第3夜「王子と姫」(下)
その日の放課後、担任の
――え、なんで? なんでレネさんが学校にいるの?
「あら、キョウカちゃん。こんにちは。あなた、
「あ、きたきた。入って」と手まねきする得居の左でお茶をすするレネが、長い髪を耳にかけ会釈する。若竹色のブラウスにパンツスーツで、スキのない美しさ。
「こ、こんにちは、レネさん。おひさしぶりです」
微笑むレネに見とれながら部屋に入ると、キョウカは再び驚きで声を失う。机をはさんでレネの向かいに、ユキが無言で座っていたからだ。
「――
「よ。昨日はごめんね」
「えっ……」
キョウカがそのセリフを聞くのは今日2回目だった。1回目は今朝。
まだ誰も来ていない教室で待ち合わせし、スマホを返してもらうとき。「スマホ取り違えのことはもうおしまい」と思っていたのに、まだなにかあるのかと、キョウカは少し不安になった。
とはいえ、ユキも部屋に来たばかりで状況が飲み込めていないのか、憧れのレネに目も合わせられず、小ぢんまりとしている。キョウカはその横顔に「こっちこそ、ゴメン」とささやきながら、すぐ隣のイスに腰掛ける。
「あれ? もしかして
「そうなんです。父の――」
「あー、竹戸瀬先生は證大寺先生の研究室のご出身でしたか。なるほど」
得居はショートヘアの黒髪を揺らしながら、わざとらしくうなずいた。キョウカは、この数学教師の「なるほど」が〈正解を知ってる問題を、わざわざ別ルートで解いて答えを再確認できて快感!〉の意味だと知っていた。
彼女は数学以外がまるで不得意という憎めないキャラクターで、多くの生徒からは「得ちゃん」の愛称で慕われている。
「レネさん、今日はなんで学校に来られたんですか?」
「あぁ、ほら、
彼女が卒業生であることを、キョウカはこのとき初めて知った。地元では、通常「ツキナミ高校」なんて
「SSH?」
「スーパーサイエンスハイスクール。始業式の日に説明しましたけど?」
首をかしげるキョウカを、得居がチラッと目でたしなめる。2人のやりとりにレネはクスリと笑うと、話を続けた。
「それでね、授業するかわりに高校生に私の月面基地での研究を手伝ってほしいってお願いしたら、得居先生が協力してくださることになったの」
「あ、そうなんですか。でも、なんでまた私と、水城くんが?」
レネはまだ状況の半分も理解できていないような表情のキョウカとユキを見て、得居に優しく微笑んだ。
得居は証明問題を始めるようにして語りに入った。これは長くなりそうだ、とキョウカは覚悟した。
「水城さんは理科部の代表として参加します。その代わりに、SSHに指定されるともらえる、国からの援助金を理科部の活動費に上乗せするわけです」
確かに丸く収まっている。キョウカは「なるほど」とモノマネで返したいくらいだった。
「ああ、当然、部長の
「アハハ。大人の事情ですね?」
おどけるキョウカを見てクスッと笑うレネ。それを見ていたユキと得居も少し顔がゆるむ。
「理科部は活動費が得られて満足、水城さんは専門家から月面基地について聞けて満足、私もお役所への報告書に書くことができて満足――」
何か数学の未解決問題が背後に潜んでいるとでも言わんばかりである。
こうなると、得居の証明マシンガンは手がつけられなくなる。ただただ、黙って嵐がすぎるのを待つしかない。
「竹戸瀬先生のリクエストも満足。校長先生もお喜びになる。こんなに全てが上手くいく解、なかなかお目にかかれないですよ」
「あれ? 私はなんで呼ばれたんでしたっけ?」
キョウカが聞いたのは完全にヤブヘビだった。
「ほら、證大寺さん進路調査票に〈いま決められません。バイトでもして確かめてから〉なんて書いてましたよね」
「え?」
「でも、本校ではアルバイトは一般に認められていません。どういうつもりで書かれたんでしょうか?」
「えと、えっと……」
キョウカに返す言葉はない。
どう考えても、この証明のほころびは見つけられなさそうである。
証明できないことが、すでに証明済み、という感じ。
「竹戸瀬先生のお手伝いなら学校公認ですから、確かめたいことをお確かめになって、それからまた進路指導室でお会いすることにしましょうか?」
そう言う得居に続いて、レネは何かひらめいた様子でキョウカに微笑んだ。
「――じゃあさ、今から少し体験してみて、それで決めることにしよう。ねッ」
彼女は長い髪を耳にかけ、いたずらっ子っぽく八重歯を出して「ニッ」と笑った。思いついたことを口に出さずにはいられないのが、表情ににじみ出ている。
「水城くん、だったかしら? キミもそれでいい?」
「はい!」
彼に断る理由はない。そんなの証明済みである。
「得居先生、視聴覚室にVRゴーグルありますよね?」
レネは見かけによらずガンガン行動するタイプのようだった。
この日、キョウカはレネに〈月面基地から来たかぐや姫〉なんて少しワイルドなあだ名をつけた。
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