3分間クッキング
三山 響子
3分間クッキング
理科の教科書を理科室に忘れた。部活が終わり、教室に戻って帰りの支度をしている時に気付いた。
「またー?莉穂ってば本当に忘れっぽいんだから」
同じ部活の麻衣が呆れたように言った。莉穂と違ってテキパキしている麻衣は帰り支度も早く、既に学生鞄を手に待機している。
「ごめん!取りに行ってくるからちょっと待ってて」
「はーい、じゃあ下駄箱出たところで待ってる」
教室を出て麻衣と別れると、莉穂は急ぎ足で階段へと向かった。
理科室は旧館の3階の一番奥にあり、新館の1階にある教室からは最も離れている。遠くて面倒くさいと思いつつも、宿題が待っている事を思うとやはり取りに行くという選択肢しかなく、下駄箱に向かう生徒たちの流れに逆らって黙々と階段を上る。
旧館に繋がる2階の渡り廊下に出ると、窓から差し込む夕日が創り上げたオレンジの世界に包まれた。窓の外に目をやると、部活を終えた野球部や陸上部の人たちが校庭で後片付けをしているのが見える。
莉穂は下校時の学校の空気が好きだ。
幻想的な夕日の光の海に浸る校舎と校庭。部活動を終えて上気した顔の生徒達が行き来するとふわりと香る、汗と制汗剤の匂い。それに心地良い疲労と充実感と「また明日」の声がプラスされて積み木のように重なって、1日の終わりが構築されていく。満たされた気持ちと皆と別れるのが寂しい気持ちがミックスして全身で青春を感じて、そんな自分に胸がこそばゆくなるひと時。
しかし、渡り廊下を渡り終えて旧館まで来るとはちきれそうな青春の濃度は徐々に低下し、3階に到着すれば物寂しくてひんやりした空気の濃度が逆転する。理科室や視聴覚室など、旧館の3階にある教室は放課後はあまり使用しないため、人の出入りが少ない。特に理科室は長い廊下の1番奥にひっそりと存在するので、近付くにつれてお化け屋敷に向かう前のような緊張感が募る。莉穂は、麻衣を連れてくればよかったと若干後悔しながらゆっくりと足を運んだ。
理科室の前に到着し、ドアの上部のガラス窓から室内を覗いて誰もいない事を確認すると、莉穂はドアをガラッと開けて中に足を踏み入れた。
4人用の実験用の大きな机が等間隔に並ぶ教室は日の光が入りにくい位置にあるため薄暗く、しんと静まり返っていた。清掃後だというのに木製の角椅子はかなり雑に机の下に収められていて、所々机からはみ出ている。よっぽど大雑把な性格の清掃当番だったのだろうか。
孤独と静寂の中にある今の理科室は、莉穂の知っている日中の実験で賑わう理科室とはあまりにもかけ離れていて、とても不気味に感じた。
こんな場所、とっとと出よう。莉穂は窓側の列の教壇から一番遠い机に近付くと、前屈みになって机の下の収納棚を覗き込んだ。
机の下に乱雑に置かれた椅子の背後の暗闇に、2つの瞳がひっそりと浮かんでいた。
「わ、ギャー!!」
心臓がひっくり返った。あまりの衝撃と恐怖に尻もちをついた莉穂の手を、椅子と椅子の隙間から伸びて来た長い腕がガッチリと掴んだ。
「やっ、やめて!」
「ち、ちょっと待って。俺だよ!」
「へ?」
聞き覚えのある声に思わず顔を上げると、莉穂の腕を掴んでいたのは同じクラスの広瀬君だった。2脚の椅子を左右に押しのけて上半身を覗かせ、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「え?な、なんでここ……」
「とりあえずこっち」
腕を力強く引っ張られ、言われるがまま莉穂も椅子を脇にどけて机の下に体を捩じり込ませた。
「びっくりしたー、誰かと思った。何でこんな時間に理科室に来たの?」
「教科書を忘れて取りに来たの……広瀬君こそ何でこんなところにいるの?」
「かくれんぼしてんの」
莉穂の腕から手を離して再び机の下に潜り込み、内側から椅子を引き寄せながら、広瀬君はいたずらっ子の表情で言った。
「かくれんぼ?」
「そっ。部長が高熱出していつもより早く部活が終わったから、皆で校内かくれんぼ。今は4組の佐々木と古川が鬼。ドアが開いたから見つかったかと思ったけど、まさか相澤さんが来るなんて予想外だったよ」
こちらこそ、まさか机の下にクラスメイトが潜んでいるなんて予想外も予想外だ。親しい間柄ならそう返したいところだけど、そもそも男子と話す事が苦手な莉穂は華やかな広瀬君と言葉を交わした事ももちろんなく、「そうなんだ」とつまらない返答しかできない。
「驚かしてごめん。でも、今相澤さんが出て行ったら見つかりそうだから、申し訳ないけどちょっとだけ付き合ってくれる?」
「う、うん。わかった」
ひょんな事からかくれんぼに参戦する羽目になってしまった莉穂は、広瀬君を真似て外から姿が見えないように椅子を引き寄せて身を隠すと、鞄を胸に抱いてダンゴ虫のように精一杯体を丸めた。
2脚の椅子が壁と化し、莉穂と広瀬君だけの秘密の隠れ家が出来上がった。比較的大きな理科室の机でも、さすがに中学生2人が余裕を持って入れる程のスペースはなく、どんなに距離を保とうとしても莉穂のYシャツと広瀬君のジャージの腕の部分が擦れ合ってしまう。
ほとんど話した事のない男子と机の下に潜るという何とも奇妙なシチュエーションに一瞬笑いがこみ上げそうになったけど、それよりも暗闇の中で異性と密着しているという現実感の方が増してきて、莉穂の体はほんのり熱を帯びた。距離が、近い。近すぎる。広瀬君の端正な顔がすぐ傍にあり、彼の体温がジャージの細やかな繊維を通過してじわじわと伝わってくる。
こんな状況で、私は一体どう振る舞えればいいのだろう?
「相澤さんって吹奏楽部だっけ」
元々誰に対してもフランクな広瀬君はこの状況に莉穂ほど動揺していないらしく、小声で雑談を始めた。
「うん」
「楽器何やってるの?」
「フルート」
「へえ。黒っぽくて長いやつ?」
「それはオーボエ、かな」
「そっか。ごめん、俺楽器疎くてさ。音楽の成績も2だし」
何とも反応しがたい成績を暴露されてどう返事をしたらいいのか分からず、莉穂は曖昧に笑い、そのまま会話が止まってしまった。気まずい沈黙が流れる。女子とは普通に話せるのに、男子相手だとどうも会話がうまく成り立たない。
「広瀬君はサッカー部だよね」
莉穂は勇気を出して自分から沈黙を破った。
「うん、そうだよ」
「ポジションは?」
「フォワード。点取れなくて部長に怒られてばっかだけどね」
「そうなんだ、でもすごいね」
何がすごいのかも分からないまま適当に返してしまい、莉穂は自分から話を切り出した事を心から後悔した。何て質問をしてしまったんだ、ポジションなんてキーパーしか知らないくせに。
2人の間にまた沈黙が訪れる。莉穂は、いっその事鬼が早く来てくれないかと願い始めた。
「まだ来ないな。難易度高すぎたかな」
広瀬君が胸ポケットから携帯電話を取り出して時間を確認しながら再び口を開いた。
「どれくらい隠れてるの?」
「もう20分くらい」
「そんなに!」
「へへ、すごいっしょ。でも隠れる前は大変だったよ。理科室の中めっちゃ整理整頓されてて、俺が隠れてる所だけ椅子がはみ出てたら見つかりやすいと思ったから、あえて他の椅子も不揃いにしてさ。その間に来ないかヒヤヒヤしたよ」
莉穂は理科室に入った時の光景を思い浮かべた。あの雑な椅子の並べ方は広瀬君の仕業だったのか。
「私、てっきり掃除当番の人が雑な人だったのかと思った」
「残念、犯人は俺でした」
「どうしてここに隠れようと思ったの?」
「さすがに人が少ない3階の奥までは来ないだろうと思ってさ」
そこまで言って、広瀬君は一呼吸置いた。
「それに、俺、下校の雰囲気が苦手なんだよね」
「え?」
「ほら、この時間の教室や下駄箱って部活終えた奴らで賑わうじゃん。それ見てると寂しくなる。家に帰りたくないなって思う。俺、学校大好きだから」
広瀬君の発する一言一言が莉穂の心に突き刺さる。
「だから理科室まで来た。ここならあの雰囲気を感じなくて済むし、何より少しでも長く学校に居られる気がするから」
隠れ家の中で初めて、莉穂は広瀬君の横顔をまともに見つめた。彼の表情は変わらず穏やかだけど、俯きかけた瞳はさっきよりもほんの少しだけ憂いを含んでいるように見えた。
広瀬君の言う“あの雰囲気”。きっと、莉穂が五感で感じているのと同じ雰囲気を彼も感じ取っているのだろう。莉穂の好きな、疲労と充実感と空虚感が入り交じる夕暮れの世界。
でも、広瀬君はこの世界が苦手だと言った。家に帰りたくないとも言った。見ている世界は同じなのに、捉え方はこんなにも正反対だ。ましてや、元気印の広瀬君が思いがけず後ろ向きな言葉を
広瀬君はどうして家に帰るのが嫌なんだろう。複雑な家庭環境なんだろうか。みるみるうちに彼の心の中を覗き込みたい衝動に駆られた。
「私は下校の雰囲気好きだよ」
「え?」
広瀬君の顔が莉穂の方を向き、広瀬君の瞳に莉穂の真っ直ぐな瞳が映る。
「広瀬君は……」
「しーっ!」
教室の外から複数の足音が聞こえてきた瞬間、莉穂の口は広瀬君の大きな
「ったく、広瀬のやつどこ行ったんだよ」
「こんなに遠くまで来るか?」
「1階にも2階にもいなかったから、もうここくらいしか探す場所ないだろ。視聴覚室は鍵かかってたし。わ、きったね。掃除の後とは思えない散らかり具合だな」
4組の佐々木君と古川君の声だ。ガタガタと椅子を動かす音が聞こえ、2人が順に机の下を確認しているのを気配で感じた。これはもう逃げられない。逃げられないと分かっているのに、幼い頃にかくれんぼをしていた時に感じたゾクゾクとしたスリル感が時を超えて復活し、一気に体中を駆け巡る。
莉穂の口元を覆っていた広瀬君の掌が離れた。横目でちらりと見ると、広瀬君は顔をしかめて声を出さずに「やっべ」と呟いた。彼も心の中で白旗を上げたようで、残り僅かな潜伏時間を楽しむかのように口元を緩ませながら身を縮こませている。
鬼の足音と椅子をどける音がどんどん近づいてきて、とうとう莉穂と広瀬君を隠してくれている2脚の椅子の隙間から男子の足元が見えた。広瀬君の目の前の椅子が動かされ、隠れ家の中にぼんやりとした薄暗い光が差し込んだ。
「いたー!お前どこに隠れてるんだよ。って、あれ?」
佐々木君の素っ頓狂な声が聞こえた後、莉穂の目の前の椅子もどかされ、ようやく視界が開けた。広瀬君と共にヨロヨロと机の下から這い上がる。佐々木君と古川君は驚きと好奇の眼差しで莉穂と広瀬君を交互に見た。
「え!なになに、こんな所で密会?」
「広瀬って相澤さんとデキてたの?」
「違うよ。俺が隠れてる時に相澤さんは忘れ物を取りに来て、見つかるまでかくれんぼに付き合ってくれたの。巻き込んだのは俺なんだから、余計な噂流すんじゃねぇぞ」
「お前、関係ない子をこんなくだらない遊びに巻き込むなよ」
広瀬君がスマートにフォローしてくれたお陰で、2人からこれ以上詮索されたり冷やかされたりしなかったのが救いだった。
「それよりお前ら、2人がかりのくせに時間かかりすぎだろ」
「他の奴らはとっくに見つけたよ。こんなに遠くまで来てるとは思わないだろ。広瀬の事だから職員室にでも潜んでるんじゃないかと思って捜索してたら、用事もないのにコソコソするなって担任に怒られたんだからな」
「ぎゃはは、だっせぇ!で、最初に見つかったのは誰?」
「野崎」
「じゃあ次は野崎が鬼だな。よし、第4ターン行くぞ」
嬉しそうに号令をかける広瀬君の姿に、佐々木君と古川君が目を丸くする。
「えー、まだやるのかよ」
「まだ日も沈んでないだろ。早く皆集めて次行こうぜ」
広瀬君は佐々木君と古川君のそれぞれの肩に手を置いてパン!と力強く叩くと、莉穂の方を振り返って笑顔を見せた。
「付き合ってくれてありがとう。俺もう1回隠れてくるわ!相澤さんも気を付けて帰ってね」
「うん、また明日」
広瀬君たちはぎゃあぎゃあ騒ぎながら理科室を出て行った。3人の賑やかな声が次第に遠くなり、やがて再び静寂が訪れた。後に残ったのは、理科室の窓辺でポツンと立ち尽くす莉穂ただ1人。
短時間で色々な事がありすぎた。1人になって徐々に落ち着きを取り戻してきたところで、莉穂はようやく自分の身に降りかかった出来事を回想する事ができた。
理科室に行ったら広瀬君がいた。腕を掴まれて机の下に引きずり込まれた。初めて会話した。掌で口を塞がれた。最後に笑顔でお礼を言われた。
時間にしてほんの数分、おそらく3分程度の時間だけど、目と鼻の先で感じた広瀬君の吐息や体温、やんちゃな笑顔、唇に残る彼の柔らかな掌の感触、最後まで気遣ってくれた優しさ、そして心の内を吐露してくれた時のちょっぴり陰った瞳。ひとつひとつ思い出す度に体温が1度ずつ上昇し、心臓が早鐘を打って、莉穂の頭の中はすっかり広瀬君に支配されてしまった。
どうしよう、どうしよう。広瀬君の事なんて今までこれっぽっちも意識した事なんてなかったのに。落ち着くために意味もなく理科室を1周してみたけど、広瀬君の存在はますます大きくなるばかりで、莉穂は思わず両手で頭を抱えて床にしゃがみ込んだ。
どうしよう、どうしよう。全身が熱い。明日からきっと、広瀬君のいる教室では平常心ではいられない。
血が上った頭で、莉穂は下駄箱の外で麻衣を待たせている事をふと思い出した。今起きた一部始終を麻衣にも話すべきだろうか?いや、麻衣はいい子だけどゴシップ好きだ。たった今芽生えたばかりのこの感情にまだ水を差されたくない。もう少し1人で向き合う時間が欲しい。
とりあえず下駄箱に向かわなければ。少し遠回りして体を冷ましてから麻衣の元に戻ろうか。
熱々に調理された体を冷却するために立ち上がると、莉穂は教科書の眠る理科室をゆっくりと後にした。
3分間クッキング 三山 響子 @ykmy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます