普通の私と至福の食事

かんな

第1話 洋食屋のシチュー

さらさらと降る雨に体を冷やされる私。

今日はどうしても食べたくなった料理を食べに、近所の洋食屋へと歩いている。

傘を差して歩くのはあまり好きではないが、好物のためだ。

腹からの催促の声を撫でて鎮め、口のよだれを飲み込む。

店はもう、すぐそこだ。

静まり給え。

体に言い聞かせながら歩く。


目当ての店の扉を開けると、暖かな微風が体に纏わりつき、私は体をぶるると震わせた。

店先の傘立てには私の傘が一つきり。

もうお昼時には少し遅い。

田舎の店などは、どの店もこんなものだ。

お昼ぴったりの時などは待ちの列ができるのに。

「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ」

顔なじみの店主さんに促され、お気に入りの席に座る。

窓際の四人掛けテーブル、その内のひとつ。

厨房の方を向くことができ、窓との間にひとつ席を空けられる。

「さ、メニューをどうぞ」

店主さんがメニューを持って来てくれるが、すでに私の注文は決まっている。

私は笑顔で言った。

「シチューのセットをお願いします」

店主さんも私に微笑んで頷いた。

「ああ、お客さんがシチューを頼む季節ですか。どうりで、朝が寒くなりましたな」

店主さんはメニューを持って、

「それでは少々、お待ちください」

と言って厨房に歩いて行った。

私はそれを見送り、そわそわとする体を椅子に深く座ることで落ち着けた。

スマホは見ない。

文庫本なども持ち込んでいない。

シチューを待つには作法というものがある。

ただただ、待つ。

料理の香りや味、それらとの出会いに思いを馳せる。

それ以外にはいらない。

私もいい歳の大人だ、ゆったりと待とうじゃないか。

窓の外の雨に視線を向ける。

するとどこからか、トストスと音がする。

待ちきれない体が、足を揺すらせていた。

トントントンと、指までもがスマホをズボンの上から叩いている。

こいつらめ、私に恥をかかせるつもりだろうか。

そう思った私は、行儀の悪さを承知でテーブルの下で足を組み、右手の上に左手を重ねた。

そうして私は、もう一度窓に目をやった。

しずしずと降る雨を暖かな店内から見るのは好きだ。

心が落ち着いてくる。

なので、私はまったくソワソワなどしていないし、店内に漂う良い匂いになど空腹を刺激されてもいないのだ。

無意識にゆっくりと揺れる体は無視した。


コツコツという音をが厨房の方から聞こえてきて、私はブンと鳴りそうな勢いで視線を正面に戻した。

店主さんがトレーを持って近づいて来るのが見れる。

この幸せが近づいて来る光景が見られるからこそ、この時間に店を訪れるのだ。

私は姿勢を正した。

「お待たせいたしました。クリームシチューのセット、パンとサラダになります」

ごとり、と深皿がテーブルに置かれる。

いや、「我が元に舞い降りる」と表現して何の差し支えもないだろう。

深皿になみなみと盛られた、真っ白いシチュー。

まさに王道、まさに正義、まさに絶対。

ブラウンシチューやビーフシチューも捨てがたいが、やはり私の中の一番はクリームシチューなのだ。

けして大げさでもなんでもない。

私は口元がにんまりと歪むのを懸命にこらえた。

「それと、お冷も。ここに置いておきますね」

ミネラルウォーターが入ったコップ。

これこそがシチューと共にあることを許される唯一の飲み物だ。

古事記にもそう書かれている。

少なくとも私のものには。

「それでは、ごゆっくり」

店主さんは何故か、冷静な私に対してクスリと微笑ましい様子で微笑む。

ゆっくりと厨房に下がる店主さんを見送って、待望のシチューの香りを楽しむ。

芳しい。

いや、おいしい。

その匂いだけでも美味しさが分かる。

さすがシチューだ。

私はスプーンを持った。

右手を振るうと、大振りのスプーンの上にはトロトロに煮込まれたホワイトソース。

私はスプーンの端に唇を寄せる。

まるで、初心な恋人同士が口付けするようにゆっくりと。

ちゅるり、と啜る。

旨い。

最早、官能的ですらある。

溶けた具材が混じり、コクと深みのある味わい。

一口目でこの感動。

こんな料理があって良いのだろうか。

いい、いいのだ、これで。

私はスプーンに乗った残りを二口かけて飲み込んだ。

次に私の右手がスプーンを振るうと、そこにあったのはブロッコリーだ。

ああ、ブロッコリー!

白いソースに緑が映え、いっそ艶めかしいとさえ思える。

これは私の我儘の産物だ。

何故なら、この店のクリームシチューにはブロッコリーは具材にないのだ。

私がこの店の常連と言っていい存在になった時。

店主に顔を覚えられた時に思わず言ってしまったのだ。

「ブロッコリーを…入れてもらうことはできますか?」

そんな罪深い私に店主は微笑んで、

「ええ、良いですよ」

と言って下さったのだ。

地上に店を構える店主の姿を借りた神か何か、そんな尊い存在なのだろうか。

そうして、私はそれから注文の時に毎回、ブロッコリーを追加して貰うように言っていた。

そんなある日、たまたま込み合う時間に来店したときは、

「こんな忙しい日に追加してもらうのは申し訳ないな」

と思い、普通にシチューを頼んだ。

そうして、込み合う時間に入るアルバイトの男の子が持ってきたシチューを見て、私は驚いた。

ブロッコリーが入っている!

アルバイトの子に聞くと、私の容姿やシチューのことを聞いていたらしい。

それで来店を店長に伝えてくれたことで、無事にブロッコリーが私のシチューに入ったということだった。

危うく満員御礼の店内で、アルバイトの男の子を抱き締めるところだった。

その時のことを思い出しながらブロッコリーを頬張った。

端の方は柔らかく、簡単に口の中でハラハラと解けていく。

茎はこりゅこりゅとした歯ごたえがある。

この歯ごたえが、私の口と歯に幸せを与えてくれる。

口福、という言葉を目にしたのはどこだったか。

だが、口福というものがどういった状態かは分かる。

今の私の口の中だ。

次に掬ったのは、鶏肉だ。

ぷりっとした弾力が見ただけで分かる、照りも鮮やかな肉。

口に運ぶと、肉の繊維が簡単にほぐれ、口内に旨味があふれる。

クリームと混然一体となった鶏肉の何とすばらしいことか。

しっかりと下処理をされ、余分な脂肪や筋が一切ない、理想的な鶏肉。

店主さんに拍手喝采を浴びせるべきだろうか。

お次は何に、と思った私の視界にかすめたのはオレンジの悪魔。

もとい、オレンジ色の名脇役、ニンジンだ。

名バイプレイヤーとして料理業界に名を馳せるニンジン先輩は、このシチューという舞台でもひっそりと、だが堅実に脇を固めている。

口に入れ、噛みしめた。

途端に広がるニンジンの風味と甘さ。

クリームに煮込まれることで、その甘さがより増している。

クリームとニンジンの絶妙なハーモニー。

おいしーこれ!

と叫びそうになり、慌てて口内のニンジンとともに飲み込む。

後はもう難しく考える必要などない。

ただ味わう。

ただスプーンを動かす。

そうして、深皿の中身が残り少なくなってからが最後のお楽しみだ。

そう、パンだ。

大きめの丸パンを手に取り、半分に割る。

そして、半分を手に、もう半分を皿に戻す。

手に持ったパンをさらに小さく千切ると、それで私は深皿の底に残ったシチューを拭った。

丸パンは クリームシチューパンに 進化した!

頭の中にファンファーレが鳴り響く。

迷いなくシチューの付いたパンに噛みついた。

もったいないので、シチューの付いた部分だけを。

ああ、なんてこった。

こんなに素晴らしいパンを食べられる私は、特別な存在でも何でもない普通のおじさんだ。

そんな私でもこんなに美味しいものが食べられる。

こんな幸せなことはない。

この時代の日本に生まれてよかった。

柴犬の子犬にもそう言いたい。

パンを食べつくし、シチューも消えた。

神は死んだ。

そんな気分である。

私は最後に残ったサラダをモソモソと食べる。

落ち込んだ私をサラダは優しく慰めてくれる。

この店オリジナルのドレッシングと葉野菜、トマト、パプリカ。

皿は小さいながらも彩り鮮やかなサラダを完食する。

そうして、遅い昼食は終わりを迎えたのだった。


「ありがとうございました。またお越しください」

会計を済ませた私にわざわざ外に出て見送ってくれる店主さん。

「はい、また来ます。」

そういって傘を差した私は、店主さんに軽く頭を下げてから雨の中を歩きだした。

また次に来る時、またシチューを食べる時をいつにしようか。

そう、幸せな予定を考えながら。

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