第16夜「先輩と後輩」(下)

 スバルは東の空に上がった琥珀色の満月に背を向け、屋上のフェンスに寄りかかり、キョウカに言った。


「次の天文部の部長、キョウカがやらない?」

「ええっ?」


 夜風に前髪がなびき、彼のシャープな口元が少しだけゆるむ。


「ほら、俺、もう卒業だからさ。いま、天文部は理科部にしてる状態だけど、やっぱ独立してたほうがいいと思う。部として」

「そう、ですか……?」


 頭の上にはてなマークを3つも4つも浮かべ、キョトンとした表情のキョウカ。それを見たスバルは「フフっ」と、いたずらな微笑みを送った。


「天文部と理科部、大して違わないじゃん、って思ったでしょ?」

「え? えっと……。はい」

「フッ。正直だね。――だから、部長は、キョウカがいいと思う」

「私? 星のこと、なんにも分からないですよ?」


 キョウカは上目遣いでスバルの顔を覗いた。陽が沈み、オレンジから群青ぐんじょう色に変わってゆく空が静かに照らしている。彼は夏休みが終わる日の小学生みたいな、少し寂しげな目をした。


「いや。君がいいと思う」

「どうして、ですか?」


 スバルはキョウカが相応しいといってはばからない。

 キョウカは、彼がどうしてそこまでの信頼を置いてくれているのか、理解できないでいる。


「キョウカはね。――すごいよ」

「え? 先輩のほうがすごいですよ。星のこと、何でも知ってるし」

「いーや、君のほうがすごい」

「そんなこと、ないですって。ホントに」


 キョウカがスバルに勝てる要素といえば、優柔不断と、持ち前の明るさくらいしかなかった。頭脳明晰、スポーツ万能。顔良し、性格良し、家柄良しの三方良しのスバル。どう考えても、勝ち目はない。


「俺さ、キョウカみたいに柔軟な考えをするの、苦手。どうしても、論理っていうか、決まりきったことしか考えられない」

「そうかなぁ。そんなふうには見えませんけど……」


 スバルは、完璧主義が仇となり、失敗するのが苦手だった。そして、上手く失敗できないことを恐れるあまり、既定路線からの逸脱を極端に嫌った。

 その余波で、リラックスするのも下手である。

 キョウカは「アハハ。意外」と笑い、満月を愛おしそうに目で撫でた。ほんとうは、今すぐスバルの頭を「大丈夫ですよ」なんて、撫でてあげたかった。

 風に揺れる彼女の髪を見ていたスバルは「そうだよな」とつられて笑った。


「キョウカみたいに、ワクワクする心のままに何かに挑戦するのは、それだけですごいな、って思う。尊敬する」

「わ、私のは、全然すごくないですよ! 迷ってばっかりだし、飽きっぽいし……」

「それ! まどいの星! そういうところが、俺には月よりも行きたい場所なんだよね。どうしても届かない場所」


 キョウカはドキッとした。胸元にあるフェンスの縁に手を置いて、身体は月の方を向いたまま、スバルを目で追った。彼はフェンスを背に、夕焼けと夜空の境界線あたりを眺めていた。整った目鼻立ちの横顔に、長いまつ毛。スッキリした顎のライン。

 ふと、スバルは自分に言い聞かせるように「天文はさ、じれったいよ……」と空に向かって呟き、ゆっくりと前に歩いた。スバルは、振り返らずに続ける。

 

「ブラックホールの衝突も、超新星爆発も、全部待ってるだけ。遠すぎて探査機も行けない。――でもね、最近気づいたんだ。こんな近くに、居るじゃないかって」

「え?」


 私? いや、そんなわけないか。さすがに私は天体じゃない。


「なんで、今まで気づかなかったんだろう……」


 アヤちゃん? いや、それもないか? 幼馴染は天文現象じゃない。


 キョウカはいよいよ振り返って、スバルの歩いていった先を見た。そして、5メートルほど離れた彼に「いつだって、そばにいたから、じゃないですか?」と少し大きな声をかけた。

 キョウカの明るい声にスバルはピタッと立ち止まり、くるりときびすを返す。月明かりに照らされた彼は、やっぱりいたずらに笑っていた。

 スバルは「良いこと言うね。――あ、そうだ!」と思いついた顔でクイズを出した。


「じゃあ、天文部部長の昇任テストをしよう!」

「え?」

「第1問。地球から一番近くにある星は何でしょう?」

「ちょ。え? 星!?」


 スバルはいよいよ子供みたいに目を輝かせた。大人びた顔に、低くて濃い声。どこまでも少年のような振る舞いとのギャップがズルい。


「そう。月や火星じゃなくて。自分で光る星」

「……えっと、たしかユキくんが……。ケンタウルス座の――」

「ブッブー」

「正解は、太陽だよ」

「ああ!」


 キョウカは、夜空にばかり星を求めていた。

 ただ、いつもそこに居るから。そして、毎日見ていたから、気づかないし、気づけない。何百光年も彼方にいる赤の他人ではなく、近所の――いや、もっと近い星。

 たぶん、月も地球も火星も土星も、みんな1つ屋根の下。大家族の真ん中で、陽気に笑うお母さんみたいな太陽。


「ババン。では、第2問。月と地球は、どっちが先輩でしょう?」


 スバルは、ほんの少しだけ後ずさりすると、キョウカに手を振った。


「えっと……これは流石に、地球? ですよね?」

「ピンポーン。大正解。巨大隕石がぶつかって削がれた地球の破片が、月だよね」


 ある瞬間、ある場所をともに過ごした先輩と後輩は、必ず別れる運命にある。万有引力で、2人がどんなに惹かれあっていても、時間は容赦しない。

 先輩は必ず、後輩のもとを去る。

 そして、残された後輩がまた、誰かの先輩になる。


「最終問題。今、キョウカが立ってるとこが月。それで、俺が地球。俺たちは38万キロ離れてる。さてこの縮尺で、太陽は何メートル先にあると思う?」

「ええっ?」


 皆目、見当もつかなかった。スバルの笑顔を見るのが少しだけ辛くなってきたキョウカは、静かに目を閉じた。

 小学校の理科室でいつか見た、ランプの太陽の周りを機械仕掛けの地球と月が周る模型――。

 ギーギーと歯車から不格好な音をたて、月は地球スレスレを周り、太陽も目と鼻の先。先生が神様みたいに操作して、月の満ち欠けも日食も、自由自在だ。でもこれはさすがにSFだ。ほんとの太陽はもっとずっと遠くにある。


「俺、決めたんだ。大学では、太陽を調べる。でね、形見じゃないけど。天文ドームと望遠鏡はキョウカの好きにしていいよ」


 スバルは「よっ。よっ」と飛び跳ねながら、大股歩きで38万キロをまっすぐ進んだ。キョウカの前までやって来ると、満月が溶けこむ漆黒の瞳で彼女の目を見つめた。

 

「キョウカに、出逢えてよかった」

「先輩……」


 キョウカには、大学はとても遠い世界に思えた。近くにあるようで、きっとほんとうは、太陽よりも遠い場所。

 スバルの卒業まで、あと半年。

 それまでに太陽までの距離を調べておこう、と思いながらキョウカはスバルの黒い瞳を見つめた。

 

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