第6夜「来週と来年」(下)

 レネの研究室は、科学館の裏手にある研究棟という建物の5階にあった。


 2人は休日で賑わう科学館のメインエントランスから隠れるようにひっそり佇む守衛所で受付を済ませると「想像していた大学の研究室と違うね……」なんてささやきあいながら、おそるおそる指示された場所に向かった。


 建物の中は、まるで宇宙船の設計図の中に迷い込んでしまったかのように、直線を基調とするガラスの壁と、滑らかな曲線を描く金属の骨組みに満たされている。

 部屋の中が見えるガラス張りの部屋がいくつも並ぶ真っ直ぐな廊下で、1室だけ明かりがついているところがレネの研究室のようだ。


「こんにちは。レネさん」


 金属の枠にはまる木製のドアを開けると、デニムパンツに七分袖のボーダー姿のレネが出迎える。学校で会ったときとは打って変わって、リラックスした様子だ。


「いらっしゃい。あらカレシ連れ?」

「え、あ、違いますよ! ほら、こないだ会ってますよね? バイト頼まれた、同じクラスの水城みずきくん」


 ユキは「どうも」と間の悪そうな顔で部屋に入り会釈する。


「ふーん、なんか怪しいなぁ。ま、いいか。あ、ゴメンね、引っ越してきたばかりで、まだ散らかってるけど、座って。いま、コーヒー入れるから」


 ――ほらね。レネさんはAIなんかじゃないよ。

 

 部屋の片付けもできないAIがコーヒー淹れるかってーの、とキョウカは心のなかでユキと父にツッコミを入れた。

 キョウカは、ユキの「彼女はAIなんじゃないか」という言葉と、父の「AIのような冷酷な理詰め」との評の、不思議な符合が、少しひっかかっていた。

 ユキは散らかった部屋を見渡していた。以前キョウカが言った「研究者って人と会ったり海外に実験しに行ったり、いろいろ忙しそう」という言葉を、ようやく理解した頃だろう。


 レネは初めて持った研究室の、初めての客人の来訪に浮かれている様子だ。

 ウキウキとコーヒーカップを選び、鼻歌なんて歌いながら部屋の片隅にある小型のエスプレッソマシンからコーヒーを注いでいる。

 キョウカはソファーの前の竹製のローテーブルに菓子折りを差し出す。


「あの、これ、父から預かってきました。研究室発足のお祝いだそうです」

「わ! 證大寺しょうだいじ先生から!? ありがとう。お菓子、かな? よーし、早速開けよう」


 こういった時折覗かせるレネのイタズラっぽい無邪気さがズルいと、キョウカは前々から思っていた。彼女は単なるクールビューティではなく、何かが欠けていて、それが不思議な魅力になっているような気がした。


 レネは3人分のコーヒーをテーブルに置き、ソファーに腰掛けると、おもむろに話し始めた。


「それで、キョウカちゃんは、月面ローバーのバイト、どうすることにした?」

「それが、じつは、まだちょっと悩んでまして……」

「あら、そうなの? どんなことで? もしよければ、聞かせてもらえる?」


 レネはサラサラと長い髪をたくし上げ、竹色のマグカップでコーヒーをすする。


「じつは、別のことを抱えてて。そっちをなんとかしないうちに、こっちを始めるのは、ちょっと手に余るかなぁと思って」

「ふうん。もしかして、恋の悩みかな。ウフフ」


 天然系に見えて、レネはなかなか鋭かった。

 突然に女子トークが始まってしまい、いよいよユキは気まずい様子だ。手当り次第といった感じの、行方の定まらない話を持ち出す。


「あの、全然関係ない話かもですが、竹戸瀬たけとせ先生、月面望遠鏡の観測時間マシンタイム持っていたりしませんか?」

「え?」


 月面望遠鏡は、ハワイ島にあるような大型の望遠鏡と同様に、世界中の研究者の共用施設である。利用したい全員が利用できるわけではなく、各国の研究者は競い合うように観測計画プロポーザルを提出し、審査で採択されてようやく観測時間マシンタイムが割り当てられる。月面望遠鏡は人気があるので、その採択率は10%に満たないという。


「いや、あの、じつは、系外惑星けいがいわくせいを観測しようとしてる先輩がいて、でもほら、学校の望遠鏡なんかじゃ当然見えなくて……」


 ユキは始めてしまった話を収束させようとするが、説明のための説明が必要になり、どんどん発散していってしまう。見かねたレネは「ふふふ」と優しく笑い、助け舟を出した。


「ああ、3年生の天文部のコでしょ? 羽合はわいくん? 珍しい名前だから覚えてるわ。この前の特別授業のときに、望遠鏡に質問があるとか言ってた――」

「そうです。それで、もしよろしければ、観測時間マシンタイムを分けていただけませんか?」

「ん? チョット待って。観測計画プロポーザル、採択されてたから……」


 そう言うとレネは、後ろにある机に戻り、無造作に置かれたラップトップでメールか何かを読んだ。


「えーと、私の割り当ては…… 4月25日ね」

「え!? 25日って、もうすぐ――来週じゃないですか?」


 キョウカは思わずユキと顔を見合わせる。


「レネさん。私からもお願いします。先輩が大事にしてる望遠鏡を売らなくて済むように、どうしても必要なんです」

「あ! そうか。キョウカちゃんの言ってた『別のこと』って、このこと?」


 キョウカが「先輩」と言うときの微妙な表情の変化をレネは見逃さなかった。色も太さも違う糸の集まりにしか見えない一連の会話の線から、彼女はきっと一枚の織物を紡ぎ出すようにで理解したのだろう。

 そう思うと、もうキョウカに反論の余地はなかった。


「じつは……」

「よーし、わかった! 系外惑星も楽しそうだし、あなたたちの青春に付き合ってあげる」

「え、ホントですか?」


 キョウカがぱぁっと明るい表情を見せると、これまで上機嫌でニコニコしていたレネもますます笑顔になった。すると、ピッと人差し指を立て「でも、1つだけ条件があるの」とキョウカにウインクした。


「月面ローバーのAIの訓練を手伝うこと!」


 レネはいたずらっ子のように八重歯を見せながら「後でメール送るけど、全部で5課題あるから、必ず全部やってね。それが条件」と続けた。


「あ、そうだ、言い忘れてたけど――」

「はい?」

「私の観測時間マシンタイム4月25日だけど、大丈夫?」

「えっ……2032年、ですか?」

「そう」


 レネは大事なことを言い忘れるというのは、證大寺家の夕食でも話題になるほど有名なことの1つだった。キョウカはユキにも事前に警告しておいたはずだったが、彼もまったく油断していたようだ。


「あれ? それじゃ先輩、卒業しちゃってるな……」


 こうして、月面ローバーのAIを訓練するアルバイトの報酬は、月面望遠鏡の観測時間マシンタイムとして支払われることが決まった。

 しかし、期日であるスバルの誕生日には間に合わず、キョウカがこのバイトに取り組むべきかどうかは、まったくの振り出しに戻ってしまった。


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