一陣の風

松長良樹

一陣の風


 ――新條隼人は最近、急に早口になったねと人から言われたとき、なんだか不思議な気分がした。

 自分ではまったくそうは思っていなかったからだ。ただ少しばかり思い当たる節もある。なんだか最近気が短くなったようで、多少苛々するのは確かなのだが……。

 

 近頃、周りの人間のやることのテンポが遅くてまるで田舎にいるように感じてしまう。会社に行っても職場の人間の仕事ぶりが歯痒くて仕方がない。


 どいつもこいつも間抜けのように見えるのだ。

 いったいどうしたと言うのだろう? 

 

 隼人はどちらかと言うとおっとりした温厚な性格の青年だった。その隼人にいつからか、確実に変化が生じ始めている。 


 例えば朝の通勤バスを待っていたとき、生憎の雨でバスが遅れて来ない時があった。そのとき隼人は痺れを切らし、歩いたほう早いと感じた。

 

 だが、距離を考えればそんな訳がないのである。しかし彼はそう感じたのだ。それでどうしたのかというと隼人は歩き出してしまった。

 それもバスよりも早く……。

 

 そう、彼の速足は誰よりも早かった。それは競歩大会で優勝できるほどに。

 

 会社に着いた彼の目の前には、ポスターの校正やら、グラフの製作やらの面倒な仕事が山のように積んであった。いつもならぶつぶつと愚痴をこぼしながら、それを順々に片付けるのだが、いつもの隼人とはなぜか違っていた。

 

 なんと机上の山のような仕事をまったく意欲的に目にもとまらぬスピードでこなしていったのだ。キーボードの速さはブラインドタッチのレベルではなかった。

 

 狂ったようにタイプを打つ隼人にパソコンの処理速度が追いつけず、画面がフリーズしてしまう程だった。まわりの同僚はただただ驚愕し、感嘆し、恐れ慄いた。


 そこに神業と言うものを見たのだ。


 同期に入社した牧田が思わず『おまえどうしちゃったの?』といったきり、目をぱちくりさせ呼吸を忘れそうになった。

 

 隼人はそのとき通常の人間なら優に一週間はかかる事務仕事を、わずか数十分でこなしてしまっていた。まさに目にも留まらぬ早業だった。周りの人間が驚きすぎて一瞬にして固まり、寒気を覚えた。 


 ポップライターの亜希は会社で一番キーボードが早かったが、口をあんぐりと開けたまま暫らく閉じられなかった。

 まわりの人間達はさすがに奇人でも見るようで、上司の伊藤が彼に話しかけても、その答えがあまりに早口で蚊の羽音のようにしか聞こえてこず、結局誰も隼人と悠長に会話をしようなどとは考えなくなってしまった。

 

 それは隼人が新卒で広告代理店に入社してから二年目の驚異の出来事であった。

 

 

 ――彼の両親もただ驚くより他になかった。


 息子の動作がえらく速いのだ。姉の未希は『隼人の姿がこの頃、霞んできたよ』と少し気にかかることを言ったが、それからというもの未希は弟の姿をほとんど見かけなくなった。

 

 隼人の目に他の人間の動きがスローモーションに映りだしたのは、それから間もなくだった。家族の声が低音でなんとも不気味な声音に聞こえてくる。


 こうなると苛々どころではなくなった。自分がどうにかなってしまったのかと思ったが、周りの事象のことごとくが遅くなったのか、自分が異常に速くなったのか、分からなくなった。でも良く考えるとどちらでも同じことだと悟った。


 時間が経つにつれ、その変化は益々加速し決定的なものになった。

 ついに周りの人達の動きが完全に静止したのだ。それと同時に取りとめのない孤独と恐怖が隼人を襲った。


 街中に石のように動かない人々が溢れている。誰もかれもが無言の彫像だ。誰とも話せず、凍ったように動かない時間。

 

 彼は頭を抱えて会社のデスクにうな垂れ、座り込んでしまった。

 中天に太陽があり、それは灼熱の陽光を放つ決して沈まない太陽だった。全身が訳もなく小刻みに震えた。取り残されたような疎外感。


「なんなんだ、これは! いったいどうなっちまったんだ!」


 隼人は堪りかねてありったけの声で叫んだ。

 固まった街中を廻ったが、どこもかしこも動かない風景を見事に作り上げていた。 気が狂いそうで、冷たい汗が頬を伝った。

 

 絶望しながら家に帰った隼人は完全に打ちのめされた。


 テレビを見ながら母が石のように固まっているのだ。ソファに座り、リモコンを手に持ったまま固まってしまった母。たまらず肩を揺すってみたが無駄だった。微動だにしない。恐ろしかった。なんとも得体の知れない心持ちだ。

 

 隼人はいたたまれず街中を駆け出した。どこかで動くものを見たかった。

 隼人はこう思った。

 ――通常から高速で動くものであればまだ止まらずにいるかも知れない。

 

 隼人は街をかけ廻った。どこかに何か動くものをもとめて。

 しかし電車も車もオートバイも全く動かない。まるで額縁の中の風景画となんら変わらなかった。諦めかけた時、自動車の修理工場が目に入った。

 

 大きなガレージだ。そして重く低い音が微かに隼人の聴覚をとらえた。

 聞き耳を立て、無意識に中に入ると、二人の氷の男がレーシングタイプの外車のボンネットを開けて中を覗き込んでいる風景が目に入った。


 その視線の先を追うと、そこについに動くものがあった。それはエンジンの冷却ファンでそれは確かに動いているのだ。

 動くと言ってもそれを長時間凝視したままでやっと動きを見止める程度の至極ゆっくりとしたものだった。それに隼人はえらく感動した。


 なぜか泣けてきて仕方がなかった。そのうち隼人は疲れて路面に座り込んだ。

訳のわからぬ虚脱感、そして疎外感。


 いったいこれからどうしたらいいのかと思い、隼人は青い空をただ呆然と見上げていた。


 しかし暫くして空に黒い塊を発見した。最初はまったく何か解らなかった。カラスか飛行機かと思ったが違っている。妙に気になるものだ。


 隼人は無意識に走った。近くの大きなビルに入り、階段を駆け上がった。そして三階の窓からそれを確かめようとしたが、まだ上だ。速足で四階まで上がり、その物体を観察した。そしてそれが何かを知ると、驚きと恐怖で身が縮み上がった……。


 それは可憐な少女だった。空中に絶望的な表情をしたまま硬く目を閉じてうつ伏せに浮いているのだ。


 しばらく呆然とその異様な光景を眺めていた隼人だったが、状況が徐々に飲み込めてくると、思わず生唾を呑み込み、戦慄せずにはいられなくなった。


 ――そしてついにそれが自殺だと思い当たった。


 今、ビルの四階の窓からそれを見ているのだが、少女はこのビルの屋上から身を躍らせたに違いないのだ。

 

 隼人は12階建てのビルの屋上に駆け上がろうとした。だが階段から屋上に通じる鉄のドアは施錠がしてあり、隼人の行く手を阻んだ。

 思わずドアを叩いた隼人だったが、冷静に考えるとあの少女が屋上から飛んだとしたら、屋上まで行けるルートがどこかにある。


 隼人はいったん一階まで引き返し、ビルを一周すると外付けの非常階段を発見した。急いで階段を駆け上がる。屋上への入り口はフェンスにチェーンがしてあったがそれは容易に飛び越えられた。


 大きな看板を支える鉄骨の間をまっすぐ進むと、パラペットの上に小さな赤い靴を発見した。身を乗り出して下を見ると少女が見える。

 その時の隼人はもう全身汗まみれだったが暑さなんて微塵も感じていなかった。


「――ばかやろう」


 隼人は屋上に座り込んでため息をついた。だが隼人は思い立ったように、地上まで降りて少女を見上げたり、また戻って上から見下ろしたりを何度も繰り返した。


 冷たい汗が頬を伝う。どうしても気だけが焦ってじっとしていられない。

 

 そうしているうちに思わぬことに気づいた。見上げる少女の姿が微かではあるが大きくなったのだ。

 

 錯覚とも思ったがそうではなかった。例の自動車ファンの動きが脳裏をよぎる。

 それに気づくと例えようもない焦燥感が隼人を襲った。超スローモーションだが、少女は確実に落下しているのだ。

 

 闇雲になんとかしなくてはいけないと思った。出所不明の使命感のようなものが隼人を動かし始めていた。


「しかし、どうする? どうやって救うんだ? 俺はスーパーマンじゃないんだ」


 隼人は公然と独り言を言った。誰の目も気にする必要なんてない。


 少しの間その場を行ったり来たりしていた隼人だったが、突然、閃いたように階段を駆け下りた。向かった先は近所のホームセンターだった。


 そこは隼人が良く行くホームセンターだったから何がどこにあるか、おおよその見当がついている。大きなマットレスを二枚台車に乗せる。積むにはそれが精いっぱいだった。


 バランスをとるのが難しかったが何とかそれを少女の落下予想地点まで運ぶ事に成功した。もちろん料金は払っていない。店員が表情もなく無愛想だったからだ。

 

 目を離している間に少女の姿は益々大きくなっていた。

 いつの間にか地面まで数メーターの地点まで迫っていた。隼人はもうここを動けないと思った。

 

 大きく目に映る少女を観察すると中学生の制服を着ていた。隼人はマットレスが衝撃でずれないように両手で押さえて足をふんばった。


 時間が経過すると少女は地面と数十センチの至近距離に迫っていた。こんなんでこの子が救えるのかという不安が胸をよぎる。

 下から見上げると目を閉じた少女の白い顔が目の前にある。


「カミサマー どうかこの子をお助けください!!」

 

 そう言って隼人は無意識に歯を喰いしばった。



     *   *



 少女は身体が弾んだのでえらく驚き、頭を押さえてふらふらと立ち上がった。そして目の前に赤い靴が置いてあったので、もう一度驚いた。


 何が起こったのかと周りの人間たちが集まってきた。遠くから救急車のサイレンが聞こえている。

 人々の安堵のため息。 そして目撃者らしい大学生はこう語った。


「僕は少女が屋上から飛び降りたのを見ていたんです。それが実に不思議なんです。

あっ!と思いましたが、もうどうすることも出来ませんでした。それで僕が地面を見たときにはあんな大きなマットレスなどなかったのです。いったいいつの間にあのマットレスは現れたのでしょうか。

 まるで狐につままれたようです。透明人間か、或いはスーパーマンのように凄く速く動ける人間でもいるというのでしょうか……。 僕にはさっぱりわかりません」


 

 ――泣き顔の少女の頬にどこからともなく一陣の風が吹き付けた。

 

 気のせいか、その風が少女には妙に暖かく感じられた……。


                 


                    了

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一陣の風 松長良樹 @yoshiki2020

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