月夜の理科部

第25夜「手と手」（下）

　予定通り21時にメンバーが集まると、いつもの物理実験室はすぐさま熱気に包まれた。理科棟３階だけに明かりが灯り、灰色の校庭を灯台のように照らしていた。

　キョウカが窓を開けると大きな満月が微笑みかけるように輝き、ひんやり夜風がブラウスごしに腕をくすぐる。遠くに見える桜並木は満開で、寒そうに身を寄せ合っている。

　いつもの夜風、いつもの風景。でも、今夜は、冷たいぐらいが丁度いい。

　――さぁ、理科部の実験（たたかい）を始めよう。

　片肘張らなくて、大丈夫。きっと必要なものはぜんぶ理科室（ここ）にある。

　夢も希望も、挫折も不安も。

　月も地球も、表も裏も、優柔不断にぜんぶ持ち込んで、いつものように、らしくやればいい。

　スバルを含む受信班３人は理科室には現れず、屋上の天文ドームに直行したようだ。遠隔操作システムの導入で望遠鏡は理科室からでも制御できるというのに、やはり手元で動かさないと心配なのだろう。代わりに、ショーコがおやつをたくさん抱えて応援に駆けつけてくれた。

　ローバー班、計算機班、追跡班が実験テーブルに別れ準備を進める。アヤは頃合いを見計らって、それぞれ順に声をかけていく。

「月食開始は22時26分。地下洞窟内の放射線レベルが下がったらキョウカちゃんのローバーは作業開始」

「うん。分かった」

　キョウカはローバー班の２人と「うん」と目で合図すると、窓際で一人ぽつんと夜風に当たるレネを見つめた。窓の外の大きな満月を前にして見る彼女は、目を潤ませたかぐや姫そのものに見えた。

「その頃には、月面望遠鏡もスタンバイお願いします。聞いてます？　スバルくん――あ、羽合（はわい）先輩？」

　アヤの視線の先には受信班の実験テーブルに置かれたタブレット。そこから、スバルの声だけ聞こえてくる。

「オーケー、アーちゃん。皆既中も地球照（しょう）で月面は見えてるから、大丈夫」

　アヤは次から次に首尾よく声をかけていく。

「皆既は23時39分から。通信衛星からのレーザーを待って水城（みずき）くんはベル測定プログラムを実行。削除プログラムが実行される０時までに転送を完了してください」

「ＯＫ！」

「得居（とくい）先生。追跡は大丈夫ですか？」

「羽合（はわい）くんと打ち合わせ済みです。あ、検算も３人で３回やったので間違いないですよ」

　アヤは理科室に居る全員の表情を確かめるようにゆっくりと１人ずつ眺めていった。皆自信に満ちた表情でアヤと目を合わせ、誰一人として下をうつむいている者はいない。アヤはチャームポイントの２つ結びを大きく揺らし「みなさん、よろしくおねがいします！」と深々とお辞儀した。

　すぐに各班の点呼が始まる。キョウカの作業から始まるので、今日はローバー班が最初だ。

「ローバー班」

「ＧＯだよ。さあ、月に行こう！」

「計算機班」

「ＧＯです。霜連（しもつれ）さん」

「追跡班」

「ＧＯです」

「受信班」

「ＧＯだよ！　アーちゃん」

　ショーコはすーっと歩いていってレネの隣に座ると、そっと肩をたたいて微笑みかけた。レネは神妙な面持ちでコクリと頷き、手元のラップトップで月面ローバーの遠隔操縦システムにアクセスした。

「――キョウカちゃん、理科部のみなさん。お願いします」

　彼女の言葉を聞き、キョウカは背中に氷でも入れられたみたいにゾクッとした。今夜は優柔不断との最後の戦いでもある。負ければレネのデータを永遠に失うことになる。

　レネさんのためにも、ユキくんのためにも、理科部のためにも。今日は、今日だけは失敗できない。優柔不断しちゃだめなんだ――。そう強く思いながらキョウカは首元のとんぼ玉を握りしめ、すぐ後にいるユキを振り返った。

　彼はキョウカの目を見ると「いつもどおりね」と優しく微笑んだ。ウインクなんてして自分が一番いつもどおりじゃないじゃん、とキョウカも自然と笑顔になった。

　手をつないだとき、彼の手も震えていたことにキョウカは気付いていた。計算機みたいに平然と振る舞う彼だって、不安を必至で隠そうとしているのだ。

　キョウカはＶＲゴーグルをかけながら静かに頷（うなず）き、おそるおそるコントローラーを手にとった。

　――今夜が最後だね。いい子だから、言うこと聞いてね。

「９番コンテナ」

　キョウカは祈るような声でローバーに指示を出す。音声入力もこれで最後かと思うと感慨深い。ローバーは無感情に〈受信〉のサインを画面に返し、しばらく間があった後で移動を開始した。

　コンテナに擦（こす）りでもしたら嫌なので、低速で移動させたいキョウカだったが、そんなことはお構いなしに、ローバーはプログラム通りのスピードで地下通路を駆け抜ける。

　ＡＩ制御のロボットアームがコンテナ扉を危なげなく開けると、サーバーラックが姿を現す。緑色ＬＥＤの点滅が眩しい。筐体もシミュレーターで見たプラスチック製と異なり、実物は艶ありブラックで、なんだか漆器の重箱みたいだ。

　キョウカが〈火鼠（ひねずみ）の皮衣（かわぎぬ）〉の課題で作った解析プログラムを実行すると、すぐに結果が表示される。

「……５番と……13番。あれ――49番スロットも!?」

　――なんてことだ!!

　番号がリハーサルと違うのは想定内。でも、３つ反応が出るのは誰も予想していなかった。ロボットアームは２本しかない。１番コンテナとの間を往復している時間はなさそうだ。

　１番コンテナに持っていかないブレードを決めなければいけない。「こういうときは２択じゃなくて３択なの」と言うカサネの顔が思い出される。

「どうしよう、３択だよ！」

　――どうする？

　ローバーのＡＩはリハーサル通り判断を停止した。キョウカの優柔不断だけが３択を追い詰めようと、ぎりぎりと思考を続ける。

　しかし、時間は無情にもどんどん過ぎていく。理科室で１秒進むとき、月面でも同じ１秒が流れる。キョウカの優柔不断は38万キロ彼方の月の上で、時計の針を容赦なく進めているのだ。

　――どうすればいい？

　どれを選んでも、誰に聞いてもダメな気がしたキョウカはひとり目を閉じ、思いを巡らせる。レネは「それでいいよ」と賛同してくれるだろうか？　後から「あ、言い忘れてたけど」なんて言わないだろうか？

　――ユキくんは私が選んだものに「どれでもいいよ」って笑ってくれる気がする。

「キョウカさん。おまたせ！」

　後方からローバーの接近警報。

「えっ!?　どういうこと？」

　ユキのローバーだ！

　お互いにＶＲゴーグルをつけていて、彼の表情はもちろん見えなかったが、優しく微笑む彼の顔が目に浮かんだ。

「――選べないよね？　３つ全部持っていこう？」

　ローバー１台がギリギリ通れる狭い地下通路。すれ違うことはできない。

　キョウカのローバーがシミュレーターで何度も訓練した通りブレードを１枚抜く。ユキのローバーに渡したいが、ブレードの把持（はじ）部分はとても小さい。キョウカはアルミ合金の指どうしをミリの精度で避けながら、ユキのロボットアームと手をつなぐようにして慎重にブレードを受け渡す。

　――さっき、練習しておいてよかったね。

「さあ、行くよ？」

　月神社（つきじんじゃ）にお参りしたときの目を閉じた横顔。今はＶＲゴーグルで見えないけど、確かに見えた気がした。

　ウサギも神様も居ない月の地下洞窟で、コンテナ神殿から姿を現す御神体のような３枚のブレードが鈍く光る。

　後退するユキのローバーに、キョウカも続く。１番コンテナまでもう少し。洞窟デートの記念に、自撮り写真撮ればよかったな、なんてキョウカにはちょっと余裕も出てきた。ちょうどアームが１本、余っている。

　しかし、今度は理科室で問題が発生した。　

「望遠鏡の準備、どうですか？」

「……」

「スバルくん！　望遠鏡の準備、どうですか？」

「……」

　アヤの声に、スバルの「オーケー」がいつまでも聞こえない。こんな時も〈困ったときのローバー班〉だ。

「私、〈瑛璃庵（えいりあん）〉見てきます！」

　ブレードの緑色ＬＥＤの再点滅を確認したキョウカは、急いでゴーグルを外し、息つくひまもなく理科室を飛び出した。