昔撮った写真に見たもの
たまに写真を撮っている。
写真といっても、人物を映したものではなく、ほとんどは風景写真。人を映すとなると、肖像権やら何やらが関わってきて、面倒くさくなるからだ。
写真の題材は、寺社仏閣や城といった建造物、史跡、海や町の風景、動物といった感じで幅広い。
特に猫の写真は評判が良く、Twitterに挙げるといいねやコメントが多いので、猫好きの一人としてとても満足している。
よく「猫は正義」と言われているが、写真においてはまさにそうらしい。
※
昔撮った写真を見返していた。撮ったのが高校のときなので、それほど遠い「昔」ではないが。
見てみると、思い出や記録用に撮影したものが多かった。ここ最近撮影しているような、風景や動物の写真もあったが。
過去に撮影した写真を見た私は、
(下手くそだが味があるな)
と感じた。
当時は今のように、写真を撮る用のカメラを持っていなかったうえに、画像編集の技術も全くない。スマホカメラの調子一つで、写真の出来が決まっていたと言っていい。そのためか、角度が斜めになっていたり、白味ががっていたりしている。
今の私から見れば欠点だらけの写真。だが、そこには嘘偽りのない素朴な感動があった。
当時高校生だった私が楽しいと感じていたこと、感動した風景、自転車でした探検の記録。
「今日こんなことがあったんだよ」
「これ、今日自転車に乗ってるときに撮ったんだ。きれいでしょ?」
と語りかけてくるような感じで、当時の私が味わった感動がしっかり伝わってくる。小手先の技術などの作為的なものを一切抜きにしているから、心の奥深くまで響く。
対して今の私が撮った写真は、「画質ヨシ! 構図ヨシ! 色味ヨシ!」だ。あくまで高校生のときに撮ったものと比較し、自己採点してみてだが。美しさはあるうえに季節感もしっかり感じられる。だが、どこか生気がないというか機械的な感じがする。わかりやすく言うなら、金属のように無機質な感じだろうか。
道楽程度にやっている写真。それでも、この角度から見るといいな、とか、比率の良し悪しとかしっかり考えている。結果、いいものは撮れるようになった。けれど、もっといいものを取らなきゃ、という心が暴走して、見栄えばかりを優先してしまう。
正直私は、美しいものは「きれい」だけでなくてもいいと考えている。質素なもの、おどろおどろしいものでもいい。その中に美を見出す人間がいれば、それは美しいものになるからだ。
それに、美しいものというのは、時代とともに移り変わってゆく。優美なものから質素なもの、進歩的なものから退廃的なものといった感じで。きっと、今までの価値観と正反対の美を見つけた人は、そこにはないものを見たのだろう。
そう考えてみると、高校のときに撮っていた写真に、私は現在失った何かを見たのかもしれない。
まいにち 佐竹健 @Takeru_As1999
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