第9夜「わらじとタイムマシン」
第9夜「わらじとタイムマシン」(上)
ある夜の図書館での勉強のあと、カサネはキョウカの家の夕飯に招かれた。
カサネがキョウカの家に泊まりに来たのも1度や2度ではなかったし、食卓を囲うのも特別なことではない。カサネ用の食器もパジャマも歯ブラシも、ぜんぶ證大寺家の4人目の子供のように、ちゃんと用意されているのだった。
3歳上の兄と5歳下の弟。男子2人を擁する
すでに名物と化したわらじ大のトンカツに大盛りの千切りキャベツ。野菜多めの具沢山みそ汁、ほうれんそうのおひたし、お刺身。ほかほかご飯は湯気まで美味しそうだ。
6人がけの大きなダイニングテーブルの右の隅がカサネの定位置。隣にキョウカが座り、キョウカの父・ノベルと対面になる。
「
「いえ。こちらこそ。仲良くしてもらってるのは、私なんですよ。ほら、今日もおいしい夕飯にまで、お呼ばれしちゃって」
キョウカの母・ユウも席につき、カサネに微笑みかけた。
「カサネちゃん、遠慮せず食べていってね。あ、言わなくても大丈夫か。アハハ」
「いただきます! あぁ、いつも私、実家が2つあるみたいって思って、ホント幸せなんです!」
「フフフ。おかわりもあるからね」
とても美味しそうに夕飯を頬張るカサネの姿に目を細めながら、ノベルはキョウカに話しかけた。
「そういえば、京ちゃん。
「う、うん。SSHの一環とかで。私と、あと、同じクラスの
「ふーん。なるほど」
竹戸瀬
「ほら、今日は月が出てるでしょ。月面基地へのアップリンクの日。京ちゃんのデータも、今日の便で月に送られるのかな?」
なんだか、まずい流れだ――。キョウカは直感した。
「なかなか優秀なAIを訓練したみたいだね。竹戸瀬くん褒めてたよ?」
「そう? 嬉しいな……」
「でも、シミュレータとはいえ、AIの訓練、時間かかるでしょ? そんなのいつやってるの?」
「えっ、と……」
キョウカの口元から、頬張りかけていたわらじカツが落ちる。「何か隠してる」って気付いてるなら言ってくれればいいのにと思いつつ、キョウカは思わず目を逸らした。
「まさか、京ちゃん。図書館でやってるの? ってそんなわけないか。ははは」
「お、お父さん。そうなんです。図書館で、ちょっと息抜きに。ね、キョウカ?」
キョウカの緊急事態を察したカサネが、慌てて会話割り込む。ノベルは瞬間的にカサネの嘘を感じとったはずだったが、すぐには指摘しない。
こういうときは、見えてる部分だけ捕まえても、後ろに控える本体はうなぎのようにスルリと逃げてしまうのを、本能的に知っているといった様子だ。
カサネはタジタジになりながらも、必死で何か言おうと踏ん張る。
「意外とこういうの得意みたいで、ちょっとの時間で、パパっとできちゃう子みたいで。そういう人って居るんですよね。ハハハ」
ノベルは「ふーん……」と言って休めていた箸を手に取り、刺身を口へ運んだ。
彼はしばらく泳がせて様子を見るタイプなのだが、ユウは違う。彼女はバウンドしたボールを早い段階で打ち返すテニスの攻撃的プレイスタイルそのままに、キョウカ・カサネペアに考える時間を与えない。
「あれ? あなたたちが行ってるのって、駅ビルの市立図書館でしょ?」
「あそこはVRも古いし、無線LANも遅いでしょ?」
「それに、データはどうしてるのかしら?」
ライジングショットが次々と繰り出される早い展開に、キョウカもカサネも息切れしてきた。
「アハハ。そう。そうなの。なかなかね。アハハ」
うなぎのように粘り強くベースラインに張り付くノベルの後衛と、動くものはハエでも打つと言わんばかりのユウの前衛。この夫婦との心理戦はキョウカにとって本当に嫌なパターンだった。
ノベルはあごを触り、わざとらしく何かを考えるような仕草をした。
「うーん。何かひっかかるなぁ。図書館は
よく知っているくせに、知らないふりして質問攻め。そして、キョウカとカサネの返しが甘くなる1玉を
「あ、ネットはね、学校の――」
そして、強打に見せかけて、よくコントロールされた深いクロス。
「ほんとは、学校でやってるよね?」
「……」
ノベルにじぃっと見つめられ、キョウカに返す言葉はない。「そうなの? 野今さん?」と念押しされたカサネもついに音を上げた。
「……はい。あ、でも。あの、キョウカは悪くないんです。私が、図書館に行ってるって言っておけば大丈夫じゃん、って、そそのかしただけで……」
もうカサネの顔には、いつもの余裕シャクシャクの表情はない。ノベルは少しだけ頬を緩め、キョウカを見た。
「ふーん。で、親に隠れて二足のわらじを履いてるつもりだった? その結果が、この前の中間テストなのかい?」
キョウカたちの通う月ノ波高校では、答案はウェブにアップされ、テスト結果はすべてメールで両親に送付されるしくみになっていた。
言い返す言葉のないキョウカは茶碗を置き、静かに耳を傾けるのみ。食べかけのわらじカツが冷めていくのがわかる。兄も弟も席をたち、気がつくとテーブルには4人だけだ。
「京ちゃん。何のために勉強するか分かってる? テストのためじゃないよ。ましてや、いい大学に入るためでもない」
「……」
「サインとかコサインが、何の役にたつのか、って思う? 誰にも分からない。でも、分からないからこそ、いま京ちゃんはその無限の可能性を、1つずつ試してる途中なの。そのための学校の勉強」
ノベルは、図書館に行っているという2人の嘘に怒っているのでも、中間テストの成績に怒っているのでもない様子だった。むしろ、月面ローバーのAIの訓練ということの面白さや重要さを、誰よりも深く理解しているのもまた、ノベルなのであった。
「それに。ローバーのAI開発は、甘くないよ。もし、京ちゃんのAIが誤作動して、そのせいで大事なローバーが破損したら、どうする?」
「えっ……」
「ローバーが居るのはゲームの世界じゃない。生身の月面。リセットも、セーブポイントに戻ることも、できないんだよ?」
キョウカは、父に言われるまで、一度もそんなことを考えてこなかった。
月面基地に人は居ない。たとえローバーが破損しても、次の有人探査まで、当分の間は修理できない。故障したローバーで、予定通りの探査や実験を行うことは難しいだろう。
そうなれば、世界中の研究者の夢と希望が詰め込まれた月面基地での実験は、大幅な軌道修正を余儀なくされてしまう。
もちろん、そうならないように、ローバーのプログラムは全て研究所の専門家によって、その安全性が厳しくテストされる。2人が訓練したAIのプログラムは、まだその1次試験さえ通過していないのだ。
「よく、考えよう? 月面基地にどれだけの人の夢がつめこまれてるのか、さ。それをリスクに曝してまで、京ちゃんがやりたいと思っているものは何?」
「……もういい。もういいよ!」
「京ちゃん……?」
「お父さんは、全然私のことなんて、分かってない!!」
運命の、7月7日が迫っていた。
「あ、ちょっ、京華。どこいくの? 待ちなさい」
キョウカは制止する母の声を振り払い、スニーカーのかかとを踏んだまま家を飛び出した。
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