存在証明

あんび

生存戦略

【――次のニュースです。昨晩X県Y市で通り魔事件が発生しました。被害者は帰宅途中だった同市の小学生です。刃物で何度も身体を切り付けられ重体で、現在病院で治療を受けています。犯人についての目撃情報等は一切無く、事態を重く見た警察は特別対策本部を立て――】


 今の時代、子供達が登下校中に恐れるものと言えば天候の急変だったり自動車だったり不審者だったりである。

 スマホのガジェットに流れるトップニュースを厳しい目で眺める母親に構わず、少年は元気一杯に家を飛び出していった。ランドセルに、通学帽。勿論、流行病対策のマスクも忘れていない。


 彼らくらいの歳の子にとって一日は飛ぶように過ぎ去る。放課後の帰りの会にて、クラス担任は大仰に咳ばらいをした。

「……毎日言っているが、遅い時間になるまで一人で出歩かない事!怪しい人間にはついて行かない事!いいな!では気を付けて、複数人で一緒に帰るように!」

 はーい、なんて声量だけは立派な返事が教室内に響いた。一人、二人、生徒が散っていって、最後の方まで残っていたのはあの少年だった。

 彼の家は住宅街から少々離れた所にあり、帰る方向が同じ友人や先輩後輩もいない。その問題は教師も親も把握していたのだが、無責任な事に、その解消については互いに「そちらの領分だ」と押し付け合うばかりで具体的な対策などは何一つ立てていなかった。彼は一緒に残っていた友人達と名残惜しそうに挨拶を交わすと、一人で教室を出ていった。





 給食袋をまるでリフティングするように蹴り上げながら少年は一人で細い道を進んで行く。少年の影はどんどん長く、黒く、そして周囲と同化していく。彼は一人で学校と家を往復しなくてはならないと言う事実を、つまらないとは思いつつそこまで悲観してはいなかった。一人でもそれなりに楽しむ方法は沢山あるからだ。

 そんな彼が学校と自宅のちょうど中間地点辺り、人通りのない閑静な住宅街に差し掛かった時である。背後に、妙な気配を感じた。そろりと振り返ると、秋口にしては少々重めなデザインの赤いロングコートを着た女性が見えた。黒いサングラスを掛け、今や生活の必需品となったマスクも勿論している。

 そんな少々派手で浮いた存在がすぐ後ろにいるのが何とも居心地悪く、少年は足を速めわざと通学路から一本脇に逸れた道に飛び込んだ。そのまま細い路地をぐねぐね進んで行く。さあ、これくらいでいいかなと思った彼はふと視線を上げ一瞬固まった。


 彼女は、まだ後ろにいた。カーブミラー越しに、自分をつけてくる姿が、彼にはよく見えた。背中に冷や汗が噴き出す。少年は必死に叫ばないようにしながら道を滅茶苦茶に走り始めた。あちらに曲がり、こちらへ折れて、そちらへ真っ直ぐ進んでいく。しかしコートの女はそれにぴったり追いついてくる。

 息が切れる、足が縺れる、身がすくむ。荷物を背負った子供の足と体力では限界がある。徐々に距離を詰められる少年は泣きたくなるのを必死に抑えながら何度も何度も後ろを振り返りつつ走り回る。

 しかし、それが良くなかった。後ろに視線をやった何度目かの時の事。少年は途端にバランスを崩し盛大に転んでしまった。ランドセルの中身がばら撒かれ、脚に給食袋の提げ紐が絡み、通学帽が吹っ飛ぶ。これ幸いと女性は確実に距離を詰め、少年の片足を踏みつけ彼に跨る様に立った。その手には、出刃包丁が握られている。彼女は大きなマスクの下でにやりと笑うとその包丁を少年の眼前に突き付け――


「酷い事するのねぇ、貴女」


「な……っ!?」

 少年に今まさに襲い掛かろうとしていたコートの女を止めたのは、横の路地からにゅっと現れた別の女性であった。彼女はコートの女の持つ包丁を叩き落し奪った上で、まるで蛇が滑るようにその後ろ側へ回り羽交い絞めにする。少年は急な展開に驚いたもののこれはチャンスだと、落とした物を全て置き去りにしてその場から逃げ出した。

「待、て!」

 コートの女性はなんとか抜け出そうと暴れるのだが、それをもう一人の女性はがっちりと押さえ込む。

「貴女、とんでもないニンゲンね」

「五月蠅い!あいつを脅し攫って親から身代金を取るつもりだったのに……!」

「……ふぅん。随分俗っぽい理由だわ」

 こもった声で言いながら、羽交い絞めにした側の女性は先程奪った包丁を逆手に構えて振り上げた。





 少年は、未だ家に辿り着けていなかった。コートの女を撒く為にあちこちの道路を進んだせいで元の通学路に戻るまで大分時間が掛かってしまったからだ。それに、今日会った女性達の事や持ち物をほぼ全てあそこに置いてきてしまった事を、どう家族に説明すればいいのか全く分からず途方に暮れてもいたのだ。

 日は完全に落ちた。とぼとぼ歩く彼は肉体的にも精神的にも疲れきり、ついに大きな用水路の脇に立てられた古い街燈の下にしゃがみ込んでしまった。


 それからどれくらい経っただろう。彼が何かを感じ背後を振り返ると、数メートル先の暗がりにこちらを見ている女性――先程自分を助けてくれた女性がいるのが見えた。

「あ、あ!お姉さん!」

 安心感から少年はその女性の元へ駆け寄っていく。緊張の糸が切れたのかわんわんと泣き出した彼を、彼女は優しく抱きしめてやった。

 ひとしきり泣いて落ち着いた少年は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら訊ねる。

「お姉さん、なんで」

「これ、忘れ物よ」

 そう言って彼女が差し出してくれたのは彼が置き去りにしてきた教科書や筆箱などだった。少々土汚れは付いてしまっていたが、そんなこと気にせず少年は満面の笑みを浮かべた。荷物を整理し、ランドセルを背負い直しながら彼はきらきら笑う。

「あの、色々、ありがとうございました!でももう道はくらいし、つかれちゃって、ぼく……」

「大丈夫、すぐにお家へ戻れるわぁ」

「ほんとお!?もしかして、お姉さんがいっしょにかえってくれるの?やったぁ!」

「……その前にねぇ、ちょっとあなたに聞きたいことあるのだけれど」

「なあに、お姉さん?」

 女性の目が、引き裂かれたように細く長く歪んだ。マスクに、ゆっくり、指を掛けて止める。


「わたし、綺麗?」





【――X県Y市での切り裂き通り魔事件発生から本日で10年が経過しましたが依然事件は解決されていません。この事件以降、同市及びその周辺市町村では同様の事件及び関連が疑われる事件が度々発生しており、警察は同一犯もしくは模倣犯の犯行と見て引き続き捜査に当たっていくと――】

【――こちらの防犯カメラには『自ら自分の口を裂く女』と彼女から逃げる小学生の男の子が映っています。この男の子はその後500m程離れた用水路脇の道路で瀕死の状態で発見されました。この女と被害者の少年に危害を加えた犯人との関係に関して――】

【――不可解な点の一つは、このエリアでは通り魔未遂や誘拐未遂を犯した人間の多くがその場で自ら自身の口を裂いている、という事でしょう。これについて犯罪心理学がご専門の――】


「酷い、酷いわあ。 “偽物” も沢山排除したのに、ねぇ」

「わたしの全部ぜぇんぶいもしないニンゲンの手柄になってる。なんでぇ?」


 大人では、ダメだった。

 わたしは『子供の噂によって生き長らえる存在』だったから。


 あの子も、ダメだった。

 ただ一言、『オバケ』としか言ってくれなかったから。


 マスクなんかもう何も珍しくないらしい。

 コートもハイヒールも傘も、今はありふれたファッション扱いらしい。

 ポマードやべっこう飴なんて、最近の子はそもそも知らないらしい。


 嗚呼。

 名を呼んで。

 忘れないで。

 泡沫のような存在に。覚束無いなりにまだここにいると。


【――速報です。X県Y市で再び通り魔事件が発生しました――】


 気付いて。

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