第13夜「魔法とほうき」(下)

 かまぼこ屋根がかわいらしい平屋建ての天文ハウス。木造に見えるこげ茶の壁が、しっかりとした基礎の上に建つ、なかなか本格的な観測施設だ。


 少し早めに到着したキョウカは、天文ハウスの入口ファサードで、何やら作業しているスバルに声をかける。


羽合はわい先輩。何か手伝えること、ありますかー?」


 頑張って声をかけたものの、スバルは「あぁ、大丈夫。今バタバタしてるから。ちょっと外で待っててね」なんて連れない返事をして、さっさと中に入っていってしまった。


 ――やっぱり、先輩は、私には興味ないのか。


 入り口のそばにある下駄箱にキョウカが目を移すと、アヤのものと思しきトレッキングシューズが見える。天文ハウスの中にいるのだろう。

 2人でコソコソしてやな感じ、と思いながらキョウカは天文ハウスを背にして空を見上げた。「ふぅ」と吐いたため息で飛ばされそうなほど、満点の星空が広がっていた。


 八ヶ岳の裾野とはいえ標高はかなりあり、8月でも夜は冷え込む。キョウカがいつものクセで毛先を触ると、冷たい。

 花火の後、宿泊棟に戻ってシャワーを浴びた後のドライヤーが、少々あまかったらしい。キョウカはようやくスバルが温かいようかんが食べたくなる気持ちを、ようやく理解した。


「寒いねー」


 赤い光の懐中電灯を手に、ユキがやってくる。天体観測のとき、眩しくないようにという、優しく温かな光。


「でも、今日は、温ようかんは出ないよ。ハハッ」

「えっ!?」


 キョウカは頭の中が読まれた気がして、ビクッとした。おろした長い髪が、しなやかに揺れて、宿の大浴場のヒノキの香りのシャンプーのいい匂いが漂った。


 キョウカには、負い目があった。

 ユキはいつものとおりに話しかけてくれていただけなのに、今日は2回も彼を拒絶してしまっていた。

 彼はそれをひきずることもなく、今もまた気さくに声をかけてくれたというのに、キョウカはまだ素直になれないでいた。


「紅茶、のむ?」

「――うん。ありがと」


 ユキに手渡された水筒のカップには、温かい紅茶が入っていた。ベルガモットが爽やかなアールグレイ。

 キョウカは、受け取ったカップで両手を温めるように持ち、一口飲む。


 ――飲み頃の温度。夜に馴染む、少し薄めの淹れ具合。甘みと渋み。全てが、ちょうどいい。


 やっぱりキョウカには、彼の言動が理解できなかった。でもそれは、今までのように、理系男子だからという理由ではなかった。

 いつもみたいに「え!? どういうこと?」と聞くわけにもいかない。


 なんでこんな私に、彼はこんなにも優しくしてくれるんだろうと疑問に思ったキョウカは、空を見上げる彼の横顔を見つめながら、もう一口、紅茶をすすった。

 唇を少し離した紅茶の水面に、夜空が映り込んで揺れている。カップに閉じ込めた星もきれいだ。星は、空高くで輝くのではない。こうして、すぐ近くにあって、心の中にこそ輝くのだ。

 そうして、キョウカはようやく気がついた。カサネの言う〈恋人〉みたいに、そばに寄り添ってくれなくてもいい。こうやって普段どおり話しかけてくれる、その当たり前だけで、十分嬉しい、ってことに。


「おまたせー。じゃあ、始めようか?」


 カサネと得居が遅れて顔を出す。何やら大げさな荷物を持っている。

 天文ハウスには望遠鏡は設置されているし、そもそも、準備はスバルとアヤがしているはずだったので、ただ星を見るためだけに、そんな大荷物が要るようにはキョウカには思えなかった。

 天文部なら寒さ対策に登山用の断熱マットやシュラフを使うらしいが、あいにく理科部にそんな上等な装備はないはずだ。


 不審に思いながら玄関で靴を脱ぎ、カサネと得居に続いてキョウカも天文ハウスの中へ入る。細い階段を5段ほどあがり、得居に手をひかれるまま遮光用のカーテンをモゾモゾとくぐった次の瞬間。


 ――パン! パパン! パーン!


 突然、クラッカーの音が観測ホール内に鳴り響く。


「ハッピーバースデー! キョウカ!」

「おめでとー」


 カサネの明るい声に続いて、アヤの声もする。


「……え!? あ、そうか……」


 なんだかいろいろあったため、キョウカは自分の誕生日をすっかり忘れていた。


「キョウカちゃん、今日、誕生日でしょう? カサネちゃんから聞いたよ。だから、これは理科部からの、プレゼント!」

「プレゼント? あ、ありがとう」


 そう言われても手元には何もなく、まわりをキョロキョロ見渡した。それでも、部屋の四隅の床から生えている白い望遠鏡以外には、プレゼントらしきものはとくに見当たらなかった。

 暗がりのなかで、アヤが目で合図する。スバルは立ち尽くすキョウカの手を引き、ホールの中央につれてくる。


「ほらほら、主賓はこちらにどうぞ」


 キョウカは、足元のタイルカーペットが温かいことに気づいた。床暖房だ。

 天文ドームには寒い印象しかなかったので、なんで靴を脱がされるのか「どうもおかしい」なんて気になっていたが、これで少し納得した。


「飲食禁止だから、星しかお出しできませんが……」

「アハハ」


 スバルの大きな手に引かれ、キョウカはホールの中央に寝転んだ。

 しかし、木張りの天井が見えるだけで、天窓がない。立派な望遠鏡が4つもあるのに、これでは意味不明である。一体全体、何が始まるというのか?


 カサネとアヤがキョウカの左に川の字なって寝転ぶと「はい、これ」と座布団とブランケットが手渡される。


「ん?」

「ゴロ寝がここの『お作法』なんだって。あは。変でしょ?」

「アハハ。ありがとう、アヤちゃん」


 ゆるめのお団子で髪をまとめているアヤは、半分折りの座布団まくらが妙に似合う。スバルが「付き合う」と言っていたのは、このサプライズに協力するということだったようだ。クラッカーの大きな音で驚かされた反動もあり、安堵で少しだけ涙するキョウカ。


「さぁ、扉を開けるよ!」


 ユキがそう言うと、ギシギシと建物からきしむ音がして、ドーム状の屋根が、ゆっくりとスライドしはじめた。

 キョウカは息を呑んだ。


「わぁ!!」


 2つに割れる天井の裂け目から、すぐに満天の星空が流れ込んでくる。

 澄みわたる高原の空。天の川は、暗闇にいよいよくっきりとその全身を見せる。そのまわりでは、じりじりパパパと、まるで線香花火のように音を立てて星がまたたく。

 アヤは空を見上げたまま、キョウカに打ち明けた。


「この、夜空がプレゼントなの。ごめんね、内緒にしていて。気に入ってくれると、いいな」

「ありがとう。みんな、ありがとう!」


 ここは、地球でいちばんの特等席だ。誕生日だけのわがまま天国。床暖房と毛布。おいしい紅茶。大好きなスバルと、大好きな友人たち。

 屋根が全て取り払われたホールに寝そべると、ほんとうは自分は天井に張り付いていて、逆に床が抜けたのではないかとキョウカは思えてきた。


 ――わぁっ、夜空に落ちる。


 急に怖くなって、とっさに近くの手に触れた。


「キョウカ、さん?」


 それは、ユキの手だった。さっきまで操作卓の辺りにいたはずなのに、気づくとスバルも含めた6人全員が「川川」の字で寝転んでいたのだった。


「あわわ。ご……ゴメン」


 キョウカは慌てて手を自分の毛布の中に戻し、ユキの方を向く。彼も予想通り恥ずかしそうにしている。キョウカは毛布に潜って目だけ出しながら、もそもそと話す。


「あの。ユキくんの言うとおりだった。ゴメン。私、早とちりしてて……」

「いや、こっちこそ、ずっと隠しててゴメン。キョウカさん、すごく怒ってたし、傷つけたかもって。罪悪感がすごかった……」


 クロスワードパズルの『◯◯◯◯! いくつになった?』の答えを教えてくれなかったのも、このせいだった。


「HB2U!」

「ん?」

「クロスワードパズルの答え! 4文字の問題、悩んでたでしょ?」

「あ、ああ、あれかぁ!」

「気づかれるのが嫌で、隠してた。誕生日おめでとう。キョウカさん」


 ――ほんとうの特等席は、キミの隣にいることなんだよ。


 なあんて言えればカワイイな、って思われたかもしれないのだが、さすがにそれはキョウカの口からは言えなかった。

 それでも、まちがいなく人生でいちばん思い出に残る、誕生日になりそうだった。


「あ! 流れ星!! はやく願いごとっ!」


 バサッと毛布を飛ばし、キョウカは慌てて起き上がる。でも、皆、ごろ寝したままだ。何で?

 スバルが低い声で笑う。


「ハハハ。大丈夫だいじょうぶ。まだ、幾らでも見えるよ」

「落ち着きなって、キョウカ。もう、なんで泣いてるの? 夜は、これからだよ」


 カサネの優しい声と、強めにバンバンと叩かれて熱い背中。「ふふっ」というアヤのしてやったり顔。ああ、この宇宙ぜんぶが好きなんだと、キョウカは涙を拭いた。


「うん……」


 極大日を迎えたペルセウス座流星群が、一晩に何百個もの星の雨を降らせ、キョウカの誕生日を祝福した。いくつかは、本当に八ヶ岳に降り注ぎ、天文ハウスの屋根に当たるのでは、なんて思うような流星もあった。

 スバルは、良質の苦味が際立つアッサムティーのような声で「スイフト・タットル彗星。ほうき星の贈り物……」なんて呟いた。その呪文の意味がユキ以外の誰にもわからず、みんな黙りこくった。


 キョウカは、天の川のミルクで割って、コク深ミルクティーの気分だった。床暖房に毛布で、ぬくぬくと。


 夜空以外の時間よ止まれと、魔法をかけた。


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