月夜の理科部

第28夜「日常と特別」（下）

　土曜日の授業が午前中で終わると、キョウカとカサネはいつものように学食にやってきた。丼もの行列とテラス席の陣取り合戦。この春入学した１年生たちは、どこか手探りの会話をしている。

　特別何があるわけでもない。それでも沢山の生徒で溢れる食堂は、特別な春をお祝いしているみたいだ。

　今日のメニューが並ぶガラスケースの前まで来たところで、キョウカのデザート選びから２人の恒例行事が始まる。

「さて、本日のデザートはなにかなー？」

「ねぇ、見て！　キョウカ。Ａが抹茶ババロア、Ｂがミニ白玉ぜんざい。ってこの２択、前にもあったね！」

「アハハ。えっと、どうするんだっけ？　ぜんざいにババロアトッピング？」

「いやいや、逆！　あ、オバちゃん。Ａランチ。デザートに白玉トッピング追加ね！」

　トレイを滑らせ楽しそうな２人の後から、ニコニコ顔のアヤが列に加わった。

「ゴメン。お待たせー」

　皆既月食の夜を境に、昼間の弱気なアヤはすっかり姿を消した。頼もしくもあり、少し寂しいような気もする彼女の変わり様に、キョウカは微笑みを浮かべた。３人は、４月からまたクラスが一緒になったこともあり、毎日のように一緒に昼食をとるようになったのだった。

　桜の見えるテラス席が空いた瞬間、アヤはトレイを置いて猛ダッシュ。今日は運良く確保できたみたいだ。キョウカが持ってきた２人分のパスタに、そよ風で散った花びらが彩りを添える。

　アヤは桜パスタを頬張りながらニマニマし、何か聞いてほしい顔でキョウカの方を向いた。

「ねぇアヤちゃん。何人、入部することになった？」

「よくぞ聞いてくれました。なんと、38人！」

「ええっ？　すごいね！　一気ににぎやかになるなぁ」

　キョウカの驚く様子にえっへんと得意げな表情のアヤ。２つ結びも右に左にと元気に跳ねる。理科部の新規入部は例年５人程度である。「奇跡の年」と呼ばれた去年の10人をあっさり更新したのだ。ドヤ顔も無理はない。

「まぁ、まだ仮入部だけどね」

「それでも凄いなぁ」

　アヤの分析によると、どうやらキョウカの月面ローバーや、アヤの焼き物の評判が貢献したようだ。新入生募集メール用にカサネが考えた〈二股かけやすい部ナンバーワン〉なんていうキャッチコピーも、案外興味をひいたのかもしれない。女子の入部希望者も多かった。

「掛け持ちが多そうなの。ほら、弓道部とか。夕方過ぎると的が見えなくなるんだって」

「なるほど！　じゃあ最初から夜隊（よるたい）希望ってこと？」

「そう。あと美術部と迷ってるコもいたな。電気炉とバーナー使わせてほしいって」

「やっぱりみんな本気で浮気したいんだね。わかるよぉその気持ち。ハッハッハー」

　カサネは笑いながらデザートの入るガラスカップを優勝トロフィーみたいに高らかに掲げ「全部本気がいっちばーん！」なんて言って食べ始めた。頭の上の桜の木が、花びらを数枚落として祝福する。抹茶ババロアの上で行儀よくしていた白玉は、迷惑そうな表情であっという間にカサネの口に消えた。

　キョウカはババロアをちびちびと食べたあと、ようやく話を切り出した。

「そういえば、まだ２人に言ってないことがあった……」

「えっ!?　どうした？　キョウカにもレネさんの『大事なことは後から言う』が伝染（うつ）っちゃった？」

「いや、そういうわけ、かもしれないけど。――ユキくんのことで……」

　カサネもアヤも神妙な面持ちでキョウカの顔を覗き込んだ。

「アヤちゃん。知ってた？　ユキくん、アメリカ行くって……」

「えっ？　本当？」

「うん。得居先生が言ってた……。６月からだって」

「そ、それは急だね」

　もうキョウカだけが特別なタイムラインに乗っていた。２人の同級生はキョトンとした顔で日常に取り残されている。

「私、笑って送り出せる気がしないよ……。アヤちゃんはさぁ、羽合（はわい）先輩が大学に行っちゃって、寂しくないの？」

「えっ？　うーん、どうかな……」

　アヤが腕組みして首を傾（かし）げると、南風が彼女の鼻先に小さな桜吹雪を作った。彼女は手に持った２つ結びの片方をクルクルと遊びながら、メガネの奥で寂しそうに笑った。

　キョウカもカサネも、そして理科部の誰もが、アヤがスバルに想いを伝えたというのは風の便りに聞いていた。アヤは口を少しだけ尖ら、拗ねるように呟いた。

「幼馴染ってね、みんなが思うように、強い絆じゃないんだ」

「え？」

「今は、たまたま特別に見えるだけ。日常の何気ないモノが２人を結びつけてることもあるけど、大抵はエネルギーの塊みたいな片思いってのが正体なの」

　眼鏡の奥のアヤのつぶらな瞳は、その見た目よりもずっと大人で、世界を分析的に捉えていた。幼馴染という危うい関係のことも、数式を書くように繊細に理解しているようだった。

「ほら、こないだの特別授業でも言ってたでしょう？　〈Ｅ＝ｍｃ２〉、モノとエネルギーは等価なんだって。あは」

「えっ？　どういうこと？」

　幼馴染に決まった形はない。それを規定する物理法則もない。

　レネが特別授業で披露した現代物理学の世界観によると、私たちは物質・エネルギー・情報の３要素から成る世界に暮らしているらしい。情報そのものは物理法則に従わないが、情報は物質に書き込まれ、情報処理にはエネルギーが必要だ。だから結局、この３つは切っても切れない関係にあるという。

　アヤは真剣な眼差しでキョウカを見ると、本心を打ち明けた。

「ある日突然、彼の前にステキな人が現れて、私の前から居なくなってもおかしくないなんて、本気で思ってるんだよ」

「えっ、そうなの？　思ってもみなかったよ。……意外」

「だからね、キョウカちゃん。水城（みずき）くんをちゃんと繋ぎ止めておくにはね、モノやエネルギー以外が必要」

　世界は、モノとエネルギーの２択ではない――。

　キョウカはユキとお互いの想いを伝えあった後、２人の関係に何のエネルギーも注いでこなかった。「そのままでいいよ」なんて言われたからって、本当にそのままで良いわけがないのに。２人をつなぐモノだって、とんぼ玉くらいしかないのだから。

　キョウカの顔をじぃっと眺めていたカサネが、何かに気付いたように目を大きく開いて声をかけた。

「あれ？　キョウカ？　優柔不断どこ行ったの？　まさか月に置いてきちゃった？」

「え？　アハハ。まだ持ってるよ！　でも、少ししまっておくことにした」

「そう？　――それも良いかもね。だって、顔に書いてあるよ？」

「？」

「水城くんに、『思い出がほしい』って、ちゃんと言いな！」

　２人の関係を繋ぎ止めるのに必要な、モノでもエネルギーでもないもの。それはきっと情報だ。