第28夜「日常と特別」

第28夜「日常と特別」(上)

 ――キョウカ? ……ねぇ? ――ちょっと……。キョウカ……?


「キョウカ!」

「ふぇ?」


 机に突っ伏していたキョウカは、名前を呼ぶ声にガバっと飛び起きた。口元のよだれを袖で拭う。ふふっ、と誰かの笑う声。


「あれ!? 授業中? ――月は……?」


 周りをキョロキョロしてみるが見慣れた授業中の教室だ。電子黒板に映し出された小難しい数式。窓にかかるカーテンは春風に揺れ、ポカポカとした日差しとともに眠気を誘う。

 春眠しゅんみんあかつきを覚えず――。眠いのはきっと春だからだと勝手に納得し、キョウカは窓の外のいつもの青空を眺めた。


 ――あれ? 月は? まさか夢?

 

 キョウカはまだ寝ぼけている。白い月はいつでも出ているわけじゃないのに、無意識にそれを探した。

 世界は全て平常運行で、教壇に立つ女性だけが何か特別な気がした。あまり見ない長い髪を「キレイだなぁ……」と夢見心地で眺めていると、振り返った彼女の顔に驚いた。そこにいるのはレネだった。


(……レネさん? 何で学校に?)


 何かを思い出そうとして気はくのに、キョウカの頭はうまく回らない。


「キョウカちゃん。大丈夫?」


 前の席のアヤが心配そうに振り返る。


(え、ちょっとまって、何でアヤちゃんがG組に?)


「ねぇねぇ、キョウカ?」

「わぁ」


 カサネが後ろの席から、キョウカの背中を「つんつん」とつついた。キョウカは驚きと怒りの入り混じった表情で振り返り「ねぇ、私たち、本当に月からデータを持って帰ってきたんだよね?」と小声で話しかけた。

 すると、カサネは呆れ顔でポリポリと頭をかきながら答えた。


「何言ってるの、違うよ」

「えっ!?」

「そこ、私の席」

「ん? あ! ゴメンゴメン……」


 ここは3年G組の教室だ。

 進級してクラス替えがあったのだが、2人はまた同じクラスになったのだった。でも、席が逆。クジ運の強い2人は揃って眺めのいい窓際の席をゲットしたのだが、今度はカサネが前でキョウカが後らしい。キョウカは寝ぼけていたのか、カサネの席に座ってしまっていた。


「アハハ。キョウカちゃん、だいぶ疲れてるんだね。まぁ、昨日の今日だから、しかたないか」


 前の席でアヤが2つ結びを振りながら優しく笑った。彼女と一緒のクラスに戻れてよかったと始業式の日にはしゃいだことも、キョウカはすっかり忘れていた。


「レネさん……」


 そう呟いて、凛々しく授業を進める彼女を眺めた。去年も行われたという、3年生向けの特別授業だ。内容はどうやら、月面基地と量子コンピューターについて話しているようだ。

 まったく大人は不思議な生き物だ――。キョウカは思った。

 レネは昨夜あれだけ泣きじゃくってボロボロで、今日は絶対寝不足のはずなのに、それをまったく感じさせない美貌びぼうを振りまいている。若竹色のブラウスで初夏を先取りしつつ、パンツスーツがきまっている。


 得居も2年からそのまま持ち上がり、3年G組の担任である。レネ同様、昨夜の一件をみじんも感じさせないが、キョウカやカサネがあくびをする度に「なるほど。眠いですよね」なんてウインク通信を飛ばしてくる。

 これは日常に見える特別な日なのだと思うと、キョウカはなんだかくすぐったい気持ちになった。教室で授業を聞く当たり前の日常が、今日だけは特別なのだ。


 レネの話す夢物語みたいな特別授業も上の空で、キョウカはふわふわと宇宙を漂うみたいに過ごしていたのだが、それもつかの間。


證大寺しょうだいじさん。放課後、必ず進路指導室に来てください。大事なお話があります」


 得居の一言で、キョウカは一気に現実に帰還させられた。


 ○


 しぶしぶ進路指導室に顔を出すキョウカ。部屋の名前が証明している通り「何の話ですか?」なんてとぼけても無駄なことは分かっていた。


 ――この流れ。ちょうど1年前もこんな感じだったな……。


「レネさん。昨日は、お疲れさまでした」

「あら、キョウカちゃん。こんにちは。今日は流石に眠いわよね。フフフ」


 あの日と同じで、やっぱりここにレネがいる。しかし、あの日とは違い、今日はユキはいない。

 部屋に入るなり、得居は両手でキョウカの手を握るとブンブン振った。


證大寺しょうだいじさん! ローバーのアルバイトでも大変活躍され、昨夜は無事に竹戸瀬たけとせ先生のデータも取り戻すことができました。本当に、頑張りましたね!」

「あ、ありがとうございます」


 キョウカは手を握られたまま、深々とお辞儀をした。レネもたまらず声をかける。


「キョウカちゃん。本当にありがとう。理科部のみんなが手伝ってくれなかったら、取り戻すことはできなかったと思うの」

「レネさんにそう言ってもらえてよかったです。ほら、私なんかよりもユキくんとか羽合はわい先輩のほうが何倍も……」

「そんなこと無い! キョウカちゃんが、最後の最後まで可能性を捨てず、粘ったから、取り戻せた。本当にそう思ってるのよ」

「フフ。やっぱり、優柔不断って月だと役に立つんですね。アハハハ」


 確かに量子データは地球に取り戻すことができた。しかし、それをレネの脳に戻す方法は依然として不明のままだ。地球から38万キロ離れた月面にあるか、研究所の地下5階にあるか、実はそれぐらいの違いしか無い。

 でも、彼女にとっては、それで充分だった。月なんていう特別な場所ではなく、日常の中にデータを置いておけることが、何よりも心の支えになった。

 彼女はこれから量子治療の分野の研究も進めるそうだ。まだ知られていない脳内の現象を調べたり、それを脳の病気の治療に活かすという、新しい分野だという。ワクワクしているのが、説明する表情から伝わってくる。


「それで、證大寺さん。今日お呼びしたのは、進路調査票。3年生になったのに、まだ提出されてないようですが?」

「え?! あ……すみません。2択までは行ってるんですけど、考え中でして……」

「なるほど。月でご活躍なさるのは素晴らしいことですが、地球のほうでも頑張っていただかないと。ほら、クラスメイトの水城みずきくんはアメリカに――」

「えっ!?」

「あれ? ご本人から聞いてませんか? 彼、アメリカ留学が決まったんですよ?」


 この日以来、キョウカの日常は全て特別な日になってしまった。

 もう1日も無駄にできない。全部大切な日だ。

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