第8夜「ライブハウスとレストラン」(下)
キョウカは、夜の理科部に出入りしていることを、両親には内緒にしていた。
父・
しかし、1年の学年末テストの残念な結果を見せた頃から「教科書よんだ?」か「伸びしろ世界一!」しか言わなくなってしまった。
なんだか、メニューが2種類しかない定食屋みたい、なんてキョウカはこの頃思っている。
母・
でも、事あるごとに自身のインターハイ優勝の話を持ち出しては「
こっちは定食屋というよりは、さしずめ〈注文の少ない料理店〉か。
キョウカが「私、輝いてる」と思った日々も、あまり長くは続かなそうだった。何か隠し事があるのではないかと、父から疑われはじめていた。
中間テストの結果は、キョウカの自己評価では悪くはなかった。なので「カサネと図書館で勉強」という嘘が早くも崩れたという線は薄い。
何に感づいたのか彼女には不可解だったが、気づかれるのは時間の問題のような気もしていた。
○
――わいふぁーい!
理科部
テーブルにはすでに大皿のサラダやパスタが、所狭しと並んでいた。
キョウカとカサネはお決まりの無糖のアイスティ、アヤはカルピス。理系男子2人は、仲良くメロンソーダという化合物水溶液を飲んでいる。
週末ということもあり、店内は夕方5時にして既に賑やかな匂いに包まれている。ピザが焼き上がる香ばしい煙。パスタが茹であがるときの艶っぽい蒸気。
その全部が、陽気なガーリック臭でイタリアンな化学反応を起こしている。
この風変わりな乾杯は、歴代の部長に口伝でのみ継承される、理科部伝統の掛け声らしい。
アヤによると、ある大学との共同研究で新型の無線LAN〈
それ以来、インターネット環境は教室のある本校舎より理科棟のほうがはるかに快適で、理科部は長らくこの恩恵に預かってきた。
コンピュータ部さえも本校舎にある部室を捨て、理科棟に移ってきたくらいだ。
「キョウカ、テストどうだった? 親に目つけられてるんでしょ?」
大皿のシーザーサラダを皆に取り分けながらカサネが尋ねる。
いきさつは不明だが、カサネはキョウカの父と仲がいい。中学のころから、よく家に遊びにきては夕飯まで食べていったからだろうか。
「うーん。ぼちぼちかなぁ。物理でヤマかけたのが外れちゃってさ……」
「ヤマ!? そんな迷うようなの、なくない?」
ユキの冷静なツッコミに続いて、キョウカの向かいに座るスバルも「アレ? 高2の物理って、何やってんだっけ?」なんて話にのってくる。
――飲んでる緑の液体以外はカッコいい!
キョウカがスバルの質問に応じようとモゴモゴしている間に、緑の溶媒を飲み干したユキが隣で即答する。
「波ですよ。円運動と単振動。でもヤマかける要素ありましたっけ?」
この流れは、理系男子の2人だけの世界で物理談義に突入してしまうパターンだ。
――〈
「え、キョウカ何にヤマかけたの? まさかサインとコサインの2択?」
カサネに問い詰められ、だんだん恥ずかしくなってきたキョウカは「そうそう、タンジェントもあるから3択だけどね。ってオイ!」とも言えず、ただただ、この話題は深堀りしないで次に行こ、のサインを送るしかできなかった。
会話が一段落するのを見計らってアヤがキョウカに声をかけた。
「親といえば……キョウカちゃん、理科部のことどう説明してるの?」
「え?」
彼女はキョウカの「入部するが父には秘密にして欲しい」という願いを、何も言わずに承認してくれていた。
「ほら、私、部長だから見られるんだけど、この前もらった入部届。ちゃんと、お母様の電子署名があったから」
「ああ。お父さんにだけ、内緒にしてるの。夜隊の活動日は、カサネと図書館行ってるってことにして……」
「なるほどね」
これは嘘である。その証拠に、キョウカは右のほっぺを触るクセがでていた。じつは、キョウカは母親にも理科部のことを内緒にしており、電子署名はキョウカの兄の偽造だった。
スバルはパスタの取り分け皿が足りないのを察知し、さっと取ってきてそれを皆に配りながらキョウカに話しかけた。
「それで、キョウカの月面ローバーの教育? そっちは順調?」
「エヘヘへ。良くぞ聞いてくださいました。これがですね。順調なんですよ!」
キョウカはスバルのことを、ズルいと思っていた。星ばっかり見てるような顔して実際そのとおりなんだけど、「皆のことに気を配って、ちゃんと見てるよ」って匂わせてる――からだ。
「へぇー。そうなんだ」
「なんと、この前なんか、
「ハハハハ。言うねぇ。でもマジで? どんな
気配りなんていって、スバルはたぶん甘い香りのする気体を配っているのだ。そんなことを考えながらキョウカは、スバルの隣に座るユキの顔をぼんやりと眺めた。彼がいつだったか「匂いは物質だ」なんて、訳解んないこと言っていたのを思い出したのだ。
もじもじするキョウカの様子を見ていたスバルは、思わず右に座るユキのほうをむいた。
「要はP&Pですね。ものを掴んで別の所に置く」
「なるほど。環境は?」
「不整地ですね。デコボコ」
ユキが身振り手振りで説明すると、スバルも楽しそうだ。小学生男子のような2人の純粋無垢さを、テーブルを挟んで向かい側の女子3人は頬杖をついて眺めた。アヤとカサネが慣れた様子で「ふふふ」と笑う横で、キョウカは「また、この2人の反応を促進してしまった……」とボヤいた。
――理系男子、ほんと仲良すぎでしょ。
ユキはキョウカの目をチラッと見ると、楽しそうに説明を続けた。
「ロボットの状態も環境も、どっちも不確実。
「いやぁー、そんなに褒められると照れるなぁ。アハハ」
ぴぃ・あんど・ぴぃ、とは……。キョウカには何を褒められているのかも、よくわからなかった。しかし、スバルに取り分けてもらったパスタがあったので、詳細は不問とした。
ポンポンと肩をたたき、カサネもキョウカを褒め称える。
「キョウカくん、ようやくキミも二股の免許皆伝だね! 学校と月面の」
「アハハ。ローバーのAIはさ、知能レベルが5歳児なの。でも、いろいろ教えてあげると、その分だけ成長が見られるから好き」
昼間の学校では普段と変わらない顔をして正体を隠しつつ、夜は月面基地でローバーを訓練するバイト。好きで始めたわけではなかったのに、いろいろな人に褒められて、キョウカは単純に嬉しかった。
ユキは〈成長〉という言葉にどうも引っかかるらしく、いつものように訂正を入れる。
「まぁ、成長ていうか、正確には制御AIのパラメータ更新だけどね」
「まーた、水城くん。そんなんだと、いつまでもカノジョできないよ。キミこそ成長成長。アハハハ」
成果である月面ローバーの制御AIの訓練結果は、いったんデータベースに登録され、研究所の審査を通ればレーザー通信で月面基地に転送されることになっていた。
2人はその日を楽しみに待っていたが、流石に高校生が作ったプログラムが、すぐに実際の月面ローバーに送られるほど、甘くはなかった。
キョウカが〈成長〉と呼んでいるものも、手元のパソコンで動く仮想のローバーの、無数にあるパラメータの一部が少し変更されたに過ぎなかった。
それは、キョウカにも分かっていた。いつのまにか身長を抜き去った弟と月面ローバーは違うのだ――。
いくらデータが月に送られても、ローバーのチタン合金は1ミリも成長なんてしない。それでも、我が子のようなローバーの動作の正確さが増したり、予期せぬ事態の対処が上手くなったりする度に、そういう目に見える変化をキョウカはたまらなく愛おしく思うようになっていった。
――きっと私に、なにか特別な化学反応が起きたんだ。
少なくとも、月面基地でローバーの相手をしている間は、パチパチと反応が進むのがキョウカにもよく分かった。
昼間の自分にどんなに自信がなくても、そして、夜寝たところで自分は何も変わらないって知っていても、キョウカは最近「次の夜が早くこい」なんて思って眠りにつくほどだった。
沸騰するフラスコから出るようにしてレストランを飛び出た5人を、街路樹の若葉を揺らす爽やかな初夏の風が優しく迎えた。
見上げた空に月はなく、心の中で輝きはじめた。
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