第21夜「表と裏」
第21夜「表と裏」(上)
――キレイ。でもやっぱり、月はピクニック向きじゃないけどね……。
太陽の光が月面の砂に反射して眩しい。キョウカはライトグレーの砂丘に立ち、眼下の月面基地を眺めた。空はただひたすらに漆黒で、今日は地球は出ていなかった。それはたぶん、今が満月だからだ。
キョウカはつい、隣にいるはずのないユキに声をかけた。
「ユキくん? そっちは、どう?」
ゴーグルをつけた首を振ってローバーのカメラをキョロキョロしてみるが、当然、隣にユキのローバーはいない。今日、月にはキョウカ1人だ。
もちろん、これはシミュレータである。時刻は4月25日深夜に設定され、周囲の天体の位置などが正確にセットされている。これは、レネのデータを救うラストチャンスとなる皆既月食の日だ。キョウカは、シミュレータを使って予行練習をしようというのだ。
キョウカには考えがあった。
カサネに相談した〈松プラン〉である。ローバーで月面基地のサーバールームに侵入、データを抜き出し、地球に持ち帰る。
――ミッション・インポッシブル。
キョウカは、あの日、研究所のカフェで飲んだ紅茶の味とユキの顔を思い出し、このスパイのような作戦を思いついた。無理は百も承知だ。でも「もしかしたら」なんて可能性に賭けて、夜の理科室にひとり足を運んだのだった。
月面ローバーの操作は、もう慣れたものである。通信タイムラグもなんのその。ローバーの正確な移動や、ロボットアームを巧みに操って細かな作業もできる。もちろん、我が子のように可愛がってきた制御AIがインストールされ、ほとんどの場合、音声指示ひとつで自律的に動く。
レネが出した5つの課題がヒントになっていることは、キョウカもなんとなく気づいていた。
月面基地でユキとかくれんぼをした、ある夜を思い出す――。
うっかり迷い込んだ洞窟のような場所で、キョウカはサーバールームの扉を発見した。そしてローバーと扉との間の通信ログをユキに見せたところ、扉がパスワード代わりにクロスワードパズルを出題していることが判明したのだ。ローバーのAIがそれに正解できれば、解錠される仕掛けなのだろう。カギを使ってパズルを解くAIの知能が、まさに扉の鍵になっているのである。
――これはきっと何かある!
キョウカは直感した。クロスワードパズルといえば、レネの課題4〈
とにかくもう一度あの場所に行ってみようと思い立ち、1人ここに来たというわけだ。
キョウカの駆るローバーは勢いよく砂の斜面を滑り降り、管理棟脇のローバー用ゲートに駆け込んだ。動作ログからは何故かあの場所の情報が削除されていたけれど、行き方は覚えている。もう、通信タイムラグのせいで衝突させたりもしない。
大型エレベータで地下に向かう。基地といっても建築と呼べるものは月面に見えている部分だけで、地下のほとんどは手つかずの自然洞窟である。エレベータだって、単に鉱山の
自然の
目の前に手掘りの坑道のような地下通路が現れる。大丈夫、ここは月面だ。毒虫も吸血コウモリも、ぜったい出ない。キョウカは至って冷静にローバーのライトをONにして、辺りの様子を
ここは、太陽からの放射線も地球からの電波も届かない、月の地下洞窟。別の異世界の入口みたいな黒々とした洞穴には、アルミ格子がはめられている。
その奥に、サーバーが収められたコンテナが並ぶ。
よく訓練されたキョウカのAIは、クロスワードパズルを難なくクリア。銀色の格子扉が音もなく開く。ローバーに「9番コンテナ」と指示するキョウカの頭の中では、ベートーヴェンの「第九」が流れ始める。
ローバーが洞窟をスキャンすると、程なくして目当てのコンテナが見つかる。
あとは〈
「ダメですよ!!」
急に誰かに声をかけられ、キョウカは慌てて振り返った。ローバーは異常な入力を検知し、カメラ位置を変えない。軽くめまいがして「あっ、そうか」と気付いたキョウカは、VRゴーグルを外した。
「量子データなんでしょう? ローバーで読み込んではだめです!」
「え?」
声を荒げているのは顧問の
「
「え? 先生、なんでご存知なんですか?」
「
「カサネ……」
外したVRゴーグルをキョウカが実験台に置くと、彼女は数学教師らしく前提条件からゆっくり話し始めた。これから定理の証明に取り掛かるかのように、少し興奮気味に。
「まず、普通のデータは、コインの表裏だと思ってください」
彼女の解説によると、こうだ。
通常、私たちが〈データ〉と呼ぶものは全て、0と1の数字の列として記録されている。パソコンでも、スマホでも。そして、大量の0と1は、コインの裏表や、磁石のN極S極として保存されている。もちろん、スマホの中に極微のコインが並んでいるわけではない。
0と1という抽象的な情報も、必ずコインの裏表のような物理的な実体として保存されている、という意味だ。
「〈量子データ〉はクルクルと回転するコインに記録されているようなものなんです。0か1か、はっきりせず……」
「わぁ、面白いですね。優柔不断?」
「ふふふ。そうかも知れませんね。――さて、重要なのはここからです」
得居は「あちち」と言いながらジャージのポケットからおしるこ缶を取り出し、笑顔でキョウカに渡した。
「実は、量子データは回転そのものに書き込まれています。でも、普通の方法で読み込むと、回転が止まり、データは壊れてしまうんですよ。分かりますか?」
「うん、と……?」
「数学では
得居は申し訳無さそうにショートヘアのうしろ頭をポリポリとかいた。データを読む話と回転するコインを観る話が、どうしてもつながらない。
すると、何か思いついた顔で自分の分のおしるこ缶を取り出す得居。それをスマホのライトにかざすと、机に映された影を指差した。
「影を見てください。どんな形をしてますか?」
「丸、ですね」
「そうですよね。では、こちらはどうですか?」
「――これも、丸ですね」
「はい」
キョウカは不思議に思い彼女の手元に目を移した。したり顔の彼女が手にしていたのは缶ではなく、似たような大きさのボールだった。
「……あ!」
「そういうことです。影だけじゃ、もとの立体は分かりませんよね? 情報が落ちてしまっているからです。丸い影を落とす立体は、円柱、球、円錐などいくらでもあります。ワイングラスだって影は円です」
量子データの読み込みも同じで、影だけを見るような操作なのだそうだ。そのため、元の立体の全情報を得ることができない。しかも、もっと厄介なことに、この操作のせいで立体は潰れてしまい、量子データの元の姿は永久に失われるという。
「立体の復元には立面図と平面図が必要です。中学で習いましたよね? でも〈量子データ〉では許されません。影を見るのは1回きり」
「え……」
「
証明、終わり。
答えはノーに決まってるのに、あえて疑問形で終わる数学者のナイーブさよ。
悪い状況をひっくり返そうとしたキョウカの〈松プラン〉は、あえなく根本からポッキリと折られてしまった。もう、何が表で、何が裏かも分からないくらいに。
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