第11夜「記憶と記録」(中)
5年前。キョウカの父・
被験者を集める研究費の余裕もなく、レネも自分の脳に興味があったため、彼女自身が実験台となった。
同じく2026年に完成した月面基地では、月面望遠鏡による
「
「……だから、お父さん、あんなに月面基地に詳しいんだ! 知らなかった」
キョウカは思わず膝を打った。父親が普段なにしているかなんて、科学者じゃなくたってよく知らないものだろう。
「でもね、ある月夜の晩、いつものように研究所の屋上から月に通信用レーザーが発射されているとき、恐れていた事故が起こってしまったの」
「え?」
以前から指摘されていた研究棟内の光ルーターの不具合で、月面基地に送信するデータと、レネの居た実験室の測定データが混線。その結果、レネの脳情報データの一部が月面基地に誤って送信されてしまったのだった。
「月面基地のコンピュータで、データを消去してもらえば、いいんじゃないですか?」
ユキには自明のようだった。レネは優しい目で彼を見つめると、マグカップをテーブルに置く。ことり、と小さな音が鳴る。
「通常のデータなら、ね。メールみたいにオリジナルが地球に残る。でも――」
レネの脳を調べた結果の一部は、コピー不可の〈量子データ〉なのであった。この特殊なデータ形式は、物理法則により原理的に複製ができない。ひとたび月に送信されると、オリジナルの――つまりレネの脳にあるデータは、破壊され元に戻せなくなってしまうというのだ。
「あ、心配しないで! 別に記憶喪失とか、そういうんじゃ無いから。フフフ」
心配そうに顔を覗き込む2人の高校生を見て、レネは慌てて手をブンブンとふった。彼女は「まぁ、話すと長くなるから」とか言って、2人が口をつけずにいたマグカップを手にとって、ソファーから立ちあがった
この事故の
それまで知られていなかった、人間の脳の中に潜む量子の世界を明らかにし、偶然にではあったが、それを月に送信する実験まで成功させたのだ。この画期的な成果が、レネを若くして准教授に昇進させたといっても過言ではなかった。
電子レンジで温め直したマグカップを2人に差し出しながら、レネは伏し目がちに話を続ける。
「私のデータ、いまもまだ、月面基地近くの量子計算機センターに、保存されてるの」
2人には話が高度すぎ、話の続きはよく理解できなかったが、とにかく脳に障害は全く残らなかったらしい。その後の精密検査でも、記憶能力、判断能力ともに異常なし。しかし、レネは不安から、文章を書く時には支援AIを使っているということだった。
ユキが試したアプリで〈人間ではない〉なんて判定が出てしまっていたのは、このせいだった。彼は、消え入るような声で叫んだ。
「竹戸瀬先生。事故のこと、全然知らずに『人間じゃない』なんて失礼なことを言って、すみませんでした。ほんとうに、ごめんなさい」
深々と頭を下げるユキに、レネが優しく声をかける。
「
「あ、もしかして、それで?」
「そう――それで、月面ローバーの研究を始めたの」
これはキョウカも初耳だった。
「私も全然知りませんでした。お父さんも、昔のこと、あんまり話してくれなくて……」
「あの、俺、何か方法がないか、考えます! ローバーの課題も、あと2つで全部解けるし。きっとなにか方法があるはず。だから――」
「フフフ」
心配そうな2人を見て、レネは優しく微笑みかけた。
いつもなら、分からないことは、分からないとハッキリ言うはずの彼が、このときだけは違っていた。ユキの頭の計算機は、とっくにのとうに、自明な解が無いという結果をはじき出しているはずだ。それなのに、取り戻す方法が分からなくても、ただがむしゃらに月を目指そうとしている。
そんな無謀な戦いにわざわざ挑むなんて、彼らしくないと思いながら、キョウカは彼を見守った。
「ありがとう。水城くん。――データはね、きっと残っているはずよ。取り出せないだけ」
月面は大気も地磁気もなく、太陽からの強烈な放射線がダイレクトに降り注ぐ。そのため、月面基地のデータセンターは地中深くに設置され、放射線からは護られている。もちろん、エラーを見つけては修正する自動プログラムも常に作動していた。
「お父さんが量子コンピュータも稼働しはじめたって言ってたし、レネさんのデータを地球に持って帰ってくる方法、きっとありますよ」
キョウカの慰めは、慰めでしかないことは、レネだけでなく、ユキにだって分かっていた。データが、というよりも、まるで自分が消去されてしまうかのような恐怖の顔でレネは答える。
「そうね。そうかもしれない……」
大切な人が、大切に想っている人。
その人の大切にしている記憶のかけら。
それが今、誰の手も届かない、38万キロメートル彼方の月面基地にある。
それがわかっただけで、キョウカには十分だった。
――やっぱり、私はあなたに
「ごめん、水城くん。先帰るね」
「?」
「――レネさん、今日はありがとうございました!」
キョウカはそう言い残し、足早に研究室を出ていった。
レネが「あ、それからね……」なんていうのも聞かず。キョウカはレネが大事なことを決まって後から言うなんてのも忘れているようだ。
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