第7夜「泥舟と宇宙船」

第7夜「泥舟と宇宙船」(上)

 レネの研究室を後にした2人は、オレンジ色になった遊歩道を急いでいた。楽しい話につい長居してしまい、帰りの高速バスの時間が迫っていた。

 すでに陽が落ちかけ、吹き始めたばかりの海風が、吹き溜まりに桜の花びらを集めている。


「あーあ、月面ローバー、どうしよう。レネさんは、手伝ったらその代わりに月面望遠鏡を使わせてくれるって言ってたけど、先輩の誕生日に間に合わないし……」

「そうだね。まぁ自明だね」

「あ、でも私がやらないって言っても、水城みずきくん、1人でもやるよね?」

「当然。やらない理由はないな」


 ――聞くだけ無駄だったかもしれない。

 

 ユキはこういうのは、本当に即断即決だ。


 遊歩道に沿って並ぶ背の低い街灯が2人の足元を、月のように丸く照らす。

 キョウカは「あ、ゴメン。お父さんだ」と言いながら、スマホを手にとった。


竹戸瀬たけとせくんのアメリカ行きが正式に決まったよ。たぶん7月からだろう。彼女に伝えておいてね〉というメッセージ。すぐ下で、白衣の猫が「ヨロシク」とお辞儀する。白衣の科学者なんてステレオタイプもいいとこだが、無駄に可愛い。


 「お父さんてば。もう研究室、出ちゃったよ……」と小さくため息をつくキョウカの顔を、ユキが覗き込む。


「ん? どうした?」

「レネさん、7月からアメリカ行くみたい……」

「え!? まぁ研究者ってそういう感じなんだろうね。研究室のダンボール、ほとんど手つかずだったし」

「でも、さすがにこれは急すぎだと思うよ」

 

 どうやら、ユキにもタイムリミットがセットされたようだ。もうじき5月になる。時間がない。バスも急がなきゃ、とキョウカは少しだけ歩みを早めた。


 5歳児知能の月面ローバーの訓練の手伝いをするかしないか、それが問題だ。

 いつもだったら、キョウカがこうして優柔不断でグズグズしていると、頭の中に冷静と情熱の2匹の悪魔が出てくる頃だったが、今日に限ってなぜだか鳴りを潜めていた。


 足元を見ると、センサーに反応して街灯がつく。今度は三日月の形。

 そうか、さっきのはただの丸じゃなかった。新月だったのか、とようやく分かる。


 ユキはじぃっと興味深そうにキョウカの顔を眺め、優しく声をかけた。


「あの、證大寺しょうだいじさん?」

「ん?」

「大丈夫? だいぶ、考え込んじゃってるみたいだけど?」

「え? ああ、ゴメン、大丈夫」


 本当はあんまり大丈夫じゃなかった。その証拠に、キョウカは嘘をつくときのクセで、右の頬をなでていた。

 センサー反応式の街灯が「きみは現実に存在してるよ」なんて光を投げかけ、キョウカを現実世界に引き戻す。


 足元灯。半円――上弦の月だ。


「ダメだ。私は水城くんみたいに、スパッと1か0か決められないや」

「そう? でも證大寺さん、さすがに今回は答えは分かってるでしょ?」

「うーん、外堀が埋まってる感じはする。私が断ったら、レネさんも失望するだろうし、得ちゃんの計画も台無しだよね。でも――」


 足元灯。丸に近いがやや欠けている――十三夜月じゅうさんやづき


「まだ何か欠けてる気がして……。誰も気付いてない他の可能性、とか?」

「そうかな? 先輩の誕生日は過ぎたとしても、手伝えば月面望遠鏡の観測時間マシンタイムが手に入るんだよ。論理的に考えたらさ、1択じゃない?」


 スパッと決められずに口をもごつかさせるキョウカと対照的に、ユキはいつにもましてきっぱりと答えた。

 

 足元灯は明るい真円――満月だ。


「俺はさ、證大寺さんが居てくれたら、心強いっていうか、安心できるんだよね。やっぱ、竹戸瀬さんと2人ってのはどうしても気まずいし。ハハハ」

「え!? 水城くんでも、気まずい、とかあるの?」

「そりゃあるよ」

「そっか。そうだよね……」


 意外な彼の一面を見たキョウカは、ふと立ち止まって考えた。

 彼がレネさんのことを調べやすいように、月面ローバーのバイトを使って2人をつなぎとめ、その代わりに、月面望遠鏡をダシにして自分と先輩との仲を取り持ってもらえばいい――。


 ――そうだ。きっと、それでいいんだ。


 これは単なる取引、交換条件ギブ・アンド・テイクだ。そう考えると、キョウカは「今まで、なんと単純なことで悩んでたんだろう」なんて世界の全てが見通せるような感覚になった。


 足元灯。真円はまた少し欠ける――居待月いまちづき


 ユキは立ち止まってキョウカの前に立つと、照れ隠しに「へへっ」と鼻の下を指でこすりながら笑った。


「レネさんの月面ローバーのバイト、やってみない? 代わりに、羽合はわい先輩とのこと、上手くいくように、協力するからさ」

「えっ……」


 ――もう、こうなれば「乗りかかった船」だ。


「うん。わかった。やろう!」


 それまで、舳先へさきさえ見えないような、濃い霧に見舞われていたキョウカの航海は、急に水平線まで見えてくるように晴れ渡った。

 

 ――あとは、この船が泥舟じゃないことだけを祈って……

 

 そんなことを考えながら高速バスに飛び乗ろうとすると、案の定、ドアのところで足を滑らせる。


「わっ」

「あっ」

 

 瞬間、転びそうになるキョウカの手を、先に乗り込んでいたユキの手がむぎゅと掴む。


 温かくて居心地のいい、でもしっかりと男の子の手だ。

 もしこんな打算関係なんかじゃなくて知り合っていたら、なんてキョウカは思わなくもなかった。お台場で制服デートというのにも、ちょっぴり憧れていた。

 もちろん、優柔不断と即断即決の2人なんて、相性はかなり悪そうだったのだけど。

 

 キョウカはなんだか嬉しくなって「エヘヘ」と照れ笑いをこぼした。

 ユキは顔を真っ赤にしている。


「ああ……。ゴメン。ありがと」


 キョウカは握ったままになっていた手を、彼に返した。


 飛び乗った船は泥舟なのかもしれなかったが、仲間が1人乗っていた。


 とにかく彼と一緒に出航するしかない。

 高速バスだって、2人の門出を祝ってクラクションを鳴らしてくれている。


「水城くん。よろしく!」

「ん? ああ。よろしく。證大寺さん」


 こうして、打算に満ちた2人を乗せた船は、月面基地に向けて漕ぎ出した。


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