第26夜「子供と大人」

第26夜「子供と大人」(上)

 理科棟の屋上には、4月だというのに冷たい夜風が吹きつけていた。キョウカが5メートルも歩くと「ぜんざい食べたいな……」なんて思うほどだ。

 思えば、天文ドーム〈瑛璃庵えいりあん〉を訪れて北斗七星を眺めた去年の春も、こんな冷たい風が吹いていた。


 ――羽合はわい先輩。私、今はけっこう星に興味ありますよ。


 キョウカが空を見上げると、月は半分ほどまで欠けていた。でも、ただの上弦の月とは明らかに違う。深く弧を描く黒い影にむしばまれ、怪物に噛みちぎられたような形相で夜空にじっとしていた。


「ああ……もうあんなに欠けてる! 時間がない!」


 キョウカは急いで天文ドームに駆け寄るとノックの返事も待たずに銀色の入口ドアを開けた。

 しかし、天文ドームの中は静寂に包まれて、望遠鏡のモーター音ひとつ聞こえない。制御用PCのモニターさえ消えている。


(あれっ!? 上窓が開いてない! なんで?)


 キョウカは手元の懐中電灯をつけ足元を赤い光で照らすと、少し先に見える鈍く光る架台にむかって恐る恐る「羽合せんぱーい? いますかー?」と声をかけた。しかし、返事はない。

 暗闇に目が慣れ、見上げた光景にキョウカは悲鳴を上げた。


「きゃあああああああっ! なんで!? どうして!?」


 架台の上に、あるはずの鏡筒が無いのだ。


 ――なんで!? 誰が!? どうして??


 キョウカはがっくりと膝をついた。

 どう考えてもおしまいだ。望遠鏡がなければレーザーは受信できず、レネのデータは地球に帰って来られない。これでは月面ローバーが何台あってもどうしようもない。量子コンピューターだって、なにも手出しできない。


 キョウカは「ユキくん……レネさん……ああ、ああうぅ」と声にならない声を漏らしてペタリと座り込んでしまった。首元に下がるとんぼ玉を思わず握りしめたとき、ポケットのスマホがメール着信を知らせる。


(羽合先輩?)


〈情報通信研究所に今すぐ来て!〉と謎のメッセージ。つぎに〈今日はスカートはダメだよ〉〈髪型はお団子は不可〉が届くのかな、なんてキョウカが思っていると、アヤが息を切らせてドームに駆け込んできた。


「キョウカちゃん。急いで! 研究所!」


 アヤにも同じメールが届いているようだ。通信の研究所に天体望遠鏡なんて無いはずだが、このまま学校にいても仕方ないのも事実。

 キョウカがスマホの時計を見ると、もう少しで23時といった頃だった。頑張って走れば研究所までは30分。皆既始めは23時39分のはずだから、ギリギリだ。

 優柔不断の出る幕はない。だって「行く」の1択しかないからね。


「うん。すぐ行く!」


 革靴が脱げそうになりながら、慌てて階段を降りると、正門前に得居が乗り付けた赤いSUVが待っていた。さあ、時間がない。

 魔法が解ける前に、月まで連れてって、なんて思いながらキョウカが乗り込むと、車内にはローバー班の女子2人と計算機班の男子3人、そしてレネが助手席に座っていた。

 この日のために用意されたような8人乗り。アヤとショーコが「後で向かう!」と手をふる。まるでシンデレラ城の前で待つかぼちゃの馬車だ。運転席の得居はおもむろ振り返り、こう呟いた。


「前に言いましたよね? 私、魔法使いになりたかったって」


 数学の証明にはじき出されたような最短ルートで、車は研究所へ急いだ。


 ○


 車を降りて研究所の正門へ急ぐ一同を、異様な光景が出迎えた。若い男と守衛が口論の真っ最中だ。こんな夜更けに、一体何を揉めているのか?


「だ・か・ら! 量子通信のロマンがわからないかなぁ……」

「だ・か・ら? 望遠鏡なんて、どこにあるんですか!? ウチは研究所ですよ?」

「違うんだよ! 望遠鏡じゃなくて、レーザーなの、レーザー!」

「違いません! ではあなたがお持ちの望遠鏡を使うのではだめなんですか?」

「いやいや。それがここにあるんです。昨日も来たんだからさぁ、守衛さん――」


 腰に手をやり「ハァ……」とため息をつく若者の顔を見て、キョウカは声を失った。

 パーカー姿で小学生のようにごねる青年の正体は、なんとスバルだった。透き通った低い声で繰り広げられる子供じみた口論は、どこかで聞いた覚えがある。

 彼の隣でおろおろしている2人の女子高生も、よく見ると受信班の2年生だった。


「とにかく、夜間入構許可書がなければダメです。明日の昼、また来てくださいね」

「月が隠れてる今じゃなきゃダメなんです。ああ、ほら。身分証ありますから。ね、お願いします」


 制帽の向きを直し「キミさぁ、狼男か何かなの……?」とぶつぶつ言って守衛所に戻ろうとすると、スバルはスマホの画面を突き出した。それをチラリと一瞥いちべつすると、彼はスバルの目を見た。


「――キミ、大学生?」

「はい」

「それなら、そろそろ大人の世界のルールに従ったほうが良いんじゃないですか? 許可証が必要ななんですよ。わかるでしょう?」


 キョウカが「はっ、羽合はわい先輩?」と声をかけたのと同時くらいに、スバルはアスファルトの地面に膝をついて頭を下げた。


「――どうかお願いします! 今日しか、今夜しかないんです!」

「ちょっと……キミっ」

「子供じみてるって分かってます。でも、子供のうちに、月が欠けてるうちに、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんです! 守衛さんだって、子供だったこと、あるでしょう? だから、子供の作り話だと笑って、ここを通してくれませんか?」


 額を地面につけたままのスバルの肩を優しく叩くと、守衛は大きく息を吐き「そう言われてもね……」と困った顔をした。そうして、しばらくスバルの背中を見つめた後、何かに驚いた様子で視線をキョウカたちに向け、彼は呟いた。


「ああ! センセイじゃないですか……」


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