テセウスの船
神坂 理樹人
永遠の命
頬を撫でると、冷たい感触が心を震わせた。
真新しい金属の顎はスチールを噛み砕く硬さを隠しながらライトの光を浴びて怪しく光っている。
今しがた手術を終えたばかりだった。Aは鏡に映った自分の処置の具合に惚れ惚れとして微笑んだ。つもりだった。
Aの体は機械でできていた。
表情を作る筋肉などもはや残っていない。そこにあるのは、わずかに残った生命を維持させるために必要な食事を摂るための口だけだった。
人の体は脆い。
斬られ、叩かれ、擦れれば簡単に傷が付く。
万が一にも傷つかなかったとして、百年も経てば細胞分裂が限界を迎え、ただただ朽ち果てるのみだ。
機械の体は決して傷つかず、衰えず、動き続ける。壊れてしまったとして取り替えてやればいいだけの話だ。
もはやAの体に人と呼べる部分は少ない。この事実を作った天才的な脳を除いては。
エネルギー効率の良いチョコレートを口にいれながらAは鏡に映る自分の姿を見て忌々しく眉をひそめたくなる。完全なる体を手に入れてなお、この脳は少しずつだが確実に腐り始めていた。
「新鮮という言葉は劣化するが故に生まれた。私の記憶をそっくりそのままどこかに移し替えることはできぬものか」
数日ぶりにカーテンを引く。窓の外の景色は前に見たときと同じく、ただ壊れ崩れたバラックだけが建ち並んでいるばかりだった。あるいは機械さえもああして腐り落ちて壊れていくのだろうか。
町の外れのスラムである。親を亡くしたか見捨てられたか、子供たちが身を寄せ合って暮らしていることは知っていた。その日の食事もままならぬ。しかし見切りをつける分別も覚悟もない。
ただAにとっては誰もが近づこうとはしないハエと野良犬が蠢くこの場所が好都合であった。
生命が永らえるには観測者が必要だ。ここにAという存在が幾ばくかの形を作っていることを見続けるものが必要だ。
Aは埃の積もったドアノブに手をかける。油が切れ、錆びついて固まったそれをモーターの駆動で引き剥がす。
外に出るのはいつ以来だったろうか。カレンダーに印をつけるのもとうの昔にやめてしまった。
ただAの脳裏にはすでに置き忘れたと思っていた少年のような好奇心が浮かび上がっていた。
被験者はすぐに見つかった。元より生きることさえ面倒に思う世界だ。屋根のついた部屋と食事があるというだけで誰の目にも魅力的な誘いである。
Aはその中でも幼い子どもを選んだ。つかうのであれば新鮮であればあるほどよい。ただそれだけだった。
「今日からここが君の部屋だ」
そう聞いた少女はAの話もそこそこに柔らかなクッションへ飛び込んだ。土の地面より柔らかい寝床は少女にとって初めてだった。
「好きにするがいい。ここは今から君のものだ」
これからの過酷な実験を考えればたった一日の安息など受けて当然のことだ。必要になるその日までより良い状態に保存する。実験において当然の道理というだけだ。
被験者を手に入れて、Aの研究はいよいよ加速していった。
元より生命の運命をねじ曲げようかという研究を続けてきた身。命を移し替えることに躊躇などない。
数式を並べたて、多くの人類が失って久しい書籍をあたり、自分で脳に書きあげた過去の実験結果を読み出す。
ひとかけらのチョコレートだけを口に含み、駆動するモーターの熱で溶かしながら飲み込む。これ以外のすべてを研究に費やした。
幾日が過ぎたかはっきりとはしない。ただAは研究室のドアが叩かれたことだけは辛うじて認識することができた。
今まではAの他にこのドアを開くものはない。ただ今だけは開けたドアの先にまだ人間である少女の姿があった。
「何か不自由でもあったかね?」
Aはつとめて冷静に、自分の知る最大の優しさをもって口を開いた。
食事の準備は十分にした。子どもが何に興味を示すかわからなかったが、重要ではない
Aの問いかけに少女は少しだけこわばった顔で
「お食事の用意ができました」
とだけ言った。
Aはそんなものを頼んだ覚えはない。まだ手元に残っているチョコレートのかけらさえあれば、まだ数日はこの研究室の中に居続けることもできる。
「先生はずっと何も食べていないでしょう。だからお食事を用意しました」
氷像のように動きを止めたAを溶かすように少女はさきほどよりはっきりと通る声で言った。ただ一度顔を合わせただけの機械を相手にしているとは思えない。彼女の言う先生は紛れもなく人間であった。
「さあ、早く」
「わかったよ。すぐに行こう」
手を引かれてはAに断ることはできない。大切な被験者の機嫌を損ねるわけにはいかない。逃げられはせずとも自分にきずをつけることくらいはできる。いずれAのものになる脳に何かの傷をつけさせるわけにはいかなかった。
荒れ放題だったキッチンはいくらか片付けられ、おもちゃを入れていた箱がシンクの前に逆さまに置かれていた。
「どうぞ、召し上がってください」
温かい料理の湯気に目のレンズが曇る。Aは脳の中を探ってみたが料理の名前もわからなかった。
そもそも久しくチョコレート以外を口にしていない。料理など研究に不要な知識はすっかりと排除してしまっていた。
精密なギアが細いスプーンの柄を的確につかむ。黄金色のスープをひとすくいして口に入れた。
「どうですか?」
不安げな少女の問いにAは戸惑って無言でうなづいた。
Aの口は先日機械になり変わったばかりだ。もう味を感じる舌もない。液体を口からこぼさないようには作っているものの、味も湯気たつ温かさも感じられなかった。
「ああ、おいしいよ」
少しだけ胸が痛んだような違和感にAははっとした。痛むような部分はもう残っていない。被験者の機嫌を損ねないための必要な嘘だったはずだ。
何度言い訳しても数式のように腑に落ちる答えはなく、贖罪のようにスープを飲み干した。
少女は表情もない機械の中に存在する何かを見出したらしかった。
一日に一度。決まって研究室のドアが叩かれ、少女はAの手を引く。キッチンに連れて行かれると知らない料理が湯気をたててテーブルに並んでいた。
明日には決行しよう、Aは完成した移植手術の論文を何度も眺めながらその日が来ることはなかった。
とうとう少女も少女と呼べぬ歳になった。もはやAにとって被験者と呼ぶほどの価値もない。
古い脳では観測者としては不適当だ。新しい被験者を手に入れなければならない。
「さあ、もう行きなさい。君は立派になったんだ。ここにいなくとも自分の足で生きられよう」
少女には持てる限りの調理器具を持たせてやった。元々Aには不要なものだ。この寂れた町を出ていけば彼女の腕を買って料理人として雇いたい人間はすぐに見つかるだろう。
地平線に彼女の頭の先が見えなくなるまでAは歩いていく姿を見続けた。
「私に起きたのは人間の持つエラーだった」
自身に起きた感情を分析しAはそう結論づけた。
体はすっかりと機械に置き換わったがまだ脳は人間のまま残っている。Aが少女を逃したのは恩義に他ならなかった。
だから調理器具はすっかり少女に渡してやった。もう料理をする環境ではない。数年ぶりにチョコレートを口に入れながら、Aは苦い顔をしてまた錆びついたドアを開いて外へ出た。
次にAが研究室に迎えたのはもっと幼い少年であった。今度はおもちゃ箱を台にしても手は届かないほどの子どもだった。肌が焼けていると錯覚するような寒さの中、凍えていた少年を拾ってきたと言った方が正しかった。
また温かいベッドを与え、数日体力を回復させたら、今度こそ実験を開始する。すっかりと内容を暗記してしまった論文をまた開いて、Aは顎のモーターを空転させた。
数日が過ぎ、いよいよ少年の頭にメスを入れる日がやってきた。その数日の間、Aは研究室から一歩たりとも出ようとはしなかった。これから会うのは研究した結果を試す相手だと、何度も言い聞かせてきた。
ドアを開ける。研究室を出る。
子供部屋のドアをノックもなしに開け放った。
首に何かが巻きついた。ヘビが噛みつく肌もなければ締められて詰まるのどもない。
巻きついた何かを引き剥がそうとして、その先に少年の手が繋がっていることに気がついた。手の感触などとうにないAにとっては巻かれたそれが首を温めるマフラーであることなど知る術もない。
危うく引きちぎるところでその手を止めたAの視界にぎこちなく微笑みを浮かべた少年の姿があった。
「お外、寒いから」
少年はそう言ってAの首にかかったマフラーを巻きつけた。
Aに寒さなど感じられぬ。オイルが凍りでもすれば気付くだろうが、機械の体に気温などあってないようなものだった。
「あぁ、ありがとう」
またAの脳がエラーを起こす。理論と計算の埒外に思考が引きずられる。意思とは世界の理をねじ曲げて解釈することだ。眼前の事実から目を逸らし、都合のよい解釈をすることだ。
何のためにここまで生き永らえてきたのか。その理由もよく覚えていなかった。脳の鮮度は日に日に落ちている。いつか自分が研究者であったことさえも忘れてしまうかもしれない。
手を伸ばす。その手は少年の首を絞めることなく、頭を優しく撫でていた。
いっぱいの毛糸と編み針を渡してやる。そして少年はAの家を出て行った。ここまでにまた数年を要した。すっかりと老いぼれた頭は道具の使い方も時折失念する。いくら体を機械に置き換えても生命の限界は必ず襲ってくる。Aに残された時間がわずかであることは自身が誰よりも理解していた。
Aは今度こそと心に決めて、スラム街でも一番貧しい子供を選んできた。毛先が擦り切れているようなみすぼらしい姿をしている。ボロは恥部を隠すのがやっとで体を守ることなどできそうもない。
凍えた指は満足に動く様子もない。調理道具も裁縫道具ももはやここにはない。情を移す必要もない。時間もとらない。そう決めてAは家へと連れ帰った。
暖炉の前に置いても、子どもは微動だにしなかった。男か女かも確かめていない。情報が増えればそれだけ情が移るというものだ。ただのモノだと自分に言い聞かせるようにAは研究室へと戻った。
翌日には準備は万全の状態だった。眠るのも忘れ、子どもが起きる時間を待っていた。十分な睡眠をとって覚醒した瞬間こそ脳が最も新鮮な状態である。Aはそれを誰よりも理解している。
さぁ、覚醒せよ。
真っ赤な血が脳を巡り夜のうちに整理されたシナプスに電流が流れるその瞬間をとらえる。
Aは興奮で震えるような錯覚を覚えながら子供部屋のドアを開け放った。
子どもは、いや被験者はおとなしく毛布の何枚も重ねられたベッドで眠っていた。抱き上げると、すぐに目を擦ってAの顔を見た。
「始まるんですね」
その子どもは自分の未来を悟ったように優しくそう言った。まるでAの方が諭されているようだった。
ふと目をやると、ベッドの隅に紙束が積まれている。Aが死に物狂いで書き続けた脳移植の論文だった。
自分の脳の情報をデータに変換し、別の脳に書き換える。元の人格は失われてしまうであろうこともその中に記されているはずだ。
それでも抱え上げられたその小さな体は身じろぎすらせずに、眠った赤子のように落ち着いている。
「怖くはないか?」
思わずAは問うた。気持ちを聞けば決意が鈍る。そうわかっていても聞かずにはいられなかった。
「僕は何にも取り柄がありません。一人で生きていくこともできなくて、こうして助けてもらいました。だから今より賢くて誰かの役に立てるようになるのなら」
ふと、Aの脳の一番奥に雷のような衝撃が走った。どこか体がショートしたのかと思うほどだった。
この顔をどこかでみたような気がする。古びて機能の弱くなった脳内を必死に掘り返す。 腐った細胞の死骸に埋もれた中をかき分けて、ようやくこの体を作り出した理由を拾い上げた。
「お父さんはすごい科学者だから、きっと助けてくれるよね?」
弱々しく息を吐きながらそう漏らした娘の体をAはただ抱きしめることしかできなかった。
人の体は簡単に痛む。
目にも見えない小さなウイルスに全身を侵され死に至る。そうでなくとも百年もすれば劣化して使い物にならなくなってしまうのだ。
だから機械の体を求めた。しかし間に合わなかった。いつしか古くなった脳は目的も忘れ、ただただ永遠の命だけを求める機械に成り下がっていた。
脳はすでに腐り落ちていたのだ。気づかなかったのはA自身のみだった。
「博士、どうしたんですか?」
抱き上げられたままの子どもは恐れることもなく首を傾げていた。今自分を殺そうかという相手に対して少しも不信感を抱いていない。不思議というよりも恐怖だった。
「いや、なんでもない」
Aはゆっくりと子どもをベッドに下ろすと、自分のために蓄えてあったチョコレートをひとかけら手渡した。機械の体から人の体に渡されたそれは少しずつ柔らかく溶けていく。
「どうしてですか?」
「脳に糖分が回らないと勉強は進まない」
薄汚れた机をボロ布で払う。椅子はどこかに積み上げていただろう。いらなくなったものをこうして山積みにして置いてあったのは思い出が捨てられなかったからだと気付かされた。
「私の脳はじきに腐る。いや、すでに腐っている。もう手遅れだ」
ベッドの上の論文を拾い上げ、めくりながら数冊の本を棚から取り出した。
「だから私の脳の中を君に託そう。いつか君が私を超えるときが来る」
手渡せるものはもうない。だが知識は分け与えることができる。
細密なギアがページをめくるたび、Aは遠のいていく意識に長らく忘れていた充実感を覚えていた。
テセウスの船 神坂 理樹人 @rikito_kohsaka
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