第17夜「データとプログラム」(下)
キョウカのモヤモヤとした疑問は一向に解消されないまま、レネは唐突に尋ねた。
「ね、来週の火曜日、何の日か知ってる?」
「え? 何ですかね……?」
「ノーベル賞の発表日。物理学賞」
そう言うと、レネはテーブルの向かい側に残された白いマグカップに手を伸ばし、キョウカの前に引き寄せた。キョウカは軽く会釈して、無言のまま両手で受け取る。ごくりと飲んだ今日のコーヒーは、なんだか特別苦く感じる。
「ああ! そういう時期なんですね」
「今年の春先にね。
「あれ、ホントだったんですか!? ……いえ、お父さん、科学の話になると妄想と現実の区別がなくなっちゃって」
スウェーデン王立科学アカデミー。ノーベル物理学賞や化学賞の選考を行う、千人以上の科学者を擁する大きな組織である。
「ノーベル賞の有力候補者の視察だったの。お忍びの」
「ウソ!? お父さん、候補者!?」
「そう」
ノーベル物理学賞の選考は、アカデミーに設置された委員会が指名する世界各地の科学者による推薦から始まる。推薦人は過去の受賞者のほか、有力な大学教授や企業の研究所長などが務めるが、原則非公開、他言無用である。
世界中から集められた数百人にも上るノーベル賞候補者は、4月頃には有力な20名ほどまで絞りこまれる。その際に、対象となる研究成果が、ほんとうにその候補者によって生み出されたものか、ほんとうに世界初か、などが厳しく問われる。
「そこでね、AIの不正利用についても、厳しくチェックされたの。先生も、共著者である私も」
「ええっ?」
ここ最近、データの
ノベルの研究室を訪れた調査団のリーダーは、この分野に明るいスウェーデン人の女性科学者であった。もちろん、彼女らとて手荒な真似はしたくない。しかし、厳しく調べるには訳があった。
それは、彼女らもまた、推薦理由とその正当性を親委員会に立証する義務があるからだった。ある種の、つらい中間管理職である。
「ま、厳しいのは、仕方ない。『それはAIが発見したことだ』なんて横やりが入ったら、ノーベル賞の歴史に傷がつくもの……」
「まぁ、そうですよね……」
一度、ノーベル賞として発表されてしまえば、取り返しはつかない。王立アカデミーの尊厳は地に落ちる。それだけは、なんとしても避けたいので、調査団を送ってまで厳しく検査するしかないのだった。
「まさか――」
キョウカが息を飲んでレネを見つめると、彼女はこくり、と
「私、パスできなかったの…… わぁあああ。私、なんてことをしてしまったんだろう。證大寺先生に、申し訳なくて……」
机に突っ伏して、レネは泣いた。
何を恥ずかしがることも無く、大声で。
キョウカは、大人の女性がここまで声を上げて泣くのを、生まれてはじめて見た。
「證大寺先生も……必死に、説明、してくれたんだけど……」
この調査をきっかけに、レネが最近有名雑誌に発表した論文は取り下げられた。そして、それを元にノベルが記したアメリカ行きの推薦状も無効になった。
結果として、レネが行くはずだったカリフォルニア工科大学から、着任を見合わせる旨の連絡が届いたのだった。
色々な思いがドミノ倒しのようにレネに押し寄せ、堰を切ったような
レネはなりふり構わず、ぐしゃぐしゃに泣いた。キョウカには慰めることも、解決の糸口を探すこともできない。
となりの席から彼女の肩を抱き、優しく背中をさすると、なよなよと頬をキョウカの胸に寄せ涙を流した。りんどう色のカーディガンのレネは、思っていたよりずっと華奢で、ふるえながら必至で歯を食いしばっていた。
小さな花びらみたいにハラハラと
「お、お父さんだって、レネさんを責めたりしないですよ」
「うん……」
「ほら。それに、月面ローバーのAI。お父さん褒めてましたよ。レネさんが作った、私たち2人のAIを組み合わせる戦略」
「……うん、うん。ありがとう。キョウカちゃん」
大人になるってことは、種から芽吹き、成長して花を咲かせることなんかじゃない。
きっと、「わーん」なんて泣かなくなるよう、ぴぴっとプログラムされるみたいなものなんだ。
そんなふうに、キョウカは思っていた。今日の今日まで。しかし、レネのぼろぼろの泣き顔を見て、それは違うということが、よくわかった。
泣かなくなるんじゃない、泣けなくなるんだ。きっと、大人は高校生より少しだけ長く生きた結果、データが少しだけ多く入力され、プログラムが少しだけ複雑になる。たった、それだけの違い――。
そう頭では分かっていても、キョウカは目の前で泣くレネを落ち着かせることしかできなかった。彼女が「ありがとう。もう大丈夫」なんて自分に言い聞かせたのを確認して、キョウカは無言で研究室を後にした。
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