第26夜「子供と大人」(下)

 守衛の声は、レネや得居とくい、ましてやキョウカたちに向けられたものではなかった。後からゆっくりと近づく人影に振り返ると、キョウカは自分の目を疑った。


「お、お父さん!?」

證大寺しょうだいじ先生!」


 レネも思わず叫んだ。街灯に照らされたノベルの隣には、カサネと情報収集班の2年生も一緒だ。ノベルの顔を見た途端、守衛は顔を緩ませた。


「こんな遅くにどうしましたか?」

「――ああ、今日は娘の友人を招いた皆既月食の観測会でね。SSHの」

「ああ、そうでしたか。……あ! もしかして、土下座の彼も?」


 守衛の視線を追いかけ、ノベルは頭を地面につけたままのスバルを見た。 


「ハハハ。彼は望遠鏡を準備してくれた、うちの学生ですよ」


 メガネを触りながら答えるノベルの顔を、キョウカはじろじろと見つめた。


(嘘つくときのクセ、誰かさんと同じだな。フフッ……)


 守衛は何の疑いも持たず、むしろ恐縮した様子で「そうでしたか! それは大変失礼しました」と一行をゲートに案内した。

 ようやく頭を上げ、申し訳無さそうにノベルに会釈するスバル。守衛は「今夜は子供は入場無料だよ! さぁ、入った入った。ハハハ……」と冗談を言いながら肩を強く叩いた。


 大きく欠けた満月が、電気の消えた本館ビルと人工庭園を静かに照らしている。真空のような静寂に、ゲートが閉まる「ドーン」という鈍い音だけが響く。その音を合図に、15人全員同時に本館へと走り出した。

 流れる汗も乱れる髪もそのままに、大人も子供も、みんな息を切らせてひたすら走る。月を目指す38万キロの徒競走。真っ暗な研究所キャンパスに、細く伸びた影が作るセパレートレーン。

 大人も子供も関係ない。全員が同じスタートライン、全員が同じゴール。みんな子供で、みんな大人だ。


 スバルはハアハア言いながらキョウカに並走すると「にっ」と八重歯を見せイタズラっぽく微笑みかけた。


「ハァ、羽合はわい先輩! やっと会えた! ハァ……望遠鏡っ……どこですか?」

「――屋上! ハァ……1.5メートル望遠鏡!」

「えっ!?」

「話は……後で! 急ごう!」


 ○


 ――研究所の屋上に、望遠鏡があったなんて!


 しかも1つ2つではない。本館の屋上には見本市のように幾つもの天文ドームが並んでいた。スバルの解説では、3台の光学望遠鏡――75センチ望遠鏡、1メートル望遠鏡、そして目の前にある1.5メートル望遠鏡――に加えて、宇宙天気予報に使う太陽フレア望遠鏡に電波望遠鏡まであるらしい。


 月ノ波高校ツキコウ自慢の50センチ望遠鏡は、少し離れた場所に見える銀色の真新しい天文ドームに収められているとのことだ。


「羽合先輩。もしかして、前に言っていた〈遠隔操作システム〉って、このことだったんですか?」

「ピンポーン。大正解! ほら、オンライン天文台がいいよってキョウカ言ってたよね? 去年の春にさ」


 これは理科棟屋上の望遠鏡をすぐ階下の理科室から制御するちっぽけなシステムではなかった。インターネットに繋がれたこの望遠鏡で、世界中の人が研究所の夜空にアクセスできるのだ。

 何もこのタイミングで移設しなくてもいいのにと思いながら、キョウカはスバルの楽しそうな表情を眺めた。


「今夜はね、これで星をんだ。急ごしらえだけどね」

「えっ!?」

「ほら、見てて!」


 スバルの合図で、星を見るはずの望遠鏡オレンジ色のレーザー光線が空に向けて放たれる。花火の炎色反応と同じ、ナトリウムの色だ。

 レーザーガイド星補償光学――レーザーにより上空100キロメートルに人工の星〈ガイド星〉を作り出し、それを観測することで空気ゆらぎの影響を調べられる。この情報は画像補正に使われるほか、今回のようにレーザー通信の品質向上にも役に立つそうだ。


 月へと伸びるオレンジ色の線を愛おしそうに指で確かめるキョウカの後から、カサネがそっと声をかけた。


「キョウカ、黙っててごめんね」

「カサネ! 理科室に来なかったから、心配してたんだよ!」


 思わず抱きつくキョウカ。肩の少し上で切りそろえた長めのボブが舞い、カサネの細い首がのぞく。以前彼女がしてくれたように、今度はキョウカがバンバンと背中を叩く。


「だから、ごめん、ってば。――羽合はわい先輩の計算で理科部ウチの望遠鏡だと通信速度が出ないって分かって、すぐキョウカのお父さんに相談したら、研究所のを使わせてもらえることになってさ」

「そうだったの!? もっと早く言ってくれればよかったのに!」

「ハハハ。ゴメンゴメン」


 カサネたち情報収集班は、3年前の実験失敗についての報告書を見つけたようだ。すぐに報告書の著者であるノベルに相談すると、予定していたレーザーは研究所の望遠鏡で受信すると、その日のうちに決定したという。


「もう! 大変だったんだよ! 今日は3択が出てさ……」

「ハッハッハ。さっき水城くんに聞いたよ。やっぱり、優柔不断は役に立つじゃん!」

「アハハ。そうだね。カサネの言うとおりだった。アハハ……」


 冷たい夜風に追われるようにキョウカが大きな天文ドームの中に入ると、機器の準備は全て整っているようだった。制御装置も検出器ディテクターも全部電源が入り、制御モーターも充分に暖機運転ウォームアップされている様子だ。

 ドームの真ん中にある大きな反射望遠鏡は、全開の天窓越しに皆既まであと僅かの細身の月をじぃっと睨んでいた。キョロキョロと様子を窺っていたレネは、ノベルが入ってきたのに気づくとそっと話しかけた。


「證大寺先生――どうして?」

「驚かせてすまなかったね。量子データの受信を研究所で実験するなんて言ったら、君を動揺させると思ったからね」


 ここは彼女がデータを失った場所でもあり、取り戻す実験に失敗場所でもある。レネは大きな望遠鏡の前で目を閉じて深呼吸すると、凛とした表情で「先生!」と語気を強めてもう一度ノベルを呼んだ。


「私だってもうセンセイなんですよ。まだ半人前ですけどね……。いつまでも先生の研究室の学生じゃないんです!」

「うん?」

「今夜でもうしてくださいね。……フフッ」


 レネはその艶めく長い髪を一本にまとめると、怖いもの知らずの高校生みたいな目をして天文ドームを後にした。呆気にとられるノベルを横目に、キョウカは「ポニーテールも可愛いですねー。ほら、私たち姉妹みたい?」とすぐ後に続いた。


 天文ドーム脇に置かれた窓付きの大きなコンテナハウスに一同が集まると、ラップトップを広げたユキが「量子データのほうは準備OKです。ベル測定プログラムの実行待機中」と告げる。

 皆既まで、あと10分。満月はもう見る影もないほどに侵食され、三日月よりも薄いほんの僅かな部分で必死に輝きを保っていた。

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