第20夜「雪月花と松竹梅」

第20夜「雪月花と松竹梅」(上)

 夜空に月が見えると、自分は月にいないとよく分かる。


 そんな慣れ親しんだ夜の学校も、今日が最後かもしれない。


 きれいな雪原は跡形もなく消され、雪合戦の足跡だらけの校庭。受験対策の補習と職員室の明かり。遠くの桜並木は白い毛布にくるまり、教室の明かりを常夜灯にして静かに眠っている。

 誰にも出会えない校門にぽつり立つキョウカの頬は、冷たすぎる夜風で赤くなった。


 今朝、まだ誰も足を踏み入れていない白銀の校庭は、確かに月面みたいに見えたのに。いま目の前に広がっているのは、校門の外と同じ、地球の冬の、地球の景色。正門を抜けると、そこは雪国――でさえなかった。

 キョウカは少しだけ残念に思った。雪はあるのに、月と花が揃わない――。


 キョウカとカサネは校門で待ち合わせして、凍りはじめた雪をザクザクと踏み校庭を渡った。キョウカが明るくカサネの肩をたたく。


「わぁ、カサネ! 久しぶりだね!」

「キョウカ、何わけわかんないこといってんの。昼間も会ってるでしょ?」

「い、いや。夜の学校で会うのが、さ」

「フフっ。そうかもね。さあ、羽合はわい先輩、待ってるよ?」

「あー、カサネ。今日はいいの。ちょっと、カサネに相談したいことが、あって」


 月探検というよりは、南極越冬隊の気分だ。白い校庭の向こうにそびえ立つ理科棟りかとうも、今日はなんだか砕氷船みたいに見えた。いつもの3階理科室は、さしずめ艦橋といったところか。

 カサネは白い息を吐きながらニヤニヤと笑った。


「なになに。さては、恋の悩みだな? 『キスを迫られ、つい断ってしまいました。どうすればいいでしょうか』ってとこ?」

「ち、違うって……。もっと深刻なの!」

「……ははーん。さては、泣きに来たな。よーし分かった」


 カサネは物理実験室に着くなり「さあおいで」なんて言って両手を広げた。ケラケラ笑って少し長めのボブが揺れたぐらいの頃に、キョウカはむぎゅっと抱きついた。それをカサネは「おぉー、ヨシヨシ」なんて犬を撫でるみたいにして愛でた。


「何で、わかったの?」

「はっはっは。キョウカくん。AIの時代は終わったんだよ。これからはピューターだ!」

「ぷっ、ククク……。なにそれっ」


 2人の間での深刻な相談事は、必ず学食でということになっていた。これは〈木を隠すには森の中、話を隠すには話の中〉というカサネの持論による。キョウカの機微を嗅ぎ分けるカサネの勘は天下一品の鋭さだったが、今回は単に論理的に当然の帰結だった。

 だって、キョウカが学食ではなく理科室を選んだということは、もう「話」はないと言っているようなものだったから。

 

「――キョウカ。何があった?」

「あのさぁ……」


 キョウカはカサネの胸の中で、レネのデータのことを順を追って説明した。

 5年前の事故でレネの脳情報データの一部が、月面基地に転送されてしまったこと。そして、それは〈量子データ〉という特殊な形式でコピーができず、唯一無二のオリジナルデータが月に行ってしまったこと。データは壊れやすく、とくに太陽風を避けて地球に取り戻さないといけないこと。


「か、な、り、不思議な話だけど、信じるよ。――で、どうやって、取り戻すつもり?」

「わからない……。あ、3年前の元旦の皆既月食の日にね、お父さんとレネさんで取り戻そうしたらしいんだけど、失敗ちゃったんだって」

「そう。残念だったね。データ、大丈夫だったの? 壊れやすいんでしょ?」

「うん。、ね。サーバーは地下にあるし、自動で修正するプログラムも動いてるらしい」


 しかし、月面望遠鏡が観測を続けると、古い順にデータはサーバーから追い出されてしまう。レネの見積もりでは、レネのデータが消されるのは4月25日の深夜だということだ。

 カサネは腕の中に居たキョウカの肩を両手で挟むようにして引きはがし、ゆっくりとイスに座らせた。


「そう言えば、キョウカ、羽合はわい先輩に月面望遠鏡の観測時間マシンタイムあげたんだっけ?」

「うん。でも、レネさん、もうかなり〈諦めモード〉で……」

「?」

「4月25日なの、レネさんが先輩に譲った観測時間マシンタイム

「――ああ、そういうことか!」


 カサネは観測日とデータの消去日の一致のわけを、瞬時に理解した様子だ。それを見たキョウカは「レネさんはさ、やっぱ大人なんだよ」と言って、ポニーテールの先を指先でクルクルとした。思ったようにいかないときの、いつものクセだ。

 今度は唇を「つぅ」と尖らせ、キョウカは拗ねたような顔をしてみせる。


「私はさ、まだ子供なんだよ、きっと。だからこんなふうに夢みたいなことばっか言って、いつまでも諦めきれない……」

「? それでいいんだよ! 最後の一瞬まで、迷いに迷って、それがキョウカのいいとこじゃん?」


 キョウカは黙ってコクリと頷くと、窓ガラスに映る自分を見た。


 ――どうしたら、大人になれるんだろうね?


「私、初めてだったの」


 キョウカはカサネの目を見て、真剣な表情で言った。


「え? キョウカ?」

「先輩と。夢のような世界だった……」

「ちょっ。えっ!? え!? 何の話?」


 動揺を隠せないカサネ。あれ、何か勘違いしてる?


「オーロラ!」

「え? オーロラ?」

「初めてだったの」

「あ、ああ! そう。オーロラね。アハハハ。ちょっとキョウカ、びっくりさせないでよ! イブの夜だよね? ニュースで見たよ」

「知ってた? オーロラってね、太陽風のせいなんだって。私、そんなことも知らずに、ただ『キレイ』なんて浮かれてて……」


 ――どうしよう! 全部、私のせいだ!


 優柔不断でノロノロしてたせいだなんて、キョウカは責任を感じていた。こうなる前にユキや父にちゃんと相談すればよかったのかもしれないが、もはや後の祭りだ。クリスマスイブの朝に父が気にしてたのも、ただの天気予報ではなかった。太陽フレア爆発の発生を告げる天気予報だったのだ。


「それでね。月面基地のサーバーがダウンして……。それでね……」

「キョウカ?」

「データはもう、ぐちゃぐちゃで復旧できないかもって。うっく、ぅうう……」


 キョウカは黒い天板の実験テーブルに突っ伏し、メソメソと泣いた。すかさずカサネが背中をさする。今日は泣いて、泣いて、そして明日また立ち上がればいいとでも言うように、カサネの細い手がキョウカの背中を何度も撫でた。


「どうしよう……。どうしよう……」

「大丈夫。キョウカのせいじゃないよ!」

「だいじょばない! 私のせいだよ……」


 ――大切なユキくん。ユキくんの大切なレネさん。レネさんの大切なデータ。


 そんな大切の連鎖が月まで続いている。それなのに――いや、繋がっているから、データが消えれば破滅はキョウカに戻ってくる。全てが終わりだ。

 あの真っ赤なオーロラは、夢の世界の幕開けじゃなかった。終わりの始まりの合図だったのだ。


 レネは月の研究から去り、ユキは口もきいてくれなくなるだろう。

 夜の理科室でキョウカがコツコツと育んできたものも、きっと初めから何もなかったように全て失うことになるだろう。


 ――この寂しさを紛らわせるには……。


 なんて、自暴自棄になって破滅への道へ進むこともできないキョウカ。逃げることも、別の破滅を選ぶこともできず、優柔不断のブリザードの中で立ち往生するしかない。

 少し結露しはじめた窓のむこう側で、雪がしんしんと降っていた。


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