九十九藻屑・①
中川さとえ
出てきた吹き出物。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ…。
指先から音、音、音。
しつこい、うるさい、ウザい、ウザイ、ウザイ。
ガタガタガタガタガタ。
やたらハデにハデに鳴るから知らない人が見る、ほら見てる。チラリ、チラリ、チラリ。ほら、ほら、ほら。みてる。みてる。
止まれ指、止まればか。
ああ、ほんとにイヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ。
ガタガタ鳴る指で、探して探して探しても、ネットの中はぐるぐる巡って廻って結局元の処に戻る。Googleもヤフーもウィキもみな、みな、みんな。
…コロナが流行って良かったな、がもしあるとしたら、ずっとマスクしててもいい、てことかもしれない。
マスクがなかったら、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
クシュクシュクシュ…?
きゅぷきゅぷ…?
ヘンな音、ヘンな音。
やめて、やめて、やめろよっ。
この音、耳から入ってくるこの音、これはそのままハンマー。ほら、ぐわらぐわらって、からだのなか砕いていく。ほら、砕ける、砕ける、くだけた、砕けた、
動いた
ほらもぞもぞ。動く
ずっとスマホに注がれてた視線は乱暴無惨に虚空へ飛ばされ、そしてそこでまた滞る。本物の永遠は ものすごく短い。
やっぱり医者にいこう。行ってみよう。
するともう指は全然震えもしないで、それこそ事も無げに、場所をひとつ呼び出す。さあ、ただ従おう粛々と。
朝の道を通りゆく人々は、みんなそれぞれの行き先に忠実すぎるものだから、うなだれて道を逸れて行くひとりに気付いた者はいなかった。
そして、
その皮膚科医が、次の患者を呼ぼうとしたその時
「先生」
と、診察室に入ってきたのは、長年調剤助手と受付業務をやってくれてる彼女。正しい資格は薬剤師。
「次の患者さんなんですが…、」
「はい。どうしました?」
「えーっと、頬っぺたにデキモノが出来たそうなんですが、それが…」
頬っぺたにデキモノ、それは問診票にもちゃんと書かれてる。
「あと、保険証は無いそうです。」
ああ、それは問診票にはない。
「忘れた、ではなくて?」彼女は頷く。
「そうですか。わかりました」
「…で、先生、」「…はい?」
彼女はものすごくものすごく、ものすごく珍妙にしていた。
「次のかたどうぞ。」
今度こそその初診の患者はちゃんと入ってきた。
問診票にある年齢と、学校名が解る制服姿と下げたまんまの通学鞄、中学生であることはたぶん間違いない。本来なら今は授業中なのだろう。
「ご免なさい、お待たせしましたね、こんにちは。」
中学生は顔を上げない。
グレーのポリウレタンのマスクをして、頑な、な感じでうつむいてるまま。
けれど、そんなことを気にする様子もなく、皮膚科医はどんどん話していく。
「頬にデキモノ、ですね、いつくらいから出来ました?」
「わかんないんです。」
見事なくらいの蚊の鳴くこえが返ってくる。
「痛いですか?…痒いは?」
「どっちもないです。なんもないです。」
うつむいたまんまで、声だけ。
「じゃあ診てみましょう。マスクとってくださいね」
中学生はグレーのマスクを外して、やっと顔をあげた。実は受付のとき、さっきのお姉さんの前でマスクをとった。「見せてもらっていいですか?」と聞かれて断れないと思ったから。
すると、さきのお姉さんの反応が自分が想像していたのと全く違ったのだ。
「はい、じゃあ少しお待ちくださいね。」と全く全くフツウだったんだ。
だから、もしかしたら、もしかしたら、ふつうなデキモノなのかもしれない と少しだけ希望みたいなものが生まれていたのだ。
案の定、皮膚科医もごくごく普通に自分の頬に触れて、軽く押したり、さすったり、痛いですか?とか痺れてませんか?とか聞いてる。
「アレルギーとか、あります?」
一通り触り終えたのか、皮膚科医は机に向かい何かしら書いてる。
「ないです。」
「家族さんとかには?」「…わかんないけど、ないと思います。」
すると皮膚科医は、ちょっとちゃんと座り直す感じで、ほんとはきちんとアレルギーの検査と血液検査をしたほうがいいとは思うんです、と言った。そして、だけど検査するとどうしても費用が出てしまうので今日の所は止めておきましょう、お家のひとと相談しないとね。と続けた。そして、あぁそうそう、といかにも いかにもなんでもなさげに加える。
「音がして、動く…?」
中学生は頷いた。猛然と頷いた。
「なるほど。」皮膚科医は何かしら考えているようにも見える。
「もう1回聞きますが、痛くないんですね?」
中学生は頷く。
「痒くもないし、痺れてもない、ですよね?」
中学生は頷く。
「そう、腫れてもいないし、熱もなくて、リンパも問題ない。」
皮膚科医は、ふんふんふんと唱ってるようにも見える。
デキモノがもごもご動いてクシュクシュ音を出した。
「せ、先生、」「はい?」
皮膚科医はマスク越しでもわかるくらいにこやかだ。
思いきって聞いてみた。
「これ、なんですか…?」
「人面瘡ですね。」
一番聞きたくなかった言葉を聞いたこと無いくらいニコヤカに明るく爽やかに告げられた。
「軽い人面瘡、が適当だと思います。」
人面瘡に軽い重いがあるのはしらなかった。
「…それって、都市伝説じゃなかったんですか?」
すると皮膚科医はものすごく真面目に答えてきた。
「そう、存在してる確証は出て無いんです」
そして続ける。
「でも動いてしゃべるデキモノの記録、ていうのは人面瘡しかないんです。確かに古物な文献で、都市伝説クラスの信憑性のものを集めたんだろ?の可能性がものすごく高い、てものではありますが。記録とはいえるので、データだと言えなくはないんですよ。」
クシュクシュ、きゅぷきゅぷが少しだけ大きくなった。
「これ…、しゃべってるんですか。」
「そうだと思います。」
「なんて、言ってるんですか?」
「どんな音がします?」
「クシュクシュ、とか、きゅぷきゅぷとか、レジ袋擦れたみたいな水のなかのスポンジみたいな。」
すると皮膚科医が言う。「なんかずいぶん可愛い音ですね」
「え」
かわいい?
…そうか
確かに可愛いらしい音、でもある。
「やっぱり軽い若しくは明るい人面瘡だと思います。」
「そうかなあ、」
「大丈夫です。赤ちゃんみたいにむにゃむにゃしゃべってるだけですよ、きっと
。」
そして、その例の信憑性が如何ともし難い文献の類いの中には、ずっと呪いのコトバを吐き続けるようなのもあって、これらはかなりたちが悪い。など、皮膚科医はぶつぶつ独りで言っている。
「…でも、あなたのは大丈夫。」
そうですか、と言いかけて中学生は、重大な事実に気がついた。
「あの、どんな音か?て、…先生、こいつが出す音、聞こえてないんですか?」
「あ、バレました?」
皮膚科医は満面の笑みで認めた。マスクしててもはっきりわかるくらいの満面の笑みだった。
けれど直ぐに皮膚科医は真顔になって、まるで椅子なのに、正座するみたいにきちんと座り直して続けた。
「正直に告白します。私にはあなたのデキモノが見えてもいません。受付の彼女もそうなんです。おまけに私は頬を触診したのですが、全く手触りも感じませんでした。頬っぺたすべすべです。」
見た目も中身もぽかん、でしかない。
なんでか皮膚科医までが小声で聞いてきた。
「触った感じはどうでした?」
すると、中学生は震えあがった。
「さ、触ってないんです、怖くって、怖くって、」
「…そうなんですか?」
「だっ、だって、指喰われたら、イヤだ…」
「大丈夫、触ってみてください。」
皮膚科医は机の引き出しを開けて、泣きそうな、いやほぼ泣いてる中学生に小さな手鏡を渡した。「それで見て、ちよっと触ってみてください。大丈夫、私の指はついてます。そのコは指喰いません。」
確かにそうだ、皮膚科医はしっかり触っていたのに、指は全部付いてる。それはそうだろう。でもイヤだ、触りたくないこんなヤツ。
でも断れない、ムリなんだ。絶望、てこれなんだろうか…、
中学生は、小さな手鏡に映り込む自分の右頬に、いつからか居座っている赤黒い膨らみをそっと突っついてみた。
膨らみは、キュプといってちよっと捻れた。
「どうですか?」
皮膚科医が尋ねてくる。興味津々、な感じだ。
「キュプ、ていってくねりました。」
「…なんと、可愛らしい。」
皮膚科医の結論は様子を見ましょう、だった。
「せんせい」
「なんでしょう?」
「みえないし、きこえないし、さわってもわからないのに、…信じてくれるんですか?」
「あなたには、見えて、聞こえて、触れられるんでしょう?」
「…うん。」
「で、あなたは困ってここにきた。そして私は医者です。」
「はい…」
「あなたが私を訪ねて来たのだから、私は解決法を探します。治療です。」
「んー…、」
わかるような、わからないような。
すると、皮膚科医はこんなことを言い出した。
「みえないものでもあるのだよ、とか、大事なものは目には見えない、とか聞いたことないですか?」
「…ある。」
「此は概ね文学的解決案なんですが、あなたには現実そのものですよね。そこらへん文学的解決案の弱点なんです。現実での深刻度数が浅ければ、かなり有効なんですが、度数が深ければ深いほど、無効どころか真逆の効果を呼んだりする。絵に描いた餅症候群です。哲学的アプローチもまたしかり。宗教は似たように見えてあれは根本が違うので全く違いますね、」
皮膚科医はときに残念そうに、そしていつまでも話していそうなのだが、中学生は少し不安になった。
「ねえ、せんせい、」
声も少し大きくなった。
「もしかしたら自分以外の誰にも見えないのかもしれない。」
脳の散策を止め、皮膚科医が真摯に向き合って来た。
「そう。誰にも見えないのかもしれない。」
それからの皮膚科医の声はなぜかすごく暖かい気がした。
これは大事なことだと私はおもうので、ほぼ、私の感覚だけなのですが、聞いておいてください。
みえない、きこえない、かんじない、なら、それは無いのと同じ。という考え方があります。特にそれがモノなら余計に躊躇なく、です。これは人が生きていくための工夫のひとつです。時には使っていい手法だと思います。けれど、その手法を使っていいのは、事態に直面する本人だけで、見えないから聞こえないから感じないから、と、本人以外のひとがその手法を使う、若しくは使えと迫るのは、大きな間違いを産むと私はおもうのです。
「なんで、ここに出てきたんだろう…、」
自分の声を耳から聞いてしまったと思う。
「それが一番の難問と言えます。が、」
皮膚科医はまた話続ける。
「そもそも、意味は ないのかもしれません。」
「…?」
「そもそも森羅万象には意味がないモノの方が多いんじゃないか、と私は思いますよ。」
「意味がないのかなあ、」
「人は少し、意味はあるものだ、と思い込み過ぎるのでは、とも思いますけどね。価値がある、と意味があるは全然別のコトバで、意味と価値は関係ない。
原因がある、と意味があるも同じじゃない」
皮膚科医の持論を中学生はそんなに聞いてはいない。
それよりこいつが意味もなく出てきたのか?に囚われてしまう。
意味ないのか。
少し恨めしい気分になる。悩んだのに。すごく悩んだのに。
それに、まだ居るし。確実に居るし。
中学生が正しく忸怩てのに囚われてると、
皮膚科医は自分のマスクをとって、ちょっと実験してみたいと言い出して
「こんにちは!」と
満天の笑顔を人面瘡に見せてから、中学生に聞いてきた。
「…どうですか?」
「なんかきゅぷきゅぷって言って、ぷるぷるって震えた。で、なんかしゅわしゅわ、て。」
「で?」
「あれ?少し小さくなったかな?」
おお、やはり、と皮膚科医が唸る。そして
「笑顔が見たい、のかも知れません。」
とものすごくウレシゲな、またはスゴイどや顔をした。
「いっぱい笑って見てください、ひとを笑わせてもいいです!」
「…へ?」
やっぱりこのひとヘンな医者だなあ。
ヘンな医者がニッコリして言う。
「最近笑ったのはいつですか?」
あれ。そういえば、いつだろう。
「様子を見ましょう。」
と、もう一度皮膚科医は言った。もちろんもう一度ニッコリもして。
「あの子に白色ワセリンを少しあげて下さいな。」
診察室と調剤室を仕切るアコーディオンの後ろでずーっと立ち聞きしてた薬剤師は、その手のひらに指定されたモノをちゃんと乗せてる。
「もう用意してます。」
「ああ、仕事早いです。」
皮膚科医はピンクいろの蓋を開けて中身を確かめてる。
「…私のネイルオイルを一滴おまけしました。私物です。」
「うん、いい匂いです。ああと、今日は診察ではない、で。」
「はい。承知しております。」
名前を呼ばれて中学生はおずおずと立ち上がった。鞄のなかに財布はちゃんとある、でも中身は…。
「これ、お薬です。」
お姉さんはニコニコしてる。
いくらですか?てちゃんと聞かなきゃと思えば思うほどもごもごして口が動かない。
「今日は診察ではないので、お代はいいです。」
「え。」
「はい今日は全部タダです、はい。」
お姉さんはニコニコしてる。
「でも、なんかあったり困ったりしたら、またすぐ来て下さいね。」お姉さんが眉をひそめるようにささやく。
てにまだ手鏡を持ちっぱなしだった。
返そうと振り向いたら
、いいの、いいのそれもあげる と、お姉さんは笑った。
なんかすっかり気が抜けた、タマシイ抜けた感じ。鞄がやたら重い。学校どうしようかな。
ふと結局貰った手鏡を覗く。ヤツはちゃんと映ってる。やっぱりマスクはしておこう。そのとき、貰った薬の方も思い出した。
蓋を開けて、ちょっと指にとって、そろそろと手鏡に映るそれに塗ってみる。
すると赤黒い色が薄まり、柔らかいピンクになった。
ふふ、ふふふ。
なんか、ものすごく嬉しくなった。すごいいい匂いもするし。
ふふ、ふふふ。
顔も笑顔だ、にんまりてやつだけど。
きゅぷきゅぷ、クシュクシュクシュ。シュルシュルシュル
わかる。わかる手鏡の中。喜んでる。喜んでるよ。
ふふ、ふふふ。
はっと気がついた。こっそりマスクでそっと頬を隠す。
でもワケわかんないウレシさは止まらなくて、笑顔はしばらく続きそう。
これはマスクで、隠せないかもしれない。
ふふ、ふふふ。
九十九藻屑・① 中川さとえ @tiara33
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