第17夜「データとプログラム」

第17夜「データとプログラム」(上)

 土曜日の昼下がり、レネから突然入った〈大事な話がある。研究所に来て〉という謎めいたメールに従い、キョウカは情報通信研究所に急いだ。

 ここはキョウカの家から、駅と反対方向に自転車で15分程のところにある、国立研究所である。もともと田畑だった土地に県が誘致して、10年程前に東京から移転してきたのだ。


 辺りは住宅やホームセンター、ファミレスやファストファッションのチェーン店が並ぶ程度で、研究所の他に高い建物はない。ひときわ目を引く25階建ての研究本館はかなり遠くからでも見え、いつしか「研究所の通りをまっすぐに」とか「右手に研究所が見えたら方角は合ってる」などと道案内の定番になった。


 人工の池もある庭園風の緑豊かな研究所の正面広場。研究所のために立派な片道二車線の道路も敷かれ、直角に交わる道路だけで構成されるこの一角は、まるで未来都市のよう。特撮映画のロケにも使われたらしい。


 本館5階の〈證大寺しょうだいじ研究室〉と書かれた木札の下がる扉を、恐る恐るノックする。もちろん、家を出る時に、父がソファーでゴロ寝して本を読んでいたのは確認済み。今日は、研究所ここには100%居ないはずである。


「どうぞ」


 レネの声が聞こえる。彼女に指示されたとおりの部屋の扉を開けると、キョウカは暗い表情のレネを見つけた。整然とオフィス机が並ぶ部屋に足を踏み入れ、レネとテーブルを挟んで向かいの、木製の小ぶりなスツールに促されるまま腰掛けた。


「ここはね、私が院生のときに居た部屋なの」

「ああ、そうなんですね」


 キョウカの父・證大寺しょうだいじのべるは大学に研究室を構えるほか、この国立研究所にも籍を置いた。そして、證大寺研の大学院生の半数ほどは、与えられたテーマや必要とする装置に応じて、この研究所に来ては実験を進めていた。

 去年までは、レネもそのうちの1人だった。


「はい、これ。月面基地にデータを送る通信プログラムが入ってる」

「えっ!?」


 そう言ってレネは瑠璃色のUSBメモリをキョウカに手渡した。


水城みずきくんには、この前話したけど――」


 7月にキョウカが勝手に部屋を飛び出したあとユキに説明したことを、レネは影のある表情で改めて説明した。


「私の脳情報データが、月に送られてしまったとこまで、話したよね?」

「はい。確か、コピーできなくて、とか?」

「――そう」

「でも、月面基地のサーバーには、ちゃんと残ってるんですよね?」

「あのね、この話にはね。続きがあるの」

「ええっ?」


 こうして「レネは大事なことを後から言う」ということを、ようやくキョウカは思い出す。深刻な続きが隠れていることは、いつになく暗い彼女の表情から、分かる。今日は、いつもの艷やかな髪も、灰をかぶったみたいに元気が無い。


「月面基地のサーバーなんだけど、月面望遠鏡の観測データの保存にも使われているの。それでね――」


 レネの話はこうだ。

 月面望遠鏡を使った観測が行われるたび、毎日のように膨大な量の観測データが生まれる。それは通常データもあれば、コピー不可の量子データ形式の場合もある。そして、いずれの場合も、観測データは月面基地内のサーバーに一時保管される。


「新しいデータが入ってきたときに溢れないよう、保存区画から古いデータが順に消去されるしくみになってるの」

「ふーん。そうなんですね。――ってあれ? それじゃ」

「そう。このまま順調に月面望遠鏡の観測が続けば、私のデータはいずれ消されるの」

「ええっ!? そんな。――でも、いずれ、って?」


 レネは、現在までの月面望遠鏡の過密な観測スケジュールと観測内容、そして、サーバーの保存区画の残り容量から、詳細な削除日をすでに計算していた。予想では、来年4月25日の深夜から26日の未明にかけて消去される可能性が高いそうだ。


「え、ちょっとまってください! それって、レネさんの観測時間マシンタイムの日じゃないですか!?」

「そう」

「まさか――」

「そうなの。もう、あのデータに捕らわれて、生きていくのは、おしまいにしようかな、なんて思って」


 だから、世界中の天文学者が、喉から手が出るように欲しがる月面望遠鏡の貴重な観測時間マシンタイムを、彼女はいとも簡単に高校生に譲ったのだ。でも、さすがに、自らの手でデータに引導を渡すのは忍びなかったと見える。

 スバルは4月25日に月面望遠鏡で観測を行い、結果として、レネのデータを消去することになるだろう。だからこそ、レネは何があっても観測を行う確率が高いスバルに、観測時間マシンタイムが渡ると読んで、キョウカに託したのだった。


「ダメですよ! 自暴自棄になっちゃ。今はまだ方法は分からないけど。なんとかして、地球に持って返ってきましょうよ! ね!」


 キョウカは思わず立ち上がり、テーブルを回り込んで、レネのもとに駆け寄った。香水のいい匂いと耳にかかる長い髪。羨ましいくらいにミステリアスで妖艶ようえんだ。

 レネは伏し目がちにキョウカのことを見て、にっ、と作り笑顔をした。


「2年前の皆既月食、覚えてる? お正月で晴れてたし、結構多くの人が見たと思うけど?」

「はい、覚えてます。お父さん、元旦なのに研究所につめてたような……」

「そう。あの日――」


 月面基地にあるオリジナルデータを地球に戻すためには、月と地球の間でレーザー通信をする必要がある。しかし、いま月から送り返したいデータはとても脆弱ぜいじゃくだ。ちょっとしたノイズで、すぐに壊れてしまう。

 当時、ノベルが特に気にしていたのは太陽の影響である。月と地球の間に広がる38万キロメートルの宇宙は、何もない真空ではない。太陽からの強烈な放射線や太陽風と呼ばれる危険な高エネルギー粒子に満ちあふれている。

 月と地球でレーザー通信しているときに、強烈な太陽風が当たったら、レネの脳情報データはひとたまりもないだろう。


證大寺しょうだいじ先生が考えたのは、皆既月食のときなら、地球が影をつくって、太陽から守ってくれるだろうってことなの」


 月食のとき、3つの天体は、太陽、地球、月、の順番で1列に並ぶ。地球の影に満月が入り、太陽の光が月に当たらなくなるのが月食である。月全体がすっぽりと影に入る場合があり、それが皆既月食である。

 これを月に立って見ると、太陽が地球により覆い隠される日食になる。データを傷つける有害な放射線や太陽風から、地球が身を挺して守ってくれる特別な瞬間である。

 ノベルとレネが狙ったのは、皆既月食の時だけできる、月と地球の間の影の部分である。そこだけを通ってレーザー通信できれば、レネのデータを傷つけること無く、高い確率で地球に取り戻すことができそうだ。

 

「でもね、実験は失敗だった。月面基地に接続要求する最初の通信すら確立できず、皆既月食中にデータを地球に送り返すなんて、できなかったの。原因はいまも不明」


 レネはとても残念そうに言った。しかし、それがこの世の終わりなんて顔には全く見えず、キョウカはどう声をかけたものか逡巡しゅんじゅんした。

 

 ――きっと、レネさんの「大切なことを、後から言う」には、まだ続きがある。


 そう思ったキョウカは、立ち尽くしているわけにもいかなくなった。レネのすぐ右隣に座り、2人はバーカウンターで話し合うみたいな格好になった。

 レネは片肘なんてついて、まるでウイスキーを舐めるみたいにしてマグカップのコーヒーを少し口に含むと、小声で始めた。


「私、アメリカ行けなくなっちゃった……」

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