第4夜「月と地球」

第4夜「月と地球」(上)

 ――きれい。だけど、ピクニックにはちょっと寂しいとこかな……


 キョウカは太陽の光がさんさんと降り注ぐ月面でつぶやいた。雪山にも見えるライトグレーの砂丘の向こうに青空はない。漆黒の空に青い半月状の地球――半地球が浮かぶ。


 キョウカは振り返らずに、隣にいるはずのユキに声をかける。


水城みずきくん? そっちは、どう?」

「どうって? 證大寺しょうだいじさんのローバー、ちゃんと見えてるよ」


 キョウカとユキはVRゴーグルをつけ、放課後の理科室にいた。

 視聴覚室はVRシステムも古く、インターネット環境も貧弱なため、急遽、理科部の資材を使うことになったのだ。


「2人ともうまくログインできたみたいね。じゃあ早速始めましょ」


 レネはそう言うと手元のラップトップをカタカタと操作した。

 これはVRゴーグルを通じて月面基地にいるローバーを遠隔操縦するシステムである。

 ホワイトボード脇のモニターで月面を見ているはずの得居とくいがつぶやく。


「なるほど。これが月面基地ですか。大変な思いをしてきた割に、なんとも殺風景なとこですねぇ」


 彼女は「学校から月面ローバーを操作してみよう」とレネが言い出してから、部屋の手配や機器の準備に忙殺され、今ようやく腰をおろしたところだ。

 レネの指示に従って、2人はローバーの操縦を始めた。


「右奥に大きな丘が見えるでしょ? まずはあそこに登って」

「右、右、えーと」

「あれ、最近のコって、ラジコンとか、やったことない?」

「ありますよ! 弟の。 ――だいぶ前だけど」


 キョウカは少し強めにムッとして頬をVRゴーグルからはみ出させた。

 ローバーが見ている風景をゴーグル越しに見ながらの操縦は、ラジコンというよりゲームに近かった。

 キョウカが首をふると、やや遅れてローバーのカメラも左右に動いた。足元に目線を移すと、下半分が砂に埋まった前輪が見えた。

 

 ――やっぱり、月にいる。感覚は、ないけど。


 コントローラのレバーを倒すと、すこし間があってから視界が急発進する。キョウカは月の砂丘を滑るように進み、すぐに波乗りしている気分になった。


「アハハ。ゆかいゆかい」


 キョウカはだんだん楽しくなってきた。


「あー、證大寺しょうだいじさん、ちょっと待って。もう少しゆっくり楽しもうよ……」


 ユキの声に振り返ると、彼のローバーは砂丘の波3個分ほども後方になり、キョウカからは米粒のように見えた。彼は左右にカメラを振り、風景を見ながら、のんびりハイキングなんぞ楽しんでいるようだ。月の砂漠でラクダにでも揺られているつもりだろうか。


 2台の月面ローバーが丘を登りきると、すりばち状のなだらかな斜面に木が並ぶ、梅園のような場所に出た。花の香りを運ぶ風も、小鳥のさえずりも、踏みしめる遊歩道もない無表情な月面。ここでは、色のない人工の庭園のほうがいかにも自然に見える。

 キョウカが早くも地球が恋しくなった頃、レネの観光ガイドが始まった。


「ここはクレーターだった場所なの。いまは、電波望遠鏡としても使ってるのよ」

「望遠鏡?」

 

 しかし、想像している形の望遠鏡は見当たらなかった。

 そこにあるのは、磁器でできたグレーのデザートプレートの真ん中に、小ぶりな和栗のモンブランがちょこんと鎮座しているだけ。それの巨大バージョンだ。

 

「そう。クレーター全体が望遠鏡になっていて、インターネットからアクセスできるようになってるの」

「すごい! これが月面望遠鏡? ちゃんと完成してたんだ……」


 遅れて到着したユキは、思わず立ち上がってしまったらしく、あわててゴソゴソ手探りでイスに戻った。


 やっぱり男の子ってこういうの好きなんだね、とキョウカは弟を思うような眼差しをユキのローバーに向けた。


「一番底にあるのが管理棟。あそこに光学望遠鏡もあるの。道があるから、ゆっくり下りていって」


 モンブランには、管理棟という味も素っ気もない名前がつけられていた。しかも、道と言っても、単に何台ものローバーが行き来した、けもの道である。舗装もされていない。


「2人とも、ローバー用玄関に行って。緑マーカーのところ」


 建物の壁の少し手前に蛍光グリーンのポールが立っているのが見える。


「はい。なんとかがんばります」

「水城くんはオレンジのところで停まってね」

「わ、わかりました。やってみます」


 漏れ聞こえる声から、ユキも緊張していることキョウカにも伝わってくる。

 

 ――冷静沈着で、計算機みたいなキミでも、緊張はするんだね。


「2人とも慎重にね。ローバー破損したら1億円、いやもう少しするかな――」

「えっ!?」


 その金額がどうやって算出されたか考える間もなく、「とにかく、ぶつけたらヤバい」ということを本能的に理解した。

 しかし、そんな心配をよそにキョウカのローバーは壁に吸い込まれるように衝突する。見落とされた衝突警報が、画面の隅でむなしく点滅している。


「あぅ」


 キョウカは声にもならない低いうめき声を上げた。


「……あれ? 緑のところで停めたはずなんだけどな……」

「言い忘れてたけど、ローバーのカメラ映像が地球に届くのに2秒、キョウカちゃんの操縦の信号が月面ローバーに届くのにも2秒かかるの」

「えーと……?」

「だから、見た目ピッタリで操縦しちゃうと4秒分、行き過ぎちゃうんだけど」

「えええっ」


 慌てるキョウカ。すぐ隣で、得居がのんきな声をだす。


「なるほど。月と地球は38万キロも離れてますからね」


 修理費1億円を、どんな定理から導いてくるつもりなのか。


「え? え? ええええぇぇ。先に言ってくださいよ!」

「あらぁ、ごめんなさい。言ってなかったっけ?」

 

 オーバーランしたキョウカのローバーは、管理棟モンブランの壁面をクリームのようにこそぎ落とし、停止した。

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