第六話 準備

「今日はどうなさいますか?」



美容師さんの声で、ふとわれにかえる。生まれてこのかた、髪型にこだわったことがない。いつも短くしてください、くらいのオーダーしかしないのだ。



「短く…あ、いえ…こんな感じにお願いします。」



目の前に置いてあった雑誌の表紙を指さす。最近ブレイクしている若手俳優さんだ。個人的には自分と輪郭りんかくが似ていると思っているので、目にとまった。



「わかりました。軽くパーマかけますけど、よかったですか?」


「はい。お願いします。」



美容師さんとの会話を楽しめるタイプではないため、軽く目を閉じてときの流れを待つ。



「…さま、お客さま。」


―――はっ、寝てしまった。



慌てて目を開けると、パーマの席への移動をうながされた。髪にはパーマの器具がセットされている。



「何かありましたら、声をおかけください。」


「はい。」



暖かさで眠気が増強ぞうきょうされてしまう。ハンカチは右のポケットに入れるべきか、左のポケットにいれるべきかという、はっきり言えばどうでも良いことを考えて、眠気をます。


カットやシャンプーなど、パーマコースが一通り終了すると、美容師さんが鏡で全体像を見せてくれた。



「こんな感じになりましたが、いかがですか?」



少しパーマが強すぎる気もするが、すぐにとけてしまう髪質かみしつらしいので、これぐらいが良いのだろう。自分で言うのもなんだが、結構似合っている気がする。



「はい、いいかんじです。ありがとうございます。」



お会計を済ませ、外に出ると、雨が降っていた。さすが期待を裏切らない、なんだか悲しくなる。とはいえ、地下鉄への入口が目と鼻の先なので、折り畳み傘を展開するまでもなかった。



―――ブーッ



「あれっ?」



改札を抜けようとすると、警報音が鳴り、足止めをくってしまった。残高は十分のはずなのだが。考えてもしかたがないので、駅員さんのいる改札へ向かう。



「あー、磁気じき不良ですね。再発行の手続きをしますので、少々お待ちください。」



さすがに磁気不良は初めてだった。いろいろな物と一緒に詰め込んでいたのが良くなかったのだろうか。



「残高はお間違いないですか?」



画面には金額が表示されているが、残念ながら、正確な数字までは覚えていない。



「たぶんそれぐらいだったと思います。」


「こちらのシステムで管理していますので、おそらく問題ないと思いますが、もし何かありましたら、お手数ですがコールセンターへお願いします。」



駅員さんからカードを受け取り、そのまま改札機にタッチする。さすがに今度は反応してくれた。



―――結構人が多いな。



普段と違う時間帯とはいえ、構内にはかなりの数の人がいた。あたりを見回すと、ほとんどの人が同じアイドルグループのグッズを持っていた。どうやら付近でコンサートがあったようだ。


アイドルのコンサートには一度だけ行ったことがある。あまりにも抽選チケットがとれず、あきらめかけていたその時、友人が誕生日プレゼントにチケットをくれたのだ。自力ではおそらく無理だったので、大変にありがたかった。



―――あの時は台風が近づいてて、大変だったよな。



さすがに、自分のせいで天候が崩れたと思うほどのネガティヴ思考ではないのだが、少しショックを受けた記憶がある。そんな過去を思い出していると、電車が到着した。ぎりぎり乗れそうだったので、ドア付近に乗り込む。



―――今日もこーくんかっこよかったよねー。


―――えーっ、りくくんのがかっこいいもん!



背後では、大学生らしきアイドルファンによる会話が繰り広げられている。なんだか懐かしい気分になる。



―――やっぱり良いよな。またコンサート行ってみたいな。



残念ながらチケットの抽選に当たる気はしないが、社会人になったので、金銭的事情から入れなかったファンクラブに加入することができる。ファンクラブ会員は当選確率が高いとアナウンスされていた記憶があるので、今度の休みに入会の手続きをとってみよう。



―――右側のドアが開きます。ご注意ください。



「すみません、降ります。」



最寄もより駅はあまり人が降りないところで、降りるのに少し苦労した。なんとか間をすり抜ける。


残念ながら雨はまだ上がっていなかったので、折り畳み傘を開く。折り畳み傘にもいろいろな種類があり、わりと高級な物を使っている。普通の傘を持って行っても、盗まれる、もとい、間違われることが多いので、最近はほぼ折り畳み傘で済ませている。あるしゅの自衛策だ。



―――やっぱり会社の近くが良いよな。



十五じゅうご出版のそばには市役所などがあり、市の中心地的な場所である。アパートを借りるにしても、予算的に難しいのだ。会社の方で交通費が支給されるので、遠くても問題はないといえばないのだが、やはり近い方が何かと便利だ。



―――せめて地下鉄で一駅ぐらいの場所かな。



家に帰ったらパソコンのことを調べるついでに、調べてみよう。引っ越すのならば、早いほうが良いだろう。



「ただいまー。」



電気をつけようとすると、少し明るい。どうやらトイレの電気がつけっぱなしだったようだ。最近こういうことが多い。疲れているのだろうか。


高校時代からパソコン関係は得意で、パソコンを作ったこともある。自作じさくパソコンというと大変なイメージかもしれないが、想像するよりも簡単だと思う。さすがに宮野先生のパソコンを分解するわけにはいかないので、内部的な問題であれば、買いかえかメーカー修理をお願いするつもりではいる。



「まあ、だいたい接触せっしょくが悪いとか、スタートアップのアプリが重いとかだと思うんだけどな。」



ハウツー系のブログを何本か読んでみたが、現物げんぶつを見ていないので、何とも言えない。手に負える範囲であることを願おう。


物件のほうもいくつか見てみたが、やはり少し高く感じた。今住んでいるところがかなり安いということもあるが、やはり市の中心地となると、同じ間取まどりでは厳しそうだ。



「しばらくは無理そうだな。」



引っ越しの費用や敷金しききんなどもあるので、やはり引っ越しの予定はしばらくたちそうにない。この部屋にも愛着がわいているので、もう少し現状維持になりそうだ。



―――ブーッ、ブーッ、ブーッ



「あ、もしもし。」



―――ご無沙汰してます、琴美ことみです。



「ああ、琴美さん。ご無沙汰しています。」



電話の主は琴美さんだった。兄と結婚してもう四年になる。



「何かあったんですか?」



―――お母さまのことで、少しお伺いしたいことがありまして。



「僕に…ですか?」



母のことなら、もちろんだが兄もよく知っている。たいていのことは兄に聞けばわかると思うのだが。夫婦喧嘩げんかでもしているのだろうか。そんな犬も食わないような想像をしていると、琴美さんが事情を説明してくれた。



―――実は娘が2歳になりまして、そのお祝いをお母さまからいただいたんです。お礼をお伝えしたところ、今度ご実家に呼んでいただきまして…。お母さまのお好きなものなど、お伺いできればと思いまして。



なんとなく事情がわかった気がする。琴美さんはとても真面目まじめな方なので、何かお土産みやげをと思ってみえるのだろう。肝心かんじんの兄はというと、そういったことには無頓着なので、何でも良いんじゃない?ぐらいの感じで流されてしまったのだろう。



「そうでしたか…すみませんお気遣いいただいて。そうですね…。あまり甘いものは食べないですね。ああ、おせんべいとかよく食べてますね。」



母の姿が頭に浮かんだ。母はおせんべいを細かくしてから食べる派で、父がよく不思議そうに見ていた。父いわく、そのまま食べればよいのに、とのことだった。



―――わかりました、おせんべいですね…。ありがとうございます。…あ、ご就職されたんですよね。おめでとうございます。



「あぁ、ありがとうございます。がんばります。」



突然の祝意しゅくいに不意を突かれたが、やはり誰かに祝ってもらえるというのは、よいものだ。なんだか心が明るくなる。電話が切れた後、鼻唄まじりにお風呂へと向かった。



「母さん、元気にしてるかな?」



湯舟につかりながら、そんなことを呟く。電話で連絡はとっているものの、実家に顔を出したのはもう半年以上前になる。


母はどんと構えるタイプで、几帳面きちょうめんだった父とは正反対の性格だ。車にひかれたと連絡したときも、そんなに動揺はしていなかったと思う。お見舞いには来てくれたのだが、顔を見るなり、よかった元気そうだ、と一言だけ。あとは担当の看護師さんと世間話を始めた。ちなみにその時漏れ聞こえてきた「院内の愛憎渦巻あいぞううずまく噂話」は、個人的な怖い話ベストスリーにランクインしている。


父は、僕がまだ小学生だったころに亡くなった。父がガンだったことは、高校生になってから知った。いくら保険金が入ったとはいえ、一人で兄弟ともに大学まで出してくれた母には、感謝してもしきれない。



―――久しぶりに顔出そうかな。



今の仕事は、イロハの「イ」ぐらいしか学べていないが、少しづつわかることも増えてきた。もう少しゆとりができたときには、報告も兼ねて実家に行くことにしよう。



―――さてと。よしっ!



最近、気合いを入れてから立ち上がることにしている。不運な自分にとって、立ち上がるということには危険が伴う。頭をぶつけないとも限らないし、いきなり滑って転ぶかもしれない。いくら不運とはいえ、それを避ける努力をしない理由にはならないのだ。


夜ごはんは、近くのコンビニでかつ丼を買ってきた。冷蔵庫にトマトとレタスが半分転がっていたので、サラダも用意した。そろそろ自炊生活に戻らないと、食費もばかにならない。



―――あ、ドレッシングの期限が…。



いつの間にか期限が切れているものナンバーワンだと思っている。ただ、幸いなことに、期限は今日までだった。残量は多く、とても使い切れない。やはり小さいボトルを買うべきだった。ただし小さいものは基本的に割高になる。これが一人暮らしの辛いところである。


結局残りは自己責任で消費することにして、冷蔵庫に戻した。目覚まし時計をセットしつつ、ベッドに入る。電池が切れると困るので、目覚まし時計は二つ用意している。これにスマホのアラームもあるので、毎朝アラームの大合唱が始まるのだが、これも一人暮らしあるあるだと思っている。


翌朝、電池が切れてしまって鳴らなかった目覚まし時計を横目よこめに、スマホのアラームを止めた。朝はそんなに弱い方ではないので、すんなりと目は覚める。



「ふなぁーーっ…。」



伸びをするとつい声が出てしまう。近所迷惑な気もするので、しりすぼみにボリュームを小さくした。


ひとまず顔を洗い、歯磨きをする。今日は宮野先生のお宅にお伺いする日である。変な緊張感がある。仕事としていくのだが、どうも他人、特に女性の部屋に入るのは気が引けるのだ。数日間、この感覚に悩まされている。今後、女性作家さんの担当につくこともあると思うので、慣れていくしかない。



―――ここも最近混んでるな…。



最近、朝ごはんはぼう有名牛丼チェーン店で食べている。お気に入りの定食があるのだ。値段も安いし、忙しい朝の味方だと思う。


基本的に現金派なのだが、時代の波に押されてスマホ決済も始めている。ポイントがたまることが楽しく、不要不急な買い物が増えてしまった気もする。今日の支払いもスマホ決済だ。確かにスピーディーで、財布を出す手間もない。



「ごちそうさまでしたー。」



颯爽さっそうと店を出ようとしたが、入店しようとするお客さんとお見合いをしてしまった。なんだか恥ずかしい。解決法があればテレビなどで紹介してほしいものだ。


いつもより一本早い電車に乗り、会社へ向かう。窓の反射を利用して身だしなみをチェックする。以前面接に向かう際、ネクタイを忘れていることに気づかせてもらえた。


窓は強い味方である。

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