第11夜「記憶と記録」(下)
レネの研究室を1人で後にしたキョウカは、オレンジ色に染まる遊歩道をとぼとぼ歩いていた。
土曜日の夕暮れのお台場。街行く人の楽しそうな姿に、キョウカは勝手に飛び出してきてしまったことを、ちょっぴり後悔しはじめていた。
でも今日は、帰りの高速バスが迫っているわけでもなかったから、キョウカは少しゆっくりとした歩幅で歩いた。
センサーに反応して点く街灯の月も、キョウカの歩調にあわせ、今日はゆっくりと表情を変える。
足元灯。円 ――新月。
胸が苦しかったが、キョウカにはなぜか分からなかった。
しかしそれは嘘だ。理由は本人が一番良く分かっている。ただ言葉にしたくないだけ――それも嘘だ! ほんとうの理由は分からない。
――なんで、よりによって
キョウカは自分の心と向き合いたくなかった。それでも、歯を食いしばって、向き合わないといけない時が来た。
「
ハアハアと息を切らせ、後ろからユキが声をかける。
キョウカが立ち止まり振り向くと、遠くの夕日を背にして、シルエットだけが浮かび上がる。サラサラの髪、シャープな頬のライン。表情はよく見えない。
ユキはキョウカのすぐ右に並ぶと、歩幅をあわせ、歩きだす。
背中から夕日を浴びると、長い影が2人の前に立つ。2人の手と手は触れてなんかないのに、影の2人は手をつなぎ、駅までの道を先導する。
足元灯。半円 ――上弦の月。
「よかった。びっくりした。キョウカさん、急に出ていくからさぁ……」
「あぁ、ごめん、心配させて。アハハ。ほら、難しい話。ついてけなくなっちゃって」
キョウカは、つとめて明るく振る舞った。
「そう? なんだか、思いつめてた感じだったから」
「――うん。そう」
キョウカは彼の前では嘘をつきたくないって思っているのに、こうして嘘をつく自分が嫌になってきていた。
思えばキョウカは、自分にも他人にも、嘘ばかりついてきた。
天文に興味あるなんて嘘ついて。そんなのスバルに近づくための口実だ。
バイトして決めるなんて嘘ついて。そんなの進路を考えてない証拠だ。
図書館で勉強してるなんて嘘ついて。そんなの――
足元灯。少し欠けた丸――
「……水城くん。私、言ってなかった」
「ん?」
「ちがう。えっと、あの…… ありがとう。私、救われたの」
「え? どういうこと?」
ユキはここで、いつものフレーズ。やっぱり、優柔不断がわからないんじゃなくて、女心がわからないんだろう。
キョウカは少し照れくさそうに上目遣いで彼を見た。
「月面ローバーのバイト。理科部のことも、私のことも、守ってくれたよね。お父さんに、頭下げて説明してくれて」
「ああ。いいよいいよ。なんか、お節介だったかな?」
ユキは大げさに広げた手をふる。ギタリストかピアニストを思わせる繊細な指。
「私、いままで嘘ばっかりついて生きてきた。だって、本当の私はね、優柔不断で、飽きっぽくて、何にも熱中できず、すぐ気移りする。 ……恥ずかしい」
いつものキョウカなら、優柔不断に押しつぶされるか、全てがどうでもよくなるかして、話すのをやめていたところだ。
でも、今日は違った。
うつむいていた顔を上げ、頬に笑みさえ浮かべながら、じっとユキの目を見つめた。
「でもね、水城くん。私、キミの前だとそのままの自分で居られる……気がするの」
「そう? それはなかなか非自明だね」
「そう。だって、私がいくら優柔不断してても、直せとか怒ったりしなかったし。『役に立つ』なんて、褒めてくれたよね? だから――」
足元灯。明るい真円――満月。
それだけじゃない。彼は、いつだって、自分自身より、何倍も他人のことを大切にしていた。
大切な人が、大切に想っている人。その人の大切な記憶。
そんな、月へと続く「大切」の連鎖に、キョウカも加わりたかった。
かっこ悪くても、ぐしゃぐしゃでもいい。無謀なことが自明だとしても。宇宙
誰かのためを、思う――。
「だから、正直に言うね。キミにだけは、嘘つきたくない」
きっと、言ったら嫌われると思い、キョウカは泣きたい気持ちになった。でもここで泣いたら負けだというのもよく理解していた。キョウカの記憶にだけズキズキと残り、彼の頭には記録さえ残らないだろう。
そのことで自分自身が傷つくのはかまわないと、キョウカは決心した。
「あのね……。私、水城くんのこと、好きになっちゃったの」
笑顔の意味も、受け取った言葉も、全てが遠くの惑星からのモールス信号みたいに、彼を困惑させた。自明でも非自明でもない、全くの予想外。
「……ゴメン。迷惑だよね……。軽蔑するよね?」
「しないよ!」
ユキは恥ずかしそうに、しかし、ハッキリと即答した。
「こんなふうに、思っててくれたなんて知らなかったから。驚いた。俺、あんまりこういうの得意じゃないから……。嬉しいよ。ありがとう」
「ほんとう?」
「本当! いつ、誰を、どんな風に想うかは自由だよ。法則に縛られない、完全なる自由!」
彼の意外な答えに、キョウカはどきりとした。
それは「俺も君のことが――」でも「羽合先輩に悪いから」でもなかった。
キョウカにはそれで充分だった。洗濯したての、ふわふわバスタオル。彼はそんなふうに、気持ちを全て優しく包み込んでくれたから。
「それに、證大寺さんが、ありのままで居られる時があるんなら、そんな素敵なことはないじゃない?」
「うん……。ありがとう……。水城くん。ありがとう!」
ありのままの自分を受け止めてくれる。
言葉にすると、たったそれだけのことなのかもしれなかった。
でも、言葉に表せることだけが、この宇宙の全てではないと、キョウカは知っていた。これは、恋でも愛でもない。そんな曖昧な定義じゃない。
知らずしらずのうちに、彼女にはユキの未定義用語嫌いがキョウカに
それは、ユキと過ごす時間であり、空間であった。ありのままの自分でいられる時間。キョウカがずっと探し求めていた場所。
それに名前をつけるのを、彼女はためらった。
物理学者に持っていかれてしまいそうだったから。
キョウカは燃えるような恥ずかしさに頬を桃色にしながら、ユキに声をかけた。
「あのっ、ひとつだけ、お願いがあるの」
ユキは穏やかな表情のまま「ん?」と首をかしげた。セルぶちメガネの縁で、夕日がキラリと反射する。
「キョウカ、って呼んで、欲しいな」
「え!?」
やはり〈證大寺〉は、キョウカにとっては父しか意味しない。キョウカは「ありのままの自分で居るには、ありのままの名前で呼ばれたい」なんて、欲も出てきていた。
彼もまた頬を赤らめていた。
「さすがに、恥ずかしいなぁ……」
「お願いします」
ここぞとばかりに深々と頭を下げ、上目遣いで瞳を潤ませ、お願いするキョウカ。「まいったな」とユキは恥ずかしそうに後頭をかいた。
「――わかったよ。キョウカ……さん?」
「エヘヘ。ありがと。優しいんだねユキくん」
呼び名を変えると、2人の距離はほんの少しだけ、近づく。
この宇宙のできごと全てが載った黒い石板の隅に、引っかき傷みたいに記録された2人の名前と距離。
また明日からは、日常に戻る。
月は遠い。
宇宙ステーションまではたった4百キロ。月までの距離は、その千倍はある。だから、月面基地の地中深くに眠るデータなんて、高校生の2人には指一本届きっこない。それは明らかだった。
でも、力を合わせれば、どんな問題でも解けるような気になる。
それが、〈恋とか愛とかそういうんじゃないもの〉の、なせる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます