第12夜「好きと嫌い」(下)

 夏休みに入っても「手伝ってほしい」「自分で考えて」の繰り返しで、キョウカとユキの仲はどんどん険悪になっていった。

 そんな中、理科部夜隊よるたいは夏合宿のため、顧問の得居とくいの運転で、はるばる長野県は八ヶ岳に向かった。8人乗りの真っ赤なSUV。北米仕様の逆輸入車とのことで、3列シートの車内は広々としている。


 サンルーフから入り込む夏の風が心地いい旅行気分の車中でも、キョウカとユキはケンカをくすぶらせつづけた。キョウカからは、目も合わせない始末である。

 見かねたカサネが「彼にもなにか事情があるのかも」なんて声をかけるも、耳もかそうとしない。見学に立ち寄った野辺山電波望遠鏡でも、キョウカは始終ムスッとしていた。


 八ヶ岳少年少女自然の家。

 ここはキョウカたちの住む県が、長野県に建てた県立の保養施設で、格安で泊まれる。天体望遠鏡が4台も備え付けられた「天文ハウス」なる施設も併設され、これまで天文部御用達ごようたしの合宿先であった。

 ここが理科部の合宿地に選ばれたのは、もちろん、スバルの強い希望だった。


 白樺やカラマツの林を抜け、キャンプサイトやバーベキュー場を通り過ぎると、幾つも赤い屋根が並ぶ一角に出る。

 焦げ茶色の木張りの壁に大きな三角屋根が張り出す。アルプスの山小屋を思わせる質素で直線的な外観。

 〈本部棟〉と書かれたガラスドアの入り口をはいると、優しい緑色の外光が差し込む大きなエントランスホールが出迎える。外見とは打って変わって、しっかりとした鉄筋コンクリート造りのようだ。

 右手には三百人は入れる大きな食堂。奥には研修室。立派なセミナーハウスだ。


 本部棟に隣接して、2階建ての宿泊棟が幾つも立ち並んでいた。赤い屋根と木張りの壁。山小屋風デザインの統一が気持ちいい。どの建屋も地面から1メートルほどコンクリートの基礎で嵩上げされ、冬の雪深さを感じさせる。

 6人は幾つかある宿泊棟のうち〈星棟〉に入った。廊下を突き当たって左手側に並ぶ洋室のうち1部屋が女子部屋、右に曲がってすぐの和室が男子部屋だ。


 2段ベッドが2台並んだコテージ風の洋室。ここに、キョウカ、カサネ、アヤ、そして得居が泊まる。決して広くはないが、充分に快適そう。

 キョウカが夜に備えて仮眠をとるため、2段ベッドの上段でうたたねしていると、スバルとアヤがやり取りする声が聞こえてきた。


 部屋にキョウカがいるなんて知らない様子で、2人は話し続けている。


「ねぇアーちゃん。あのことの返事なんだけど」

「えっ!? 今ここで? 誰かに聞かれたりしてたら困るな……」


 アヤは2つ結びを振りながら、部屋をきょろきょろした。でも、2段ベッドの上段まで意識が回らないのか、さすがに確認しない。キョウカはブランケットに包まって「あのこと? どのこと?」と考えを巡らせた。


「いろいろ考えたんだけどさ、やっぱり――」

「ちょ、チョット待って。まだ、心の準備、できてない」


 スバルが低い声で話し始めると、アヤは何だか恥ずかしそうな声を上げた。マズい流れだ――。キョウカは直感した。


「付き合うよ」

「ホント!? よかった。嬉しい。嬉しいな!」


 ――ほらね、ほらね!

 

 思わずジャンプするアヤ。ぼーっと布団の中で話を聞いていたキョウカは「アヤは既にスバルに告白していた」という、恐れていた事態をようやく理解した。

 そして、こともあろうに、スバルからの返事はイエスだったのだ。こんなに2人の話が進んでいたとは……。


「それで、どうするの? キョウカには内緒に?」

「うん。今、キョウカちゃんに知られるのは、ちょっとね……」


 内緒にしたいような後ろめたいことでもあるのかと、キョウカは落ち込んだ。こういうのは面と向かってハッキリ言ってほしかったのだ。もちろん、盗み聞きすることになってしまったのがいけないのだが「そんな遠回しな伝え方じゃなくてさ。理系なんだからさ」なんて言いたい気持ちだ。


「夕食だよー。食堂に集合ー。あ、先輩もここにいたんですね」


 カサネが呼びに来る。3人はキョウカが居るなんて思わず「今日は特製カツカレーだってよー」「ちょっと重いなぁ」「打ち上げ前日に験担げんかつぎで食べる宇宙飛行士がいるんだよ」「ホントですか? ハハハ」なんて笑いながら部屋から出ていった。

 

 失恋したって、お腹は減る。

 カツカレーを負けたあとに食べても、もう華麗には勝てない。


 ◯


 アヤとスバルが部屋を出ていってからしばらくして、キョウカが「もう顔合わせるのも嫌。夕飯なんか食べなくてもいい」なんて、ふて寝を決め込もうとしたとき、部屋の戸がノックされる。


 コンコンコン――。


「キョウカさん? いる? 夕飯たべない?」


 声の主はユキだ。

 こうやって、2人のケンカはなぜかキョウカの一人相撲にさせられる。声色から察するに、彼は怒ってなんていない。至って平常運行の、いつもの優しい声だ。


「――うん。食べない」

「あ、いたんだ。良かった」


 そう言っただけで、紳士なのか、恥ずかしいのか、彼は女子部屋のドアを開けようとはしなかった。


「カレーだよ? 具合でも悪い?」

「いらない!」

「大丈夫?」

「――大丈夫じゃない」

「えっ!? どういうこと?」


 ほら出た。得意のフレーズ。

 キョウカは「私のこと、分かってないなぁ理系クン。もう少し論理的推論というのを働かせてみたまえ」なんて思いながら2段ベッドからのそのそ降り、ゆっくりと木のドアを背に座り込んだ。


「――ねぇ、ユキくん。もう少しだけ、一緒にいてくれない?」


 廊下にいる彼がかなり動揺していることは、ドア越しでもキョウカにはよく分かった。


「ちょっと、そこに居てくれるだけでいいから。お願い……」


 そうキョウカが声を振り絞って言ったあと、気がつくと涙がこぼれていた。

 手に落ちた涙の粒の暖かさが、ぺたり座り込んだ床の冷たさを際立たせる。「あれ、おかしいな」とか呟きながら、キョウカはユキの優しい熱を感じたくて、体育座りのまま背中をドアにぎゅっと押し付けた。


 背中の3センチ向こう側が、無限の遠くに感じた。


「ど、どうしたの? キョウカさん? 泣いてるの?」


 ――そんなこと聞かないで。わかるよね?


「……先輩、アヤちゃんと付き合うことにしたって。知ってた?」


 言葉に出したら、その現実は確定してしまう。キョウカは余計に胸が苦しくなってしまった。痛い。泣き顔を見られるのは恥ずかしい。


「よくわからないけど、聞き間違え、とかじゃない?」

「ばか!」


 よく知りもせず、確認もせず、そんなこと言わないでよ、なんて怒りを彼にぶつけられるわけもなく、キョウカは静かに唇を噛んだ。


「よく、考えてみたら?」

「ねぇ、こんなときくらい、一緒にいて! お願い! そこで、いいから……」


 キョウカは、せいいっぱいの声を絞った。「ドア越しだから」と声だけは頑張って平静を保とうとしていたけど、それも、もう限界だ。

 いよいよ大粒の涙が膝にポロポロこぼれ落ちる。

 

 ほんとは子供みたいに「わーん」て泣いてしまえばスッキリするってキョウカは知っていた。それでも、彼はドアを開けないって分かってるから、静かに泣く。

 この気持ちを解決する魔法も科学もないって知ってるから。1人で泣く。

 

「羽合先輩と霜連しもつれさんは幼馴染。仲良しなのは、今に始まったことじゃない。自明でしょ?」

「……どうしてユキくんは、いつもそうなの?」

「――やっぱ、1人で落ち着いて考えてみたほうがいいよ。きっと」

「もう知らない!」


 キョウカは顔を上げ、涙を拭きながら向かいの窓の外を見た。夕焼け色に染まる雲を、白樺の林のシルエットが黒く切り刻む。夜の始まりを告げる、冷たい夜風。山の季節は早い。

 秋がもう、そこまで来ている。

 まだ始まったばかりと思っていたキョウカの夏は、早くも終わりを告げようとしている。

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