見える。

「ここの住民は皆、いい人ばっかりだよ。クワラは英語が話せるけど、みんな言葉が通じないのに、すごく優しく接してくれて。本当に村の人が戦争に参加しているの?」

 今年二十一歳になったばかりだという大学生のイワモトが言う。クワラは細い指で額を撫でるようにして頭を抱えた。

「あなた、この戦争を何だと思ってるの? 優しい人は戦わないって言いたいの?」

 そう訊くとイワモトは黙り込んだ。そういうんじゃ……と小声でぼそりと呟き、あとは何も言わなくなった。平時にはあんなにテキパキ働いて、笑顔を絶やさず活動的だったのに、どうしてこんなにも会話が成り立たなくなるのか、クワラには不思議だった。状況の変化について行けていないのかも知れない。昨日までの当たり前が、明日も変わらず続いている保証なんてどこにもないのに。

 


 何週間かが過ぎたが、戦況は複雑化する一方だった。政府側に裏切り者が現れて大統領の警備隊同士で衝突が起きたとか、隣国の介入が始まったとか、フランスから軍が派遣されたとか、情報が錯綜して何が真実なのかすべてウソなのか何もかも不明だ。一体どこに敵がいるのか、自分たちは何と戦っているのか、何のために血を流しているのか、段々とわからなくなってくる。クワラにはっきりと理解できるのは村に駐屯し初めた反政府武装勢力の民兵たちが村人たちから生活の自由を奪ったということだけだ。威圧的な態度はタケウチらNGOの人たちと一緒に建設した給水設備に水を汲みに行くことすら躊躇させる。

「なぜこんなところに東洋人が居るのだ」

 民兵に詰問されクワラは何度も同じ説明を繰り返したが理解は得られなかった。当然だ。半世紀以上戦争とは無縁で、他国からの侵略を受けたことも民族間の紛争に巻き込まれたこともない平和な先進国の若者たちが、何を好き好んでこんなところにやってくるのか、誰に納得することができるだろう。当のクワラにしても、述懐すべき言葉を探し当てることは困難だった。そもそもクワラ自身、彼らのことを本当に理解しているわけではないのだ。

「俺たち、殺されるんだろうね」

 ナベタはどこか水生生物を思わせるのっぺりとした顔に冷たい汗をまんべんなく貼り付けてそう言った。二十七歳の元教師だが、過労に伴う精神疾患を患ったあとで心機一転、自分を作り変えるのだと言って職を辞し、日本を飛び出し世界各地を放浪、帰国した後知人のつてで小規模なNGOであるアフリカ地域発展支援機構「SAIHATE」の存在を知り、タケウチらと一緒にここにやってきていた。飢餓も貧困もなく、あらゆる物・機会が手に入り十全な教育システムと最先端の医療インフラが整った国で、なぜ精神を患うまで働き詰めるような必要が生じるのかがクワラには分からなかった。これが西洋人の言うところの東洋の神秘なのだろうか。不可思議な国。いまは亡き旧族長はかつて場所と時代に関わらず人の心は大きくは変わらないものだと言ったが、あれは間違いだと思う。昔ならあるていど真実を指していたのかも知れない。でもいまはきっと違う。クワラには彼らの心が見えなかった。形も、色も、自らのそれと同じように本当に存在しているのかさえ。

「仲間とも、もう思われていないみたいだ」

 イワモトが苦笑する。クワラは首を振った。

「彼らは別よ、あなた達のことを何も知らないし、それに話しても理解不能なのよ。何不自由無い恵まれた国で生まれた若者が、どうしてこんな僻地で危険を犯してまで、泥臭い仕事をしながら何の縁もない村の支援をしたりするのか」

 そうは言ったものの、彼らがはっきりと邪魔な食い扶持であることは確かだった。クワラはタケウチを見る。彼は自覚しているだろう。自分の言葉が宙をさまよいどこかに霧散してしまうのを恐れるみたいに、クワラはタケウチのこわばった瞳を凝視する。

 タケウチは鍋とトウモロコシ粉を入れた袋の間のなにもない空間をじっと見ている。彼はかつて青年海外協力隊という日本の派遣制度でセネガルやスーダンへも足を運んだことがあるという経験豊富なリーダーだ。三人の中では最年長者で多少のフランス語も扱える。SAIHATEの設立者はタケウチの伯父らしい。彼は責任を感じていた。

 

 ある夜、自室で本を読んでいたクワラのもとにタケウチがやってきた。入り口の石壁に手をかけたまま、ここ数週間でもう癖になった深いため息を吐きながら首を振ると、決意の目を作って話し始めた。

「散々迷惑をかけて、その上でなんだけど。二人だけは、なんとしても帰したい」

 少ししてクワラがなにか言おうとするのを片手で静止する。

「僕にすべての責任がある。僕は助からなくても、あの二人だけは絶対に生きて帰さなきゃならない」

 沈黙の間に夜虫の鳴き声が聴こえる。蝋燭の光が二人の顔を照らす。影を揺らす。

「気持ちはわかるけど」としばらくしてクワラは言った。言葉の重みに気をつけながら話す。

「あなたがそんな弱気じゃかなわないわ。二人も不安になっちゃうわよ。しっかりしなきゃ、船長は最後まで船を降りないで」

 タケウチは少し気まずそうに口を開こうとしたが、突然息を吐くことを思い出したようにして、震えながら二回、空気を吐き出した。少し笑う。

「は、そうだね。僕がこんなんじゃ、駄目だよね。生きて帰る。みんなで……」

 クワラは立ち上がるとタケウチの肩をつかんだ。じっとりとした汗が滲んで黒っぽくなったTシャツ。すこしびくりと動いて、でもすぐに落ち着く。自分よりも年上のこの白い肌の男は信じられないほど脆くて頼りなく尊敬もできないが幼い子供のように純粋でどこか無下にしてはならない魂を有している、そんな気がした。ただの母性本能かもしれない。

「逃した獲物は戻らない。次の獲物を探すの。明日の太陽が昇れば、また考えも変わるわよ」

 とんとん、と汗ばんだ背中を何度か叩いているうちに、タケウチの鼓動は徐々に落ち着いていった。



 鋭利なナイフで薄く皮膚を切り裂いた時、すぐには血が出ない。ゆっくりと切れ目が広がって、赤いねっとりとした血が細長い穴に充満し始める。痛みはさらに後からやってくる。

 警報を示す銃声が聴こえた時、体は一瞬で反応するが思考は停止したままだ。干すために手に握っていた洗濯物をまるで邪悪の象徴か腐った動物の死骸みたいにして放り出すとクワラはナベタの腕をとった。

「走って!」

 部屋に戻り最低限の身支度を整えさせる。

「なんですか、何が起こってるんですか?」

 混乱したナベタが繰り返し訊いてくるがそんなことはクワラにもわからない。この男は常に誰かが答を提示してくれる環境で育ってきたのだろう、いまは状況を把握することではなく生き延びるために何をすべきかだけを考えなければならないという基本的なことが理解できていないが説明している時間も余裕もない。

 二人は少ない手荷物をまとめた。オーケーです、とナベタが言った。足元に小型のスプレー缶が落ちている。殺虫スプレーだったが、肌に吹き付けてもすぐに汗で流れてしまいきりがないのと、他の外国人メンバーから使っているのが日本人だけだというのをからかわれて使用しなくなった。クワラは何気なくそれを自分の袋に入れた。

「イライザ!」

 後ろから声がして振り返ると肩からマシンガンを下げたリャドが立っている。幼馴染の男。カーキ色の軍服はやはり似合っていない。

「乗れ、すぐに追っ手が来る」

 外に出る。空は変わらない青色。ギラギラと光る太陽。乾いた灼熱の大地と舞い上がる砂。白い石壁の家々。昔から変わらない風景がスローモーションで流れる。漠然といつかなにかが変わると期待していた。それは旧政府の転覆や給水塔と排水管の設置による水質の改善や農作業の効率化に関する新たな知識を得ることでは達成されなかった。クワラは自分が望んでいたものは何だったのかやっとわかった。ここを出たい。ここではないどこかへ行きたい。

 再び銃声がする。今度は単発ではなく連続音が聴こえる。かなり近い。悪意がそのまま笑っているような声がする。砂煙を上げて向こうから人間を載せた迷彩色のトラックが向かってくる。リャドが腕を伸ばして示す砂と同じ色をしたジープに向かって身をかがめて走る。突然腕が強く引かれてクワラの体がバランスを崩した。後ろを見るとナベタが倒れている。

「ナベタ! 立ってナベタ!」

 ナベタはピクリともせずうつむいて土に顔を突っ伏したままだ。やがて赤黒い血が頭部から流れ出した。

「早くしろ、もうそいつは駄目だ」

 クワラは言われるがまままだ暖かいナベタの手をはなしジープの助手席に乗り込んだ。いまは生き延びなくてはならない。他のことは考えてはいけない。無駄のない動きでエンジンを吹かすリャドの大きな体を誇らしく感じる。エンジンの回転がギヤへ、そしてタイヤが地面を蹴る。動き出した鉄の箱がガクンと揺れ、ドアの窓枠を強く掴んだクワラは我に返った。

「村の人達を助けないと、日本人の二人も」

「正気か? このままじゃ俺たちも死ぬ」

 興奮してマシンガンを片手で乱射しながらリャドは車を走らせる。ポーズだ、当てる気はないし当たることはない。すれ違う敵勢は笑いながらこちらへ向けて銃を構えるが二、三発軽く発泡しただけでそのまま村の中心へと向かう。

「何のためにこんなことを」

「イカれた連中さ、殺すのが趣味なんだ」

 ナベタとまったく同じことを言っている自分にクワラは気がつく。自分より頼れる人間がそばにいるときには心が勝手に甘えるのだといまさらわかった。罪悪感が冷たい汗を背中に浴びせる。同時に、安堵感が全身を満たす。危機が去ったわけでも、この先に何が待ち受けているのかもわからないがいまは生きている。そのことだけが重要だった。

「どこへいくの」

 クワラもリャドも孤児で育ての親である旧族長も老夫婦もすでに他界している。それでも村の人達を捨てていくのは気が引ける。当たり前だ。だがそんな当たり前の感情を相手にしているような余裕はもうどこにも残されていなかった。

「国境のキャンプへ向かう、二百キロはあるが燃料はぎりぎり保つだろう」



 そこで、新しい生活を始めよう。

 夜がやってきた。月のない暗黒。変わらない砂地の夜。澱んだ川を望む森の直ぐ側にジープを止める。

「運転代わろうか?」

 クワラが訊いたが、リャドは黙って首を振った。

「だけどこうしている間に、また敵が来るかもしれない」

「こないよ」

 リャドはなぜか不機嫌そうに言った。

「このあたりに敵は居ない。キャンプまで、村も二つしか無い」

 そう言うとおもむろにクワラを振り向いた。じっと見る。

「イライザ、俺と結婚しよう」

 クワラはリャドをじっと見た。疲れている。とてつもなく。こんなときに何を言っているの?

「どうしたのよ、突然」

 リャドは首を振った。

「運命だ。二人の孤児。今日はたまたま、村に用があって来ていた。それで、生き残った。これは運命だ」

 そう言ってクワラに覆いかぶさってきた。

「お願い、やめて」

 リャドはもう止まらないだろう。わかっている。彼は腕を伸ばし、クワラの服を脱がせようとする。

「こんなことしている場合じゃないわ」

 何の力もない言葉。言葉には何の力もない。言葉では戦争は止まらない。飢餓も無くならない。言葉では何一つ止めることなどできない。押し倒された格好で、足元におろしていた袋から殺虫スプレーを取り出す。

「愛してる。一緒に生きよう」

 べつにいいじゃないか、と思う。もうリャドと一緒に。べつに嫌いじゃない。目を瞑り、抵抗をやめる。ありがとう、とリャドが言った。

 次の瞬間、ドアが開く微かな音と噴射音がした。リャドのうめき声が重なる。ないまぜになった混乱と怒りに抗するためにクワラは運転席に素早く移動し巨躯の背中を強く蹴った。ドアを閉め、エンジンをかける。

「イライザ!」

 薄っすらと片目を開けてジープにしがみつこうとするリャドの指を蹴り剥がしてギアを切り替える。自分が何をしているのかいま何者になってしまったのかもう人間ではなくなっているような気がしたがクラッチを踏んでギアを上げジープを加速させる。

 リャドは森と一緒になって暗闇に溶けていった。



 夜闇の中を、ジープは進み続ける。

 このまま難民キャンプへ行こう。そしてこれまでのことはすべて忘れよう。新しい人生を始めるのだ。帰国する外国人たちが置いていく本を読み始めてから気がついた。ここには何もない。

 砂煙をあげ、ジープが円弧を描きながら回転して停止する。

「無理だよ」

 小さく呟いて、クワラはステアリングに頭を押し付ける。

 このまま逃げよう。戻っても何もできない。万が一敵が残っていれば殺されるだけだ。リャドには悪いが助けても何をされるかわからない。

 アクセルを踏み、元来た道を進む。

 何をしたいのかわからないまま自分を止めることができない。

 タケウチは生きてはいないだろう。村人たちも。でも。旧族長の言葉を思い出す。いまなら少しは彼らの心が見えるかもしれない。

 クワラは内側から誘う優しい声を退け、ハンドルを握りしめてアクセルを踏み続けた。

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最果ての地で レオニード貴海 @takamileovil

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