第21夜「表と裏」(下)
3月初旬、大学受験を成功裏に終わらせたスバルは、約束通りキョウカを梅まつりに誘った。街の中心にある小さな湖に南面する、陽当たりのいい梅園である。
春の訪れを告げる満開の梅。淡い色で小さく咲く梅は、桜に比べてどこか頼りなさそうで、キョウカはなんだか自分を見ているような気になった。
「どうしたの? 悩みごと?」
心配そうに覗き込むスバルの無邪気な優しさが、今日はどうにも眩しすぎた。穏やかな春の陽気にウグイスの声。ほんのり漂う甘酸っぱい梅の香りにウキウキ気分のはずが、浮かない顔のキョウカ。
「あの先輩……」
「?」
「……あ……いや、なんでもないです」
それもそのはず「
月からのデータ奪還に、望遠鏡が何の役に立つのか正直よく分からない。しかし、ローバーによる侵入作戦が不可能と分かり、もはや月面望遠鏡ぐらいしか月との繋がりを感じられるものは残されていなかった。
皮肉なことに、その頼みの綱の月面望遠鏡こそが、結局はレネのデータに引導を渡す運命にあった。もちろん、スバルから
データがサーバーから追い出される4月25日が、刻一刻と迫っていた。12月の太陽嵐のせいで安否不明になったデータが心配だ。
――もう、これ以上優柔不断してたら取り返しがつかないことになる。
キョウカの脳裏に〈手遅れ〉という言葉が何度も何度もよぎった。彼女はその度にブンブンと頭を振り「そんなわけない!」と目を背けてきた。でも、そうやって自分に嘘をつくのも、もう限界にきていた。
「今日こそ言わなきゃ」の『今日』は何回もやってきたが、本当に今こそがその『今日』だった。
いまさら望遠鏡を返せなんて伝えたら、先輩は何と言うだろう――。スバルが失望して、もうあの笑顔を自分に向けてくれなくなることが、キョウカはたまらなく怖かった。
しかしよく考えると、キョウカの目の前にあるのは、単純な2択だった。スバルをとるか、ユキをとるか。自分が可愛いか、レネに尽くすか。表の顔で取り繕うか、裏の顔でありのままか。
2人は丘の中程にある開けた場所に出た。茶店の前に並ぶ真っ赤な
その向こうに見えるひときわ背の高い研究所の本館に、キョウカは「ゴメンね」と別れを告げ、覚悟を決めた。
――決断の時は来た。白黒、いや、表裏ハッキリさせよう。
「……あの、先輩……」
「……?」
決断はキスの形をしている。これはカサネの言葉である。
静かに目を閉じるキョウカは「本当の私を見たら、きっと軽蔑するよね」なんて思いながら、ユキとレネに謝った。
――ゴメン、ユキくん。ゴメン、レネさん。優柔不断も、これで終わりにするね。
小刻みに震えるキョウカの肩に「大丈夫?」と優しく触れるスバル。
「あの、あの……。ごめんなさい。私、初めてで……」
「フフフ。キョウカはいつも俺に謝ってばかりだね」
「?」
「謝ることなんて、ひとつもないんだよ」
目をあけキョトンとした表情のキョウカ。しおらしく髪を耳にかけると、スバルが首元を指差す。いつもの、少年みたいな瞳にキョウカは吸い込まれそうになる。
「今日は可愛いチョーカーしてるね」
「……? あ、これ? お守りなんです」
――忘れてた! ユキくんのとんぼ玉! 月……には見えないよね。
月の模様に何を見るかは、人それぞれだ。うさぎ、おばあさん、かに、わに、ろば。カエルなんて人もいる。
こんなふうに違って見えるのは、月を見ていないからだ。ありのままの月を見ようとせず、自分が見たいものを月の模様に見出そうとするのだ。これはつまり、月面に投影した自分を見ているに過ぎない。
月を見ている人は皆、月を見ていない。38万キロメートル彼方の鏡で、自分自身を眺めているのだ。
月は心を映す鏡だ――。そう気付いたとき、キョウカの世界のすべてが裏返った。
スバルのことを見てるようなつもりで、彼女は彼の目に映る自分自身ばかりを見ていたのだ。彼は星ばかり見ているような顔して、実際そのとおりなのだが、ちゃんとキョウカのことを見てくれていたというのに。
「あの、先輩……ごめんなさい」
「フフフ。もういいって、謝らなくてさ」
「あっ……」
「ほんとうに大丈夫だよ。全部、そのままで。キョウカは、自分の気持ちに素直になりたいだけなんだよね?」
世界は沢山の2択から
1つ決断すると次の2択が出てくる。それを決断すると、また次だ。こうして2択が増えるたびに爆発的に大きくなっていく可能性の宇宙を、優柔不断の糸が丁寧に編んでゆく。
「キョウカの優柔不断はさ、優しさなんだよ。この宇宙に対する」
「えっ?」
「ありえたはずの宇宙を、全部抱え込んでる」
今立っている世界は、自分が選んだ世界だ。でも、選ばれなかった世界も、常に気にしている。それこそが、優柔不断の優しさなのだった。
キョウカは胸の中でふつふつと沸き上がる感情に、もう嘘をつくまいと決めた。
「ほら! 顔を上げて。謝らなきゃなんないのは、俺なんだよ。最初から、俺の片思いだったのに、キョウカは優しいからさぁ」
「先輩……」
――傷つけたくない、傷つけてはいけない人まで、傷つけてしまった。
「目、閉じて?」
「え?」
ここでキス? なんて思った刹那、優しく握られるキョウカの手に「はい、これ」と渡されるミルク色。月面望遠鏡の利用サイトのトークンだ。
「観測時間と座標、セットしてある。
「えっ!? どっ、どういうことですか?」
「さあ急ぎな! 大丈夫。きっとまだ間に合うよ!」
スバルは優しく微笑み、キョウカの肩を叩いた。
梅まつりのときだけの臨時駅――。
今日のために用意されたような特急がホームに滑り込む。駆け込むキョウカ。
2択で選ばれなかった無数の宇宙が「がんばりな」なんて背中を押してくれているみたいに、彼女の世界の全てが動き始めた。
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