第26話 時に泳ぐ人魚
「じゃあかしい、こちとらおどれに構っている暇なんざないんじゃあ!」
グヮンモドキが激しく光る拳を振り上げ、レンチョーに踊りかかった。そして、凄まじい威力を持つ右フックが、見事なまでにレンチョーに炸裂した。
レンチョーは、グヮンモドキのスピードに全く反応できていなかったのだ。
「あべっ!」
間の抜けた悲鳴を上げたレンチョーは、体全体が激しく吹き飛ばされ、壁際に崩れ落ちる。
「レンチョー!」
ウィーナは思わず声を上げた。散々偉そうな口を叩いていた先ほどまでの態度からは想像もつかないほどあっけないやられ方である。
「ウッキー! しょせんは口だけのザコ。四天王のグヮンモドキ様の足元にも及ばんでやんすよ!」
サル・マタが足を曲げて腰を落とし、頭上で掌をパンパンと叩いた。
「ヴィクト、氷属性の技で足の糸を凍らせて剥がせ。このモンスター、普通じゃない! 敵のパワーの源は頭だ、頭を潰せ!」
『了解した、助かる!』
ウィーナのすぐ隣では、ロシーボがヴィクトを生き延ばさんと、必死に分析した情報を送っている。
「……少しはやるようだな。準備運動はこれくらいで終わるとしようか」
頭の角が一本、ポッキリと折れてしまっていた。
「なんや、意味なく殺すのも後味悪いけんのう、生かしてやったちゅうのに、まだやられ足りないんか?」
グヮンモドキが面倒臭そうに振り返る。
「な、何だと貴様、この俺を甘く見ると命を落とすことになるぞ」
レンチョーは歯を食いしばり、眉間にしわを寄せた。
「ワイはそこの女神さんに用があるけえのう。お前が遊んでやりぃや」
グヮンモドキはサル・マタにレンチョーの相手をするよう、顎で促した。
「ウキー!」
サル・マタがこの上なく嬉しそうに笑いながらレンチョーの前に立ち塞がった。
「順番などどうでもいい。邪魔者は全て排除するまでだ」
鼻で笑ったレンチョーが、鎖をしならせる。
「ごたくはいいから、さっさとかかってくるでやんすよ」
「いいだろう、『技のデパート』と恐れられたこのレンチョーの奥義、見せてやるぜ」
レンチョーの持つ鎖が赤く光り、燃え上がった。
「エレメンタルチェーン!」
レンチョーが振り放った炎の鎖はうなりを上げてサル・マタをえぐらんと飛んでいく。
しかし、猿の如く素早い身のこなしで、サル・マタは次々と繰り出されるレンチョーの凄まじい
「おのれーっ! エレメンタルチェーン!」
攻撃が全く当たらないレンチョーが、怒りの表情をあらわにし、まるで馬鹿の一つ覚えのようにひたすら
さっき、自分のことを「技のデパート」と称していた割には他の技を使う様子が見られない。
最初は炎を帯びて燃え上がっていた鎖は、彼の掛け声によって、冷気、雷撃、果ては大地といった、様々な属性の力を宿して敵に襲い掛かるが、当たらなければ無意味極まりない。
「木のてっぺんのバナナを取るほうがまだ大変でやんすよ! ウキーッ!」
「ほざきやがったな、このクソザルがーっ! エレメンタルチェーン!」
あまりにも必死過ぎるレンチョーからは先ほどまでの余裕たっぷりのキザったらしさは微塵も伝わってこなかった。
「
ウィーナはヴィクトの様子が気になりながらも物怖じせずに、こちらへ歩んでくる四天王の一人に問いかけた。
ビギナズが背中の剣に手を伸ばして身構えるが、ウィーナはそれを制止した。
「話は力士から聞いたで。おどれらに助太刀したろう思ってのう。その時空の塔にはワイが入ったる」
グヮンモドキがサングラスを光らせて、唇を吊り上げた。意外な答えに、ウィーナは狐につままれたような気分になった。
「ウッキッキー! モンキーパンチスペシャル!」
そのとき、サル・マタの金切り声と同時に、彼の
「ほへえっ!」
レンチョーが奇妙な悲鳴を上げて、再び部屋の隅へと吹き飛ばされる。そして、周りで様子を見ていた冥王軍の兵士達に激突し、崩れ落ちた。
「こっちは加勢に来てやったというのに、まったく迎え入れる態度がなっていないでやんすよ」
サル・マタは目を細めて頭をパッパと掻いた。
『し、しまった! くそっ!』
通信機から、ヴィクトの危機が断続的に伝わる。
「そんならすぐ塔に行ってよ、今こちらの一番手がやられそうなんだ!」
ロシーボがテーブルに置いてあるチェンジバトンを手に取り、グヮンモドキに手渡そうとした。
しかしそのときである。
何者の仕業か、突然チェンジバトンが光を上げ、一瞬の内に凍結したのだ。
「冷たっ!」
ロシーボが思わず床にバトンを放り投げた。
ウィーナが巨大な顔面を凍りつかせる。
凍ったバトンが床に落ちたら、粉々に砕けてしまう。そうしたら、誰もヴィクトの元へ駆けつけることはできない。
「危ない!」
そのとき、横に立っていたビギナズが腹ばいに滑り込み、床に落ちる直前にバトンをキャッチした。
まさに危機一髪であった。
「何者だ」
ウィーナが声を上げて、バトンを凍らせた張本人の気配を感じ取ろうと周囲に感覚を張り巡らせる。
「ついに来よったな! ミズキ……」
グヮンモドキが拳を構え、戦闘体制になった。
すると、この地下室の中央、時空の塔への入り口がある扉。その真上から光が立ちこめ、一人の人物が姿を現した。
それは、上半身がミステリアスな雰囲気を持つ女性で、真っ青なイルカのような下半身を有する人魚であった。
金髪が背中の中央辺りまで長く伸びており、女性として理想的なスタイルの上半身をビキニ風の胸当てのみで覆っている。そして、青い瞳から発せられる視線からは明らかな敵意を感じ取れた。
「私は冥王四天王の一人、ミズキ」
人魚は下半身をぶらさげた直立体勢で、宙なめらかにをたゆたいながら言った。
「四天王は味方じゃないのかよ?」
ロシーボが手をこすりながら問いただした。しかし、その答えは言葉ではなく、攻撃として返ってきた。
ミズキの
細かい氷のつぶては、ウィーナの体を引き裂き、身も凍るような冷たさが傷口をえぐった。無意識に急所をかばっていたウィーナは、痛みを堪えて震える体を立ち上げる。
そのとき、ミズキの後方でも、今さっきサル・マタに吹き飛ばされたレンチョーが再び起き上がっていた。
レンチョーはエレメンタルチェーンに炎を宿し、今度はミズキの背後に踊りかかる。
「死ねえっ!」
しかし、ミズキはまるでこうなることが予め分かっていたかのように、後ろを振り向きもせずに尻尾を振りかざした。そして、長く太い尻尾で繰り出された素早く重いビンタが、飛びかかったレンチョーの横顔に炸裂した。
「ぶおおっ!」
変な悲鳴を上げて、レンチョーは吹き飛ばされた。そのまま冥王軍の兵士達と様子を見ていたサル・マタに衝突する。
「あなたたちの運命はもう決まっているわ。ここで力尽きるのよ。すぐに塔にいるあの男の後を追うことになる」
ミズキは真っ赤な唇を吊り上げて、妖しげに微笑えむ。
「何!? まさか」
『うわあああああっ!』
ウィーナがそう言った瞬間、手に持っている通信機からヴィクトの絶叫が漏れてきた。
「ヴィクト、状況はどうなっている?」
まるでウィーナは通信機に食らい付くかのように口を近づけた。
『体が、体が溶けた! 脚からです! 痛みはないけど、化け物が……』
「あああ……」
もはやロシーボは顔面蒼白で通信機に耳を傾けることしかできない。
「ヴィクト殿、自分が交代します!」
突如、ビギナズがヴィクトと交代しようと凍りついたチェンジバトンを握り締め、念じ始めた。
「よせ!」
ウィーナはすかさずビギナズの腕をつかみ、バトンを奪い取った。
「放っておけというのですか!」
ビギナズが感極まって訴えてきた。
「お前ではどうにもならん! ここは耐えろ。作戦中勝手に己の役割を投げ出すことは許されん」
それに、ビギナズを死なせないという、ヴィクトとの約束があった。
『駄目だ、申し訳ありません、もう私は助かりません!』
一体、ヴィクトがどのような状態なのか、ウィーナには確認する術がなかった。
「グヮンモドキ、受け取れ!」
ウィーナは、ミズキと向き合って何かの口論をしていたグヮンモドキにバトンをパスした。
「よっしゃあ、待っとったで! 見とれ、今お前の鼻あかしたるわ」
ミズキに罵声を浴びせたグヮンモドキは、バトンをキャッチすると、目をつぶって念じ始める。
『今来るな! 作戦がある! 俺があの蜘蛛に食われて、バトンが奴の腹の中に入ったらチェンジして、体内から奴を打ち破れ!』
通信機から、ヴィクトの大声が鳴り響いた。
「お前、正気か? 即刻交代しろ! 半身が溶けても再生する方法はあるはずだ! お前の後にはあの冥王四天王の一人が控えている!」
今のウィーナの思考はヴィクトを生かす選択肢を探すことに集約されていた。最高の魔力を持った術士が最上級の回復魔法を駆使すれば、それは不可能な話ではない。
『ああ、うわああっ! 金も名も人も遺せないのは、生き負けた定めかあああっ! 母さああああんっ!』
死を覚悟した割には、悔いと未練にまみれた末期の言葉だった。
母への悲痛な叫びを最後に、通信は静かに途切れた。
「ヴィクト……」
この冥界に彼と互角に渡り合えるほどの剣の使い手が一体どれだけいるだろうか。一方で文武両道を重んじており、歴史・法学・戦術論に関する深い知識を持ち、頭脳面での働きにも鮮やかなものがあった。
なにより、この青年はまだ若さがあふれ、未来があった。
ウィーナはこれでまた一人、貴重な人材を失ったのである。
「……ヴィクトの反応が敵の反応と同化していきます。かわいそうに、敵に食われてるんだ……」
ロシーボが、ミズキの攻撃で床に散乱したぐしゃぐしゃの筆記用具を、静かに黙々と拾い上げた。
そのときウィーナの耳に、あの人魚の楽しそうな、それでいてこちらを蔑む笑い声が入ってきた。
「これは私の用意した未来。私は時を見通す力があるの。あなた達が時空の塔に入ることは予め分かっていたわ」
ウィーナは苦々しい感情を湛えながら歯を食いしばった。ミズキは妖艶に微笑んだまま言葉を続ける。
「……だから、あなた達の一番手より強い戦闘力を持つモンスター、『ファイティング蜘蛛お化け』をあらかじめ召還したの。面白いように簡単に引っかかったわね」
ウィーナは諜報部の恥骨の言葉を思い出した。四天王には未来を予知できる者がいる。
それは、まさに目の前にいる人魚のことだったのである。
「そして、私には見える。冥王が死に、私が新たな冥界の女王となる輝かしい未来が」
「何が輝かしい未来や、何でワイをその計画から仲間はずれにしたんじゃ!」
グヮンモドキが怒り心頭の様子でミズキに食ってかかる。
「だってあなた、四天王で一番弱いし、口も軽いから使えないのよ」
「黙らんかい! 見とれ、今から時空の塔を駆け上がって、おどれの計画を打ち砕いたるわボケ!」
グヮンモドキがチェンジバトンを高く掲げると、甲高い猿のような鳴き声がふいに聞こえてきた。
部屋にいる全員の視線が声の方へ集中する。
そこには、レンチョーがサル・マタを羽交い絞めにし、喉元に兵士から借りた剣を突きつけていたのだった。
「グヮンモドキ、お前は今からその人魚と戦え! 塔に入るならこの猿野郎の命はないと思え!」
「グヮンモドキ様、ドジッちまったでやんす、トホホでやんす。バナナ食いたいでやんすウッキー」
爬虫類の流れを汲むレンチョーの冷ややかな瞳が怒りで燃えていた。
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